後編
諸々の準備を整え、一週間後、松代は安藤の屋敷を訪ねた。何度か来たことのある屋敷は相変わらず浮世離れした雰囲気があり、背筋が自然に伸びた。歳をとった執事に通された座敷で待つこと数分、すっと襖が開き、この屋敷の主が現れた。
「お待たせいたしました。あら?」
葉月は目をぱちくりとさせた。それもそのはず、目の前にいる男は先週会った男とはまるで別人のように容姿が変わっていた。とても服役していたとは思えないほど、上品な紳士だ。
「うふふ、随分と印象が変わりましたのね。その方が、松代さんらしいと思います」
にこやかに微笑む葉月に対し、松代も口を開く。
「そういう安藤さんこそ、先日お会いした時とは随分と印象が違いますね。なんというか、堂々としている」
「そうでしょうか? ですが、大切なお客様をお迎えするのに粗相があってはいけませんでしょう?」
そう言って微笑む葉月は先日のような洋装ではなく、黒地に小花を散らせた和装だった。葉月は座布団の敷かれた所定の位置に正座をし、松代に向かって深々と頭を下げた。それに合わせて松代も頭を下げた。生活音の全くしない屋敷の奥、その客間。互いの衣擦れの音だけが耳に残った。
「松代忠仁様、ようこそおいでくださいました。改めまして、当主の安藤葉月でございます。と、堅苦しいお話は抜きにして、お返事を聞かせてくださいませ♪」
顔を上げ、にこりと微笑む葉月は先ほどとは打って変わって少女のようだ。先日もそう思ったところだが、本当に葉月の表情の変化には驚かされる。
「安藤さん、あなたに協力するのはやぶさかではないと思っています。ですが、内容も聞かされず大金だけ渡されても正直困ります。あなたは私に何をさせたいのですか? まずはそこからでしょう」
松代はあえて厳しいことを言って、葉月がどう出るのか見てみたかった。葉月は松代に「力になってください」と言った。お悩み相談だとかその類のものならば誰にだってできること。だが、葉月は親の仇とも言える松代に助力を願った。返答次第では通帳を返して去ることもできる。そう、これはビジネスなのだ。
葉月は松代の問いに俯き、口を手で覆った。そして、笑った。
「本当に、おじい様の言った通りのお方」
「おかしいですか?」
「いいえ。思った通りのお方でよかった。と思ったのです。気分を害されたのでしたらすみません。ええと、お仕事についてでしたね。ちょっと失礼します」
葉月はそう言い残して席を立った。離席したのは1分少々だったが、戻った葉月はその手に2種類の茶封筒を持っていた。
「まず、こちらを松代さんに。どうぞご確認ください」
松代はそれを受取り、中をのぞく、中には3種類の鍵が入っていた。そして確認して葉月を見る。葉月は自分をからかっているのだろうか、ふとそんな考えが浮かび、苛立った。
「私は仕事の話をしているんです。これはただの鍵でしょう」
「ええ、鍵です」
「あなたは私を揶揄っているのですか!?」
「これが仕事、あなたにお願いしたいことです。1つはこの屋敷の鍵、もう1つは離れの鍵、こちらにお部屋を用意いたしましたので、お住まい下さい。もう1つは車の鍵。さて、もうお分かりでしょう?」
松代はもう一度封筒の中を覗いた。この中身が意味すること、それは恐らく葉月に仕える。ということだろう。だが、全てを失った男にどうしてここまでするのか。葉月に初めて会った日から今日まで考えた。いくら葉月が祖父から頼まれた。とは言っても、やはり簡単に理解できるものではなかった。
「教えて下さい。あなたはなぜ私にここまでするのですか?」
松代はそう問うた。
「私も1つ教えて下さい。なぜあなたはやってもいない殺人を認めたのですか?」
質問に質問で返すのはどうかと思ったが、今この場で強者は葉月だ。物理的に何かしたとしても、葉月が一言何かを言えばすぐに誰かがやって来て自分は呆気なく取り押さえられるだろう。馬鹿をみるのは嫌だ。かと言って過去を語るのも嫌だ。だが、葉月の目は真実を語れと言っている。
「……嫌になった。何もかもが嫌になった。真実を訴えたところで、誰も信じてはくれなかった。最初は信じてくれた奴もいた。だがそいつらは簡単に汚い金に買収された」
松代は膝の上に置いた拳をぎゅっと強く握りしめた。悔しい。悲しい。辛い。憎い。あの時の感情が甦ってくるようで、拳を握りしめることで耐えた。上手い話には裏がある。あの時の自分には怖いものなど何もなかった。たとえ裏があったとしても、切り抜けられる。そう思っていた。だから、あいつらの話に乗った。その裏が予想以上に大きいものであると知ったのは、手錠がかけられた瞬間だった。
「お辛い思いをされたのでしょうね……」
「ええ、空から一気に地上に叩き落されるような気分でした」
何日、何時間にも及ぶ取り調べに心は折れた。もう逃げたい。こんなこと、耐えられるものか。楽になりたい……。そして松代は自分に被せられた罪を認めたのだった。それでも多少は情状酌量の余地があったとみえて、極刑は免れた。控訴はしなかった。判決を覆せるだけの材料がなかったからだ。もう全て闇に消されてしまっていた。
「憎い、ですか?」
「憎い、です。全てを奪ったやつらが、のうのうと暮らしている。その間、自分は薄暗い場所で耐えてきたんです。だが、今の自分には復讐をする力もない、情けないものです」
自嘲気味に笑う松代に葉月は「そうですか」と一言つぶやき、背筋をピンと伸ばし居住まいを正し、まっすぐ松代を見つめた。
「あなたのその無念、私でしたら晴らすことができます。あなたは「どうしてここまでするのか?」とおっしゃいました。それは、祖父に言われたからです。あなたを頼るようにと。でもそれだけではありません。あなたに興味を持ちました。それに、私自身があなたを必要と思ったからです。あなたは忍耐を知っている。それに、ビジネスの才もおありですよね。私はこの世界ではまだまだ新参者です。きっとこれからも私を試すような輩が現れるでしょう。ですが、私はつぶれるわけにはまいりません。松代さん、私に力を貸してはもらえませんか?」
葉月は改めて松代に問うた。こんなヒエラルキーの底辺にいる男を必要としてくれるのであれば、そして無念を晴らしてくれるのであれば……。松代は畳みに額を擦り付けるように深く頭を下げた。
「お顔を上げてください。ご紹介したい人たちがいますので」
顔を上げて見た葉月の表情は、少しほっとしたように、穏やかに微笑んでいた。そして、視線を松代の後ろに向けた。
「小百合さん、みどりさん。いらっしゃるのでしょう?」
葉月が僅かに微笑みながら閉まったままの襖に目をやると、スッと襖が開き、そこから2人のスーツ姿の女性が現れた。
「ばれちゃった」
「さっすが葉月っしゃん」
「うふふ。お褒めいただき光栄です。あぁ、紹介いたしますね。こちら、日々谷警備保障の日々谷社長と事務の坂木さん。で、こちらが私の仕事のお手伝いをしていただく松代さん」
それぞれ葉月に紹介され、2人と1人は向かい合ってお互いに頭を下げた。
「今日お呼びしたのは小百合さんにお願いごとがあって」
前置きをして、葉月は横に置いておいた茶封筒から3枚の写真を取り出し、それを神代欅の一枚板で作られた座卓に並べた。
「こ、これは……」
一番に反応したのが松代だ。それもそのはず、忘れるわけがない。松代にとってこの3枚の写真に写る3人の男はかつて自分を陥れた者たちだったからだ。
「悪いことをした人はそれなりの報いを受けなければなりません。小百合さん、これが私のお願いごとですが、受けていただけますか?」
「ご依頼であれば」
「ちょ、ちょっとお待ちください!」
松代は焦った。恨んでいると伝えたのは数分前だ。自分がどう答えるか、それを分かっていたというのか!?
「松代さん、あなたのことは調べさせていただいたと申し上げましたでしょう? それに私は言いましたよね? あなたの人生を買い取らせてくださいと。あなたの人生を買い取った以上、あなたの受けた苦しみは私の苦しみでもあるのです」
穏やかな表情をしながら、こんなに恐ろしいことができる女、それが安藤葉月だった。
「安藤さん……、いや、葉月、さま……」
「これと思った者には、これ以上ないほどの礼を尽くす。それが、私が祖父から受け継いだことです」
葉月は微笑み、松代は葉月の思いに涙を流した。そして葉月は表情を戻すと次は小百合とみどりと向き合った。
「小百合さん、この件についての報酬ですが……」
「ダイジョウブ! 電卓持ってる!!」
みどりが鞄から電卓を出そうと手を突っ込む前に葉月は続けた。
「無償でお願いします♪」
「え……」
「はいはい、無償ね、って、む、無償??」
「あ、あの。どういうことです?」
葉月の言葉に何か裏がある。そう気づいた小百合だったが、その先を促した。
「この件に安藤のお金を使うわけにはいきません」
その場にいた3人は絶句した。先ほど、自分の苦しみでもある。と言ったのは他ならぬ葉月だ。それなのに、一体何を言い出すのか、と。
「その代りと言っては何ですが、今後、日々谷警備保障が活動していく上で、それに係る資金面の援助をさせてくださいませんか? ビルの賃借料、土地代、あぁ、銃火器も必要ですよね。あぁ、制服も欲しいですよね♪ その他諸経費も含めて3分の2を私がお支払いします。さすがに全額払ってしまいますと、私の会社になってしまいますもの♪」
ほほほ。と朗らかに笑う葉月に、小百合もみどりも笑うしかなかった。ただ松代だけは、本当に恐ろしい女だ。と心底思うのだった。
それから数年が経った
「はい。どうぞ♪」
「え……」
よく晴れた空の下、葉月は公園のベンチに座り、先ほど買ったあんまんを2つに割って、大きく割れた方を松代に差し出した。
「いえ、あの私は……」
「間食が過ぎると太りますって言ったのは松代さんですよ? 2人で食べてしまえば共犯です♪」
そう言って笑う姿はやはり幼い。
「では、遠慮なく」
松代は葉月からあんまんを受け取り、ひとくち頬張った。口の中に甘さが広がる。ちらりと葉月を見れば、幸せそうな顔であんまんを頬張っている。その表情にこちらまで顔が緩んでしまうのは仕方がないことだ。だが、ここにずっといては次の予定に遅れてしまう。
「葉月さま、あまり長居をされるとお風邪を召してしまいます。それにお時間が」
「ありがとうございます。戻りましょうか」
「ごちそうさまでした♪」と言いながら立ち上がった葉月が駐車場へ向かって歩き出すと、その後を一定の距離を保って松代が続いた。広場を抜けて、駐車場へ向かう緩やかな坂道に差し掛かった時だった。
「あっ」
小石に躓いた葉月は咄嗟に声をあげた。
「葉月っ!」
転倒しそうになったところを松代がしっかりと後ろから葉月を抱きとめた。
「し、失礼しました」
名前で呼んでしまったことに慌てて謝罪をするが、葉月はそのことについては何も言わなかった。
「も、もう大丈夫、ですから」
だが松代はその手を緩めなかった。
「……許して欲しい。こんなことしか私にはできない……今日だってそうだ。あいつが腕を振り上げた時、何もできなかった……」
数時間前に葉月は命を狙われた。その場にいながら動けなかった自分に対し、日々谷の警備員の行動は素早かった。葉月は苦しそうにそう言う松代の手にそっと自分の手を重ねた。
「彼はそうなることを予測して来てくれました。それが彼らの仕事。そして、その危険と隣り合わせにいるのも私の意志。だからあなたが謝ることは何もないのです。自分を責めないで下さい」
葉月は松代から体を離し、向かい合った。
「……でももし、もしも私が何もかも嫌になって逃げたくなった時、私と一緒に逃げてくれますか?」
松代は葉月の言葉にゆっくりと頷く。
「心も体も、好きに使えばいい。葉月さまがそう願うのならば、どこへでも」
葉月は僅かに頬を赤らめ、はにかんだ。
「では、その時はよろしくお願いします。忠仁さん」
松代は分かっている。そんな日はきっと来ない。葉月は強い。ちょっと捻れば折れてしまいそうな細い腕、華奢な身体。だが、見た目に反して葉月は心の強さを持っている。今日だってそうだ。命を狙われたというのに、眉一つ動かさなかった。そんな肝の座った少女が「逃げて」なんて言う日は来ない。
松代は来た時と同様、葉月の後ろを一定の距離を保ち続く。
葉月は松代の主であり、松代は葉月の従者だ。この道を選んだ以上、このわずかに開いた距離のように、2人の道が交わり、1つの道になることはないだろう。あまり考えたくはないが、もし葉月が日々谷の誰かと深い関係になったとしたらなおさら。だがそれでもいい。たとえ交わることはできなくても、雨の日は傘となり、足元がぬかるんだ日は杖となって、ずっと一歩下がって支えることはできる。
主であり、最愛の人を――。