僕が世界を変えてみせるから。8分待ってて
ナイフ。ツイッター。14歳
少年は渋谷のスターバックスでキャラメルラテを飲みながら計画を練っている。
ちょっと危ないことをしようというわけだ。そう、少年のナップサックのなかにはナイフが入っている。刃渡り二〇センチのハンティングナイフだ。そのナイフで少年は事件をおこそうというのだ。それとも勇気がなくナイフをナップサックのなかに入れて渋谷を歩くということだけが、甘い体験として少年をうっとりさせるのかもしれない。
本当に僕は何者なんだ、と少年は思う。
耳にはiphoneからのノイズキャンセリングのイアフォンが繋がっている。聴こえてくる音楽はエリックサティのピアノ曲だ。少年はiphoneのtwitterのアプリを眺めている。次々とツイートが流れてくる。意味のない誰かのつぶやき。そして詩のような誰かのつぶやき。宣伝や芸能ゴシップ。まるでテレパシーで人の脳のなかの声が聞こえるようだな。
服が降ってくる。ネクタイが降ってくる。靴下が降ってくる。ドレスが降ってくる。帽子が降ってくる。シャツが降ってくる。ジーンズが降ってくる。ワンピースが降ってくる。青や、赤や、黄色、のハンカチが、降ってくる。ああ、服が降ってくる。服の雨が降ってくる。
店の外では雨が降り始めたようだ。
少年はもちろん傘は持っていない。スターバックスコーヒーを出るととぼとぼと雨のなかを歩き始める。いったい誰を殺そうというのか。いや、誰でもいいのか。このハンティングナイフを誰でもない誰かに向けて振り回したいだけなのか。
スクランブル交差点の信号は赤だ。このスクランブル交差点は大人数が一挙に渡ることで知られている。この信号が青になったら少年はナイフを取り出して無差別殺人を決行する気だ。まだ少年はiphoneのツイートを眺めている。声が嵐になって流れている。
泥にまみれながら、光を探す。雨にうたれながら、太陽を見つける。石を投げられながら、花を投げ返す。穴を掘りながら、空を飛ぶ。嫌われながら、愛している。吐きながら、歌を唄う。悪魔を抱きながら眠り、天使のささやかな温もりに目覚める。朝が。
雷にうたれた少年は。風に巻かれた少女は。夢に駆り立てられた犬は。愛につらぬかれたクジラは。涙に打ち震えた君は。情熱に焼き焦げた心は。いつも僕たちは、雷を待って。
あなたといると眠くなるの。だから、会って5分で私はいつもあなたの前でうとうと。喫茶店で。車の助手席で。いつも「疲れているふりをするけど、ほんとは、あなたの雰囲気」が眠いの。ごめんなさい。あなたの話、ちゃんと聞いたことない。あなたの顔も、声も、思い出せないくらい。
とても淋しい音楽をきいている。とても、美しい想像をしている。ずっと、夏の芝生の上でスプリンクラーが、まわっている。そこに猫が寝ている。花が水滴に濡れる。夕暮れで、世界は、映像のように見える。一番星はどこだろうか、と空を探すけど、こんな時は、うまく光っている。
いろんな場所でいろんな短い言葉が発せられている。その言葉はまるでスクランブル交差点で信号を待つ人々の魂に触れた気分だ。少年はうっとりとしている。信号が青に変わり、一〇〇〇人の人が一斉に交差点を渡り始める。少年も歩き始め、次々と人とすれ違う。男、女、高校生、OL、老人、子供、外国人。
無意識の悪魔。悪気のないモンスターが、いっぱいいるんだ。いったい何が悪いんだい。ただ面白かっただけさ、と、エンプティなモンスターが、言うんだ。面白さは正義に勝つのかな、とぼんやりとバイト中に思う。
雨のなかでタバコを吸う。雷を待ちながら、大雨のなかでタバコを吸う。火はまだついている。走らないで、ずっと歩く。犬が自動販売機の前で濡れている。同じだな。自動販売機で、新しいタバコを買う。ライターで火をつけようとした時、雷がなり始めた。火はつかない。火はつかない。
美しさの裏に、毒を隠し持っている。だからこそ持つことのできるナイフがある。それが、15歳の女の子の特権だ。「死ぬとどうなるの?」と僕に聞いてきた女の子は、僕が首を振ると、真剣に「いい、と思う。何にもなくなるなんて」と、スプリンクラーみたいな言葉を言った。
ナップサックのなかからハンティングナイフを取り出す。それを片手に持ち、偶然やってきた少女の胸を刺そうとする。ナイフはもう少しで突き刺さる。少女は傘を持っていない。傘は家に忘れてきたのだ。だから少女には武器がない。武器は手元にあるiphoneだけ。
そのナイフをスクランブル交差点ですれ違う人々はそれぞれの角度で目撃者である。まず子供が悲鳴をあげた。子供は見ず知らずのサラリーマンに恐怖のあまり抱きつく。サラリーマンはそれで少年の存在に気づく。外国人が大声を出して、そのナイフを止めようとしている。ナイフを振りかざす少年のまわりに人がさっといなくなる。尻もちをつく老人。信号待ちをしているタクシーの運転手がその様子をぼんやりと眺めている。人が一斉に少年から逃げてくる。スクランブル交差点は僕と傘をもっていない少女だけになる。
上空からその世界を眺めている目線がある。目線は上空に浮かんでいて、その様子をじっと眺めている。目線は少年や少女の魂が離脱している姿なのかもしれないし、神や悪魔なのかもしれない。浮かんでもいないし、落ちもしない目線が上空からこの渋谷のスクランブル交差点を見つめている。
おい、そんなことはやめろよ。もう遅いんだ。ナイフはもう少女に刺さろうとしているんだもの。おい、世界じゅうの時間を止めてくれ。奇跡は起こらないか。
そのスピードでは奇跡は起こらない。そのスピードでは花は咲かない。そのスピードでは魚は泳がない。そのスピードでは自転車は走れない。そのスピードでは、恋は続かない。そのスピードでは、飛行機は飛ばない。そのスピードでは、奇跡は起こらない。奇跡は起こらない。
少女はそのまま少年を抱きしめた。ナイフは少女の胸の先でピタリと止まった。少しだけナイフは刺さり、そのまま抱き合った。少しの血が路上にポトリと落ちた。そんな少年の耳元で少女は言った。
ボクが世界を変えてみせるから。8分待ってて。
スクランブル交差点で抱き合う少年と少女のことをみんなが見ていた。少女はやがて少年から離れ、少年も少女から離れた。8分間の謎の抱擁。
少女は急いでそその場を離れた。トイレに行きたかったのだ。だから少年と別れ、交差点を渡ると、公衆トイレに入った。少女はむしゃくしゃしていた。だからtwitterに落書きをすることにした。iphoneでむしゃくしゃを書こうと思った。
ボクは疲れた14歳。世界に文句ばかり。世界はゾンビだらけ。でも8分待ってて。ボクが世界を変えるから。
へんなtwitterだな。なんだこの血。少しだけ痛いな。知らない少年との8分間の抱擁。さよなら。バイバイ。8分間の抱擁。