前編
ある日のこと。
「あっ、コンビニ! コンビニに寄って下さい! あんまんが食べたいのです!」
松代の運転する黒塗りの乗用車の後部座席で葉月が叫んだ。
「間食が過ぎると太りますよ?」
「ちょっとくらいはいいでしょう? ダメ?」
葉月の下に来て5年が経つ。安藤葉月という人物については誰よりも知っているという自負がある、それに葉月の行うことに助言をする役目もあり、時には意見してしまうこともあるのだが、この葉月のお願いにはめっぽう弱い。
今日はこの後、ある会社の役員と会食の予定が入っている。だから間食はして欲しくないのだが、松代は折れた。
「ちょっと行ってきますね♪」
車を停車して、後部座席のドアを開けようと運転席から降りると同時に葉月は自分からドアを開けてコンビニエンスストアに入っていった。その動きは素早かった。
あんまんが食べたいのなら、言ってもらえれば中華街だろうが銀座だろうが有名な店から取り寄せるものを、葉月はどういうわけか、コンビニやスーパーのような庶民が行く店を好む。まるで子供のようでもある。そんなことを車の横に立ちながら考えていると、ビニールの袋を片手に、葉月がコンビニから出てきた。満面の笑みを浮かべて。
「松代さん、次の予定まで時間がありますか?」
「はい。多少は」
「よかった。少しお話をしませんか? お天気もいいことですし、どこか公園でも」
「承知いたしました」
葉月の申し出に、松代はひとことそう答え、駐車場から出るとウインカーを左に点灯させた。
今から15年も前の話だ。
安藤葉月は幼くして両親を亡くした。病死などではなく、殺人という行為によって、一晩にして肉親を失い、葉月は幼くして孤独の身となった。
周囲は葉月を置いて、葬儀の準備に追われた。警察も自宅に出入りする状況で、何もできない、何もすることのない葉月は、ただじっと縁側で膝を抱えながら、忙しなく動き続ける人の流れを見ていた。時折、誰かが声をかけてくれたが、とくに会話と言う会話もしなかった。それもあってか、必要以上に葉月に話しかける者もいなかった。
「……ここにいたのか」
ふいに聞こえたずっしりと重たい声に、葉月ははっと顔を上げた。声の主は、着物に羽織を羽織った見たことのない、恰幅のいい老人だった。葉月は「誰なのだろう?」と首を傾げ、その人物を見上げた。ただ何も言わずに自分を見上げる葉月にその老人は冷めた口調で言った。
「客人に挨拶もできない。あやつらはそんな娘に育てたか……」
がっかりしているような、どうせそんなものだろう、とでも言うような2つの目が葉月を見下ろし、その冷たいような厳しい視線に葉月は居住まいを正し、深く頭を下げた。その視線を本能的に怖いと感じたからだ。
「よ、ようこそ、おいでくださいました。あんどう、はづき、です」
母親のしていたことの見様見真似でした挨拶がこれだった。特に褒められもしなかった。
その老人は自分は葉月の祖父だと名乗った。
両親から祖父の話は一度も聞いたことがなく、その存在すら知らなかったが、屋敷の使用人たちは襟を正し、揃って老人に深々と頭を下げていた。それを見て、それが自分の祖父であるとすぐに信用はできないものの、それなりの人物であることは幼い葉月にも理解できた。
祖父は葉月の様子を見て、その日は帰って行った。そして、葬儀が終わると、葉月は祖父に引き取られた。
祖父は葉月を学校に通わせながら、家では『お金』について厳しく教育をした。『お金』の大切さから、使い方まで、「お金なんて見たくない」と思うほどに徹底した教育だった。そしていつも言った。
「葉月、金は人を狂わす。人の汚い部分を暴き出す。だからこそ、我々は金に呑まれてはならない」
と。
祖父の教育はお金だけにとどまらず、人との付き合い方、人を見極める力をつけること、礼を尽くすこと、そこまでに及んだ。どうしてそこまで徹底するのか、葉月には分からなかったが、葉月は祖父の言葉に従った。言葉にしなくても、相手を従わせる力が祖父にはあった。そして、そんな祖父が亡くなってからやっと、葉月は祖父の真意を知った。
祖父が葉月に残した遺言――、祖父は葉月に教えたかったのだ。息子、即ち葉月の父のようになるなと。
祖父は後悔していたのだ。自分のようになるよう育てたはずだった息子は、欲に目が眩み道を誤った。何とか軌道修正を試みても、一度金に呑まれた息子は親であった祖父を煙たがり、親子は疎遠になっていった。葉月が祖父を知らなかったのも、そんな経緯があってのことだった。
祖父は息子を見限り、自分の跡を継ぐに足る人物を探した。そして、見つけた。少々甘い所はあるものの、人を見る目は確かな上、真面目だ。自分の跡を継げるような男になるよう、祖父はその男に特に目をかけた。だが、それは結局適わなかった。その男は、ある夫妻を殺害した犯人として逮捕、収監された。
だが祖父はその男を諦め切れなかった。自分がいなくなったあと、葉月を守り、導いていくのはこの男以外には考えられなかった。
その相手とは父でなければ母でもない、1人の男だった。その男の名は、松代忠仁。葉月の両親を殺したとされる人物だったのだ。
「うそ……」
どうして両親を殺した人が自分の頼るべき相手なのか。驚きはしたが、不思議と彼を恨む気にはならなかった。元々葉月は、仕事仕事でほとんど家にいたことのない両親から愛情というものを受けたことがなかった。誕生日も、クリスマスも、プレゼントはあったが、そこに両親はいなかった。
自分を冷めた性格だとは思っていないが、そんなこともあり、葉月自信も両親に対し、特別な思いはなかった。言ってみれば、ただの戸籍上の関係のみだ。自分に厳しかった祖父の方がよほど愛情があったのだと後になって思う。だが、現実問題として、祖父が亡くなった以上、誰かがこの家を、家業を継がなければならない。祖父が頼りにした男は収監されていると聞く。両親もすでにこの世にいない。となると、安藤の直系は葉月だけ。祖父もそれを見越して葉月を引き取ったのだから、葉月が取るべき道は一つだけだった。そして、年が明け、葉月は安藤の当主となった。
男はぺこりと頭を下げて厚く高い壁に囲まれた建物を出た。時刻は朝の8時すぎ。これから出勤するサラリーマンや登校する子供たちが行き交う時間帯だが、子供たちの声が聞こえることもなければ、男の立つ周囲に人気もない。この場所が異質――
あれから10年という年月が流れた。得たものより失ったものの方が圧倒的に多い10年だった。肉が削げ落ち、だいぶ緩くなったズボンにワイシャツ、少しよれたネクタイに同じく少しよれたジャケット、白いものが増え、中途半端に伸びた髪の毛に無精髭、左の手首にはその服装にはそぐわない高級な腕時計、そしてスポーツバッグ一つを片手に、男は外の世界へ一歩踏み出した。
外へ出て、一番はじめに確認したのは周囲に人影がないか、だ。
「いるわけ、ないか」
よくテレビや映画で見るような、誰かが自分を待っている。そんな光景はなかった。親はどうしているだろう? かつて仲間だった者たちはどうしているだろう。しばし考え、そして男は考えることをやめた。誰も来るわけがない。親は死んだのだと獄中で聞かされた。かつての仲間たちは自分を陥れ、のうのうと暮らしている。自分だけが過去に置き去りにされたのだ。止まることのない流れの中で、自分だけが切り取られ放置されていた。そんな感じか。
空は清々しいほどに青く、ところどころに綿雲がぽつぽつと浮かぶ。心はどんよりと曇り、視界不良だが、男は速足で歩き出した。どこへ行くのか、行き先は決まっていない、とにかく薄暗く、淀んだ重たい空気が停滞しているようなこの場から離れ、久しぶりに自由に陽の光を浴びたかった。
この時、気づいていなかった。誰かが自分をつけていることに。
電車に乗ろう。男は駅に向かった。券売機には「チャージ」という見慣れぬ単語があった。切符の買い方も新しくなっている。ああ、ここでも自分は置いてきぼりか。まるで浦島太郎だと自分の境遇を笑う。
売店で新聞を買った。スポーツ新聞ではなく、経済新聞。こんな人間の底辺に身をやつしても、かつては青年実業家と呼ばれ、それなりの暮らしをしていた。目をかけてくれていた人もいた。常に株価の動向をチェックし、時代の先端を走っていた。ついつい経済新聞に手を伸ばしてしまったのはその頃の癖だ。
新聞を片手に電車に揺られる。電車の車両も自分が知るものではない。たかが10年、されど10年。目に入る世界は目まぐるしく変化をしたのだろう。窓から見える景色も随分と変わったような印象を受ける。あったはずの建物がなくなり、高層ビルが立ち並ぶ。さて、これからどうするか。時代に取り残された自分が再びやっていくことができるのか。
目的もなく、行く場所もなく、ただ電車に揺られるのも飽きた頃、男は電車を降りた。知っているはずの知らない土地。そういえば、昔よく通っていた喫茶店がこの近くにあったか。と思い出した。もう存在していないかも知れない。だが、久しぶりにあの喫茶店の美味いコーヒーが飲みたい。薄いインスタントコーヒーでなく、厳選した豆を使い、一杯ずつサイフォンで淹れるコーヒー。あの動きを見ているのも好きだった。
行くだけ行ってみよう。男は記憶を頼りに歩き出した。
大通りを歩き、そして路地に入り角を曲がる。
「確か、この辺だったよな……」
割と記憶力はいいと思っていたが、やはり周囲の環境は変わっている。当時は雑貨店や飲み屋があったと思ったが、それらはシャッターで閉ざされている。大通りに商業施設が多くできたこともあって、この辺りはすっかり寂れてしまったようだった。男はきょろきょろと寂れた路地を歩いた。すると、前方に蔦の絡まる建物が見えた。シャッターは下りていない。遠くからでも灯りがついている。男はわずかに口角を上げ、速足でその建物に向かった。
懐かしい。男はドアノブに手をかけ、中へ入った。年代物のドアチャイムがカランカランと音を立てた。
「いらっしゃいませ。空いている席にどうぞ」
初老の男がカウンターから声をかけた。知らない男だった。代変わりしたのか、経営者が代わったのか。よくあることだ。
空いている席に、と言われ見回すが、客はいなかった。最近では海外のコーヒーショップが日本に進出してきていると聞く、気軽さや、コーヒーの種類が豊富なのが受けているのだそうだ。こういう昔からあるコーヒーショップというのは、一部の人間しか通わないのだろう。
男はお気に入りだった席に腰を下ろした。テーブルも椅子も、あの頃と変わらない。自分を置いて目まぐるしく変化する世の中で、変わらないものがあるのだということに男は安堵のため息を漏らした。
おすすめ。と書かれたブレンドコーヒーをオーダーして、男は駅で買った新聞を広げた。政治家が失言をして辞職した。だとか、企業が倒産しただとか、書いてある内容はいつの世も変わらないが、分からない単語が多くなったことに驚いた。なんでも電子、電子だ。駅でもそうだった。電子マネーというやつだ。これから生きていく上で、こういったことも覚えていかないと、本当に置いてけぼりになりそうだ。面倒な世の中だ。苦笑いを浮かべたところで、コーヒーが出された。
カップに注がれたコーヒーから立ちのぼる湯気を吸い込む。独特のほろ苦い香りが鼻孔をくすぐり、思わず笑みが零れる。いい香りだ。そしてコーヒーを一口、含む。美味い。あの施設で朝食を摂って以降、この日初めて口にしたコーヒーは、うんと上手く感じた。不味いコーヒーに慣れてしまったというのもあるかも知れないが、苦味、酸味、香り、どれをとっても満足のいくものだった。二口目をすすろうとした時、ドアチャイムが鳴り、一人の客が現れた。
男の座る席からは入り口がよく見える。自分と同じように、美味いコーヒーが飲みたくて来た客なのか、それとも全く別の目的なのか。目的は分からないが、一つだけ言えること。その客は、この店には些かそぐわない、二十歳前後の女性だった。
身長は高くなく、どちらかと言えば低いくらいだった。ストレートの黒髪は艶があり、手入れが行き届いている。きっちりとボタンと留めた白いブラウスにパステルカラーのカーディガンと、長めのスカート。見るからに、いいとこのお嬢さん。そんな印象を受ける女性だった。
女性はきょろきょろと周囲を見回した。当然ながら、その動きを新聞越しに見ていた男と視線が合った。男は、咄嗟にその視線を逸らしたが、女性は迷うことなく、男の元へやってきた。
「松代忠仁さん、でいらっしゃいますか?」
男の座る席の前まで来て、女性は神妙な面持ちで口を開いた。
「そうだけど、何か?」
「あのっ、私、あなたにお話したいことがあって……」
この女性とは全くの初対面だ。男――、松代からしてみれば、こんな知り合いはいない。マスコミか? そう思ったが、そうでもないような気もする。現に、彼女はそう言ったまま、次の言葉を紡ぐのにあれこれと考えている様子がうかがえたからだ。記者であれば、もっと堂々としていて、物怖じもしないだろう。おまけに、よくよく見れば、少女と表現した方がいいのではないかと思うくらい幼い。
「座ったら?」
自分が何か言わなければ、ずっと立ったままでいるつもりなのだろうか、こうしていても埒があかないと、松代は、顎をくいっと前に出し、着席を促した。
「失礼します……」
そう言って、対面の席に座ったものの、彼女は何も話し出さない。堪らずにため息を漏らせば、彼女はびくりと肩を揺らした。
「話って何? 話があると言ったのは君のほうだ。何か言ってくれなきゃ、困るんだけど」
少々、棘のある言い方になってしまったが、松代がそう言ったことで、彼女も意を決したようにごくりと唾を飲み、持ってきたポシェットから茶封筒を取り出し、松代の前にすっと差し出した
古びたテーブル上、マニキュアをしなくても可愛らしい爪、そして白い指先からそっと差し出された茶封筒はどこにでもある、ごく普通のものだった。
「中を、改めてください」
言われるまま、手にとって中を覗いてみた。中には、通帳が二冊、そしてキャッシュカードが二枚、それから印鑑が一つ入っていた。取り出して通帳に記された名前を見ると、自分の名前が書かれていた。さらに、通帳を開けば、ありえない額面が記載されていた。念のため、もう一冊開けば、そちらにも同じ内容の記載があった。
「これは……」
突然現れた少女、そして突然手渡された通帳、法外な金額。まったく意味が分からない。金は欲しい。これから仕事をするにしても、金はかかる。手持ちだけではなんともならない。だがこれはあまりにも……松代はそれらを封筒にしまい、少女につき返した。
「君からこんなものをもらう謂れはないんだけどね……それにアンタ、誰? アンタみたいな女の子の知り合いはいないよ。慈善活動にしては金額が馬鹿げている」
松代は不機嫌だと言わんばかりに少女に言った。だが少女は、先ほどとは違い、冷静だった。
「理由が必要。ということでしょうか? でしたら、あります」
「じゃあ教えてもらおうか」
「安藤惣之助という男をご存知でしょうか?」
そう問われ、松代の脳裏に一人の男が浮かんだ。かつて自分に目をかけてくれた男の名だった。
「安藤より、これをあなたに、と」
少女はしっかりとした口調でそう告げると、また封筒を松代へと差し戻した。
「いや、だからって……それに、アンタは……」
「申し送れました。安藤惣之助の孫娘、葉月と申します」
「え……」
松代は深々と頭を下げる葉月の言葉に絶句した。安藤惣之助は自分に目をかけてくれた男であり、尊敬する相手だ。と同時に、安藤葉月は自分が殺害した夫婦の娘ということになる。恨みを晴らしに来たのであれば話は分かるが、いくら祖父に頼まれたとは言え、親の仇に大金を送るだなんて、正気の沙汰ではない。
「お、おかしいだろう? な、なんでアンタが俺に……」
松代の言葉に葉月は顔を上げた。そして、深呼吸を1つして、松代を見つめた。
「私には父も母もおりません。あなたを恨む理由も、憎む理由もありません」
「いや、いないって……そんなわけないだろう」
ますます訳が分からない。だが、葉月の目を見る限り、嘘をついているようにも見えない。
「祖父から。と言っても受け取ってはもらえませんか?」
松代は受け取れずにいた。理解が追いつかない。というのが正直なところだった。そんな松代の様子を見て、葉月は僅かに微笑んだ。馬鹿にしているのではなく、昔を懐かしむような、そんな表情だった。
「祖父は本当にあなたを大切に思っていたのでしょう。だって、おじいさまったら、病院のベッドでもあなたのことを言うのです。私がこれから頼るのはあなたであると。失礼かとは思いましたが、私はこの通帳をあなたにお渡しする為に、あなたのことを調べさせていただきました。私はこの世界ではまだ未熟です。あなたがどういう方であるのかも分かりません。ですが、おじい様にそこまで言わせる方には興味があります」
松代は葉月の言葉を黙って聞いていた。
「ですから、私は安藤惣之助の代わりに、これを受取ってもらわなければなりません。それが、祖父の後を継いだ私の責務なのです。もし、躊躇われるのでしたらこういたしましょう。あなたのこれからの人生を、これで買い取らせて下さい」
「はぁっ?」
黙って聞いていたが、さすがにこの葉月の発言には声をあげた。
「あなたなら、ご存知のはずです。金銭がどれほどの力を持っているかを」
弱さすら感じるこの少女のどこに? と思ってしまうような威圧感があった。というより、何か恐ろしいものの片鱗を見た。そんな気分だ。まだ出会って1時間も経っていないというのに、葉月のこの一言で、松代の葉月に対する印象ががらりと変わった。浅はかで、思慮深くもない、いわゆる軽い奴。そんな奴ならば葉月を利用しようとするだろう。上手く取り入って金銭の流れを自分に向けさせるかも知れない。数十分前であればそれができたかも知れない。だが今は違う。今の一言を放つ葉月の目は、酷く大人びて見えた。そして松代は自身の背中がじっとりと汗ばむのを感じた。
「偉そうなことを言ってすみません。ですが私は、あなたを知りたいと思います。そして、おじい様が見込んだあなただからこそ、力をお借りしたいと思い、家の者にあなたを尾行させ、こうしてやってまいりました。松代さん、どうか、未熟な私の力になってくださいませんか? あなたの力が必要なのです」
葉月は深々と頭を下げた。そして最後に「お返事、お待ちしております」と言って席を立った。その姿に先ほどまでの威圧感はなく、ぺこりと頭を下げる様はごく普通の少女だった。
「バケモンか……? 若いからって油断していたが、さすがはあの爺さんの孫だ」
ははっ、と軽く笑って、動揺を隠した。こんな姿を誰かに見られなくてよかった、と心底思った。
さて、じゃあ自分はこれからどうするか。松代の心は既に決まっていた。
葉月の少女から大人へ、平凡な少女から金の主へとあっという間に変貌を遂げる姿に興味がわいた。そして、あの人が大切に育てたであろう葉月の行く末を見守るのもいいかも知れない。あの娘がどれだけのものか、見極めたい。金に目が眩んだか? そう言ってしまえばそうかも知れない。これだけの額をこの先稼げるかと言えば難しいだろう。もらった金で事業を始めるにしても、自分に与えられた時間は短い。おまけにゼロではなく、マイナスからのスタートなのだから。
松代は席を立ち、喫茶店を出た。
まず取るべき行動を考え、刑務所内の労働で得た10年分の賃金を元に、スーツを一揃え購入し、それに着替えた。そして美容院に行き、歯医者にも行った。そして出来上がったものは、どこをどう見ても刑務所帰りとは思えない、役付きの会社員と言って通りそうな、松代本来の姿だった。さすがに重ねてしまった歳は誤魔化せないが。