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手負いの獣  作者: ルシア
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第1章

『駄目よ、――ちゃん、こっちへ来ちゃダメ!!』


『嫌だよ、お母さん。僕も一緒に連れてってよ。お願いだよ、これから僕、絶対いい子にするから……』


『駄目。お母さんは本当にもう、本当にダメなの。ごめんね、ごめんね、――ちゃん。弱いお母さんを許して……』


『嫌だ、お母さん!!行かないでよ。僕をひとりにしないで。おかあさーん、おかあさーん、おかあさーん……』



       1


 ――波。


 あるいは光と波の彼方に、青く澄きとおった空がどこまでも見渡せる。


「<晴れた日には永遠が見える>っていうのは、もしかしたらこういう瞬間のことを言うのかもしれないなあ」


 翼がK市K病院に挨拶へ行った週の土曜日、要は高校時代からの悪友といっていい友人宅へ遊びに来ていた。


 遥か遠くに寄せては返す海の漣が見える高台に、翼の住むマンションは位置しており――ベランダからの眺めがとても綺麗だった。


「このマンションの家賃、実は病院持ちでタダなんだぜ。まあ、俺にはそこらへんの会計の出どころってのはよくわからないんだがな、給料明細に<住居手当>って記載するかわりに、病院のほうで直接ここの大家に家賃を振り込んでくれるんだと」


「ふうん。将来ある医師に対する最大限の待遇ってところかな。それで、K病院ではうまくやってけそうな雰囲気か?」


「さーて、どうざましょ」


 本当はあまり心配していない要の問いに対し、翼はルイ・ロデレールを抜いて応じた。この高級シャンパンは、要が<引越し祝い>と称して持ってきたものだった。


 部屋の整理のほうはとんと進んでなく、3LDKの部屋のあちこちに、引越し業者の残していったダンボールが山積しているといった状態である。もし明日までに片付け切れなかったとすれば――適宜、必要なものをダンボールから取り出して暮らすという、素晴らしくだらしない新生活のスタートと相成りそうであった。


「どうせこんなことだろうと思ったから、軽く手伝いに来たんだけどさ、最初から新品の家具と家電がついてるだなんて、どうにも何か裏がありそうだなんて思うのは、僕の勘ぐりすぎかな?」


「だっろー?」と、翼もベランダに出、友にシャンパンのグラスを手渡しながら相槌を打つ。


「俺もさ、この部屋を見た瞬間に、『もしやこれは何かの陰謀なのか?』と思ったよ。確かに世の中は医師不足、どこの病院だって優秀な医師が喉から手がでるほど欲しいってのはわかる。もちろん俺だってさ、一度ここに勤めるって決めたからには、よほどのことでもない限り長く勤めようかなって気持ちではいるよ。けど、ぬわんとぬわーく、今から嫌な予感がしたりもしてるわけ」


「つまり、具体的にいうと?」


 カチン、とバカラのグラスを要と打ち合わせて、翼は言を継ぐ。


「本当にこれはぬわんとぬわーくっていう話ではあるんだけどさ、病院経営ってどこも火の車だってよくいうじゃん。あるいはかろうじて黒字のどっちかっていうかさ。にも関わらず、こんなピッカピカのビューテホな部屋に新品家具付きで医者をタダ住まいさせるなんて……なんかちょっとオカシイってのもあるし、この間挨拶にいった時に、ある女医さんの部屋から五十万盗まれたって話を聞いちまってな。だから先生も金銭管理には重々ご注意をっていうことだったんだけど、よく考えたらその五十万、なんの金だったんだろうなとも思うわけ」


「ふむ。まあ、僕がこんなことを言うのもなんだけど……医者にとっての五十万って、その医師によっては、そんな大した金じゃないっていう金銭感覚の場合があるだろう?その女医さんはどっちのタイプなんだ?」


「たぶん、要が推察するとおり、『そんな大した金じゃない』っていうほうのタイプだな。なんでも、院長の娘らしいし、あとのことは推して知るべしってところだろ」


 翼は平たい手すりの上にバカラのグラスをのせると、一度部屋の中へ引っ込み、ピザ屋に注文しておいたピザを温め直して、箱ごと持ってきた。ちなみに、一枚で四つの味が楽しめるタイプのピザである。


「でさ、俺がちょっとだけ『変だな』って思うのには理由があってさ、その五十万の盗難の犯人として、部屋に出入りが可能だった掃除のおばさんのクビが飛んだってことだったんだけど……もしそのおばさんが犯人じゃなかった場合、まだ病院内に犯人が存在してるんじゃないかと思うわけ。で、じゃあその犯人って誰なんだーってなった場合、同僚の医師である可能性が極めて高いんだよな。医局のほうは十三階建ての建物の六階に位置してるんだけど、この六階には院長室・副院長室・総師長室、他に事務室とか医局なんかがあるわけ。あとは手術室もあるんだけど、ようするにそういう事情を総合した場合、一般の患者ってのはまずもって近寄ることはない環境なわけだ。そこで五十万がなくなったってことは……事務室の事務員数名か医局に出入りする医者のどっちかって可能性が高い気がする」


「ふーむ。でも、その院長の娘だっていう女医は、金銭価値としては五十万くらいどうってこともないって思うタイプなんだろ?だったら掃除のおばさんをクビにして終わりっていうのは、なんともわかりやすい図式って気がするな。ようするに、簡単にいえば本当にいる犯人のスケープゴートにされたわけだ」


「そういうこと。でな、俺はその女医さんの部屋の隣の隣にこれから先輩医師とふたりで暮らすことになるんだけど……自分が休憩したり身仕度したりする部屋に、五十万も金を置いておくシチュエーションが、俺にはどうも思い浮かばないわけ。もちろん普通に考えたらさ、勤務前に銀行で金を下ろして、帰りにどこかに振り込む予定があったとか、色々考えられはする。けど、医者って大抵ゴールドカードだのプラチナカードだの持ってたりするだろ?にも関わらず、そんな大金、なんで部屋に置いてたんだろうなって話」


 要はピザの上にのっかっている、オリーブを口の中へ放りこんだ。翼もまた、手を油で汚しながらシーフードピザにがっついている。


「つまり、おまえは――それは不正な収賄で得た金なんじゃないかと思ってるっていうことか?」


「そういうこと。よくドラマなんかであるだろ?明日手術予定の患者がくれた菓子の下に現金が……みたいな話。その可能性もなくはないけど、どっちかっていうとさ、どっかの製薬会社か医療品メーカーが賄賂としてくれた金とか、なんとなくそっち系の匂いがするわけ」


「ふうん。でも翼は、もし仮にそうであったとして、その院長の娘とかいう女医に正義の鉄槌を下そうとか、そんなふうには思ってないんだろう?」


「思うわけねーだろ。そんなめんどくせえこと」


 欄干に半分体を預け、翼はシャンパンをガブ飲みしている。


「たださ、そういう収賄関係のことには俺、一切関わりたくないわけ。患者からも、どこの医療業者からも、そういうものは一切受け取りたくない。けど、その院長の娘ってのが俺と同じ外科医なわけだ……もしことが病院ぐるみで、院長や事務長にしてからがその首謀者って話だったら、『結城先生も長いものには巻かれましょう。グフフ』みたいになるのがすげえ嫌。そこさえ目を瞑って穏便にすませておけば、出世は約束されてるし、こんな高級マンションから素敵な海の眺めを毎日見れるんだとしても――たぶん俺、我慢できなくて辞めちまうと思うんだよな」


「あのさ、翼……」


 ピザがまるまる一枚あって、ふたりの人間がいる場合――普通それは暗黙の内にも半ピースずつ分けるのがお約束というものだろう。だが翼はすでに要の領域にも踏みこんで、ぺろりとペパロニピザに噛みついていた。


「なんだよ。説教したいなら、遠慮なくしろよ。そこ辞めて別のとこいったって、似たようなことはついてまわるものだと思うぜ――とかなんとか」


「いや、そうじゃなくさ。というより僕はそういう翼の性格的傾向を尊敬してるといっていいから、説教なんてするつもりはさらさらないんだ。そうじゃなくて……このことは僕、翼のことを驚かせようと思ってもう少しあとに言おうと思ってたんだけど、翼が勤務することになるK病院から、何日か前に絵の制作依頼があったんだよ」


「すげーじゃん。つーか、この場合の俺がいう『すげえ』は、K病院はおまえに一体いくら払うつもりなのかの『すげえ』ってことだけど」


 要が国内外の有名美術展で賞を取り、今ではオークションで億の値がつくほどの大家であることを、翼は当然知っている。そしてその彼に絵の制作依頼をした場合には――その値段は画家のその時の気分により、ゼロ円から数千万の値段に跳ね上がることもあるのだった。


「一千万だすっていう話だった」


 最後のピザのピースが親友の手に渡っても、異を唱えるでもなく、要は瞑想にでも耽るようにシャンパンの泡を眺めている。


「僕は、依頼を受ける時には大抵、自分から値段を口にすることはない。で、この場合もK病院のほうから金額を提示してきたんだ。一千万円だしますから、病院のホールを飾るに相応しい絵を、数点描いてもらえないだろうかって」


「それってもう、本決まりなのか?」


「いや、一応まだ保留にしてある。近いうちに病院を訪ねていって、どこにどんな絵が欲しいかだとか、向こうの要望を詳しく聞いてから決めることになってて。実際ね、一千万も金が動くとなると、僕が最高傑作と思って描いた絵が、依頼主にはまったくもって気に入らない――なんていうことも、十分ありうることだからね」


「そっか。じゃあさ、要が病院に来た時には、前もってメールでもくれよ。そんで、仕事帰りにメシでも食いに行こうぜ」


「ああ。僕もさ、おまえの勤める病院に自分の絵を飾れるなんて、これはすぐにも引き受けよう……みたいに、最初は思ってたんだ。けど、今の翼の話を聞いてるとどうも、僕に渡ることになる金ってのも、果たして本当にクリーンなものなのかどうか、怪しいんじゃないかって気がしてきた」


 遠くに、抜けるような秋空を背景にして、波が引いたり寄せたりする様を眺めながら、その後暫くの間、翼と要はその潮騒の音に耳を澄ませていた――といっても、この高台から下の海辺までは相当距離があり、実際には潮騒の音など一切聴こえない。だが、漣の白と青の連なりを眺めていると、耳の裏に記憶が甦ってくるのだから不思議なものだ。


「ま、これからK病院で何が起きるかは俺にもわからんけど、何か面白いことがあったら、逐一要に報告してやるよ。そんでもし、おまえが絵を提供するに相応しくないような経営状態だったとすれば……そのことについてもすぐ教えてやる。画壇の寵児、時司要の名誉に傷がつかないためにもな」


「まあ、僕のことは別にいいとしてもね、おまえのことのほうがよっほど心配だなって僕は思うよ。なんでかっていうと、翼の場合思い立ったが吉日とばかり、大衆の面前で院長にだって簡単に恥をかかせようとするだろ?さっきも言ったとおり、僕は翼のそういうところを尊敬してるにしても……そこは直滑降に九十度の位置からじゃなく、もうちょっと斜め四十五度くらいの角度から物を言ったほうが無難なんじゃないかとか、そういうことはすごく思うわけ。ようするにあれだろ?その翼の先輩だっていう茅野先生も――おまえが変に暴走するんじゃないかと心配して、自分と同室にしてくれって申し出たんじゃないのか?」


「当たり」


 ピザが丸々一枚片付くと、翼は一度室内に戻り、イベリコ豚の生ハムが乗った皿を今度は持ってくる。


「あとパエリアとかパスタもピザ屋に頼んでおいたんだ。まあ、とりあえずこれは前菜みたいな感じでどうぞ」


「どうぞって、おまえねえ……」


 バランスが悪ければ、皿が十階下の駐車場に落ちるとわかっていながら、翼はわざと手すりの上に次から次へと皿をのせていく。イベリコ豚の生ハム、イカのフリッター、トマトとモッツァレラチーズのサラダなどなど。


「医局で挨拶を済ませたあと、外来のほうに茅野さんに会いにいったわけ。そしたら、自分ももうすぐ昼飯だからちょっと待ってろって言われてさ。結局また医局の食堂に逆戻りして、そのあと茅野部長の部屋で軽く説教された。茅野部長の部屋なんつっても、来週から俺の居住区もそこなんだけど……ようするに俺は目立ちすぎるから、他の医局員たちがいっしょくたにされた部屋じゃあ、三日以内に絶対トラブルになるって言うんだよな。だから俺、言ってやったんだ。『俺だってそこまで馬鹿じゃないっすよ。一応これでも、救急病棟で揉まれて、それなりに処世術ってもんを身につけたんですから。今度別の病院に勤務する時には、絶対大人しくした上、時々意味もなく微笑んで、白い歯の光る爽やかな貴公子になろうってずっと前から決めてたんです』って」


「で、その茅野先輩って人はなんて答えたんだ?」


 くっくと、しゃっくりにも近いような笑い声で、要は笑った。そしてイベリコ豚の生ハムを一切れ、口の中へ放り込む。


「いや、茅野部長は普段は結構ユーモアセンスっつーか、ギャグセンスのある人なんだけどな、その時だけは『頭痛い』っていうような顔して溜息を着いてたよ。だからさ、『心配しなくても部長先生様の出世コースのお邪魔だけは致しませんのでご安心を』って念押ししておいた」


「そりゃ確かに、その茅野さんって人も頭が痛いだろうな。というか、そのうち胃を悪くして胃腸薬を飲むようになったら、それは絶対翼のせいって気がするよ」


「そうかあ?こう見えて俺、外科医としちゃそれなりに優秀ってーか、茅野さんの足を引っ張るよりは、俺を子飼いにしとけば、それなりに便利なんじゃないかって思うんだがな」


「でも翼の場合、平気で地雷原に斬り込んでいったりするようなところがあるだろう?『ちょっとこれ、疑念なんですけどお』とか言って、相手の痛いところをグサッと刺したりとか」


「あ~、確かにそれはあるかもな、うん。でも俺、そういう場合でもほんとに悪気は……」


 と翼が言いかけた瞬間のことだった。手にしていたバカラのグラスをつるっとすべらせ、それが真っ逆様に下のコンクリートへ激突したのである。


「やっべえ!!」


 慌てて下の駐車場のほうをふたりが覗きこんだ時――「一体誰だ!?」という、中年男の野太い声が響いてくる。すぐさま翼と要は手すりに置いた皿をそれぞれ反射的に持ち、室内へ駆け戻ろうとした。


「あっ……」


 今度は要がイカのフリッターの盛られた皿を、手すりの外へ突き落としてしまう。


「何やってんだよ、要!!」


「翼、おまえこそ人のこと言えるか!?」


 なんにしてもふたりは大慌てでそそくさと室内へ戻り――自分たちはいかな悪いこともしなかったという、偽善者の態度を決め込むことにしたのであった。


「やれやれ。今度からベランダの手すりに何か物を置くのはやめることにしよう」


「とか言いながら、翼の場合、気がついたら悪びれもせずに同じことを繰り返してるんだろうな」


「ま、いーじゃん。あのハゲ頭には最上階の新しい住居人がバカラのグラスとイカのフリッターを嫌がらせに落としたとはわかんなかっただろうし」


「どうかな。『バカラだけにそんなバカな』ってダジャレが通じるような相手ならいいけど……ここのマンションって、おまえと同じくK病院の医者先生が独身寮がわりにしてるんだろ?」


「うん、そうらしい。って言ってもな、一応きちんと配慮して、隣同士とかにはしないようにしてるんだと。それと、真上とか真下に同僚の医局員がいるってこともないらしい。つまり、一階に五つある部屋のうちのどこか一室、多くて二室くらいに独身の医者が住んでるって計算すればいいってことらしいよ。それでも『ゴミを捨てる時に顔を合わせた時くらいは挨拶したほうがいい』って事務長には言われたけど」


「そっか。あのハゲ頭、どう見ても四十は越してそうだったから……独身ってことはなさそうだけど、それでも病院で顔合わせたら、翼はどうする?」


 むしろそうだった場合のほうが面白いとでも言いたげに、要は意地悪く笑ってみせる。


「まあ、知らぬ存ぜぬでシラを切り通すか……あるいは、バカラのペアグラスでも持っていって謝罪するしかなさそうだな。他に、イカのフリッターもつけて」


「なんにしても、今目の前で起きた午後の惨劇については忘れることにしよう。イカのフリッターのほうはカラスどもが片付けてくれるだろうし」


「カラスどもかあ。あのハゲ男が独身でK病院の勤務医だったとしたら、俺にとってなんとも幸先の悪いスタートってことになりそうな予感がするな」


「まあ、確率的にそれはないだろ。というか、一階に五室部屋のある十階建てのマンションのうち、同僚の医師が住んでるのは一階につき多くて二部屋とした場合――残りの三室は院内関係者じゃないんだろ?だったら大丈夫だよ」


「そうだよな」


 翼と要は極めていい加減な確率論に頼ることにして、その後はダイニングキッチンに備えつけのテーブルで、ワインを飲みながらパエリアやパスタを食べることにした。だが、ふたりが部屋の片付けに深夜まで熱中し眠った翌日の日曜日――翼は不吉にも、カラスが部屋のベランダに止まり、鳴いている声で目覚めたのだった。


 そして、この時に漠然と感じた翼の予感は、次の翌月曜日に見事的中することとなる。すなわち、昼休みに事務長室へ呼ばれ、「脳外の館林先生が非常にご立腹です」と、厳重に注意を受けることとなるのであった。




 >>続く……。






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