有刺鉄線の恋(3)
扉の外には、よく見知った男が彼女を待っていた。
「やあ、ヴァニラ」
「クリエイター……」
随分と久し振りに顔を合わせた彼女の創造主は、いつもの何処か辛そうな微苦笑を彼女に向けてくる。
また痩せたようだ、と過去のデータと照らし合わせながら、ヴァニラは彼に軽く頭を下げた。
ひょろりとした痩躯を若干薄汚れた研究者に支給される白を基調にした制服に包み、髪を見苦しくない程度に撫でつけただけの、いわゆる『冴えない』容貌の二十代中頃に見える男──すでに三十は越えているはずなのだが──が、世に天才と呼ばれているアルフレッド・ケブラーその人だった。
おそらく事前情報がなければ、彼を見た十人中十人がそうと思わないだろう。容貌としては特に目をひく要素はなく、印象に残る物でもない。
(……護衛はいないようですね)
いかにセキュリティにセキュリティを重ねた場所でも、内包する人間が多すぎる為に完璧とは言い難い。彼の立場なら護衛の一人もついていて当然なのだが、周囲にはそれらしき存在は感知出来なかった。毎度の事ながら不適切だと思う。
だがこのような無謀な一人歩きも、彼の容貌が知られていないからこそ出来る事に違いなかった。名前こそ一般にも知られる程の高い知名度を誇っているが、彼の露出が極めて低い事もあり、その容貌を知る人間は《連邦本部》内部ですら一部に限られているのだ。
もちろん、その理由はいくつか存在する。
アルフレッドはいつもは自身に与えられた研究室に籠っており、その他の場所に出向くなど滅多にない。何でも居住セクションにある自室にさえ、数日に一度仮眠で足りない分を補いに寝に帰るだけという話である。結果的に接する人間も限られてしまう訳だ。
ちなみに人嫌いだとか引き籠りといった性格の問題ではなく、純粋に多忙を極めている事が理由である。
現時点において、《人形》開発は一部の動力・駆動系の開発と完成した《人形》のカスタマイズ──目的に応じた技術を備えさせる──を除けば、全て《人形師》と呼ばれる研究員が企画から設計と制作、最終調整までの全ての工程を担っている。
余りにも機密要素が多い為に、関係する人間を最低限に絞っている為だ。
つまり、制作中は彼はほぼ仕事にかかりきりとなる。一応、彼をサポートする人間は何人かいるが、誰も彼の代わりは出来ない。
そうでなくてもヴァニラ自身がその役割により、外部へ出ている事が多く、彼に遭遇する事自体稀な確率である。おそらく上層部に用でもあるのだろうと推測を働かせていると、涙を零すヴァニラの様子を気にした様子もなく、一言彼女に問いかける。
「涙は、必要だったかい?」
その言葉でアルフレッドが自分を待っていたのだと理解した。
何を思ってか機能の一つとして『涙』を与えた男は、まるで彼女が泣く事を見透かしたようにそう尋ねる。いつかの── 一年ほど前の、願わぬ再会が叶った時のように。
ヴァニラが『涙』の機能を使用した場合には、アルフレッドの元に通知が入る仕様である事を知る由もなく、怒りも詰りもせずに、ヴァニラはその時のように淡々と受け答えた。
「……はい、クリエイター」
答える間にも、涙は零れ落ち続ける。
人間のように目や鼻先が赤くなる訳でもなく、ただ涙の雫が零れるばかりなのだが、だからこそそれはひどく痛々しく見えた。
「私には……死んだ彼等に何も報いる事が出来ませんから」
ヴァニラは正しく己の存在意義というものを理解していた。
だからせめて、涙を流す。何の慰めにもならないとわかっていても、それは複雑な彼女の精神プログラムがオーバーフローを起こさない為に必要なものだった。
『人を殺す』為に生み出された彼女だが、その根本には旧時代の『ロボット三原則』に近い倫理観が植えつけられている。そうでなければ、連邦内での単独行動を許されてはいない。
仕事をこなせばこなすほど、その倫理観に反するストレスは大きくなる。あらゆる理由から必要以上の感情面での発露を抑制されている彼女には、何らかの『捌け口』が必要だった。
それほどに危うい均衡の上に、ヴァニラの精神機構は成り立っている。
アルフレッドには今回の標的がどんな人物だったのかわからない。彼の権限を使えば知る事自体は不可能ではないが、調べる必要は感じなかった。
ヴァニラが涙を流すほどに『仕事』を負担を感じる相手だった、という事実があれば。
こんな時、アルフレッドは自身の無力さに嫌気が差す。
ヴァニラが涙を流す事しか出来ないように、アルフレッドには彼女の仕事の内容を変える事は出来ない。いつか取り返しのつかない事態にならないよう、もっと根本的なケアが必要だというのに、上層部は彼の提案を受け入れようとしない。
──『物にそこまで予算をかける必要性がない』
出来る限り『ヒト』に近いものを、と求めたのは彼等だと言うのにだ。
あくまでもヴァニラ達、人形は替えの効く備品の扱いだ。確かに彼等が求めたのはあくまでも外見的な意味だったのかもしれないが、いくらハード面ばかりを近付けた所で、出来あがるのは『ヒトのような何か』だった。
だからこそ、アルフレッドは内面──ソフト面を必要以上に複雑なものとした。
結果として出来あがった人形──最初の人形である《プライマリー》は彼に『天才』の名を与えたが、代わりに彼へ苦悩を与える事ともなった。
罪人が何人命を散らそうと彼の知る所ではないが、それによってより『ヒト』に近く造られた人形達が苦しむ事は本意ではない。
そもそもアルフレッドが《人形》開発に魅せられたのは、ヴァニラのような殺人兵器を作りたかったからではなくて──。
(……いや、言い訳だな)
涙を与えようと、それは罪滅ぼしにもならない。連邦に属する以上、上層部の命令を無視する事は出来ないが、制作依頼を受け入れたのは他でもない彼自身なのだから。
連邦に属する人間は多かれ少なかれ、後ろ暗い所のある人間ばかりだ。そう、彼も──。刹那、脳裏を駆け抜けた記憶と沸き上がった重苦しい思いを振りきるように、アルフレッドは口を開いた。
「ヴァニラ、今時間はあるかな」
「……。はい、今日は特にタスクは残っておりません」
「そうか。……じゃあ、少し話さないか?」
「話、ですか」
不思議そうにヴァニラが小さく首を傾げる。普段、特に接点もないのだから当然だろう。
そこでアルフレッドはヴァニラの頬の雫を指で拭い、まるで小さな子供に対するように滑らかなチョコレートブロンドを撫でた。
真紅の瞳が軽く見開かれる。
「……クリエイター?」
何故、と問いかける視線にアルフレッドは微苦笑を浮かべた。
「うん……。ちょっとね、思い出したんだよ」
「思い出す?」
「……泣いている子には親切にしないといけないんだ」
だから、とアルフレッドはもう一度ヴァニラの頭を撫でた。
まるで人間の子供に対するようなアルフレッドの態度に、ヴァニラは理解不能そうに首を傾げ──やがてその口元に、小さな笑みを浮かべる。
それは製造されて間もない頃──まだ、その手が血に染まる事のなかった頃の表情に戻ったようだった。やがてヴァニラはぽつりと漏らす。
「……悪くありませんね」
その瞳からまた新たな涙が零れおちたが、それきり涙は止まった。
+ + +
──クリエイター、わたしは初めて人から『好き』だと言われました。
人は……好意を持つ相手になら殺されても構わないのでしょうか?
わたしにはわかりません。
『死んだら泣いて欲しい』と求められました。
彼は何故、そんなものを願ったのでしょう。わたしは造り物なのに、おかしな話ですね。
それでもわたしは、少し嬉しく思いました。
わたしはその求めに応じる事が出来る。殺害以外で、役に立てる。
……おかしいですね。それはわたしの存在意義を否定する事にも繋がりかねないのに。
本当に、理解不能です──。
+ + +
『死神』とまで謳われる事になる殺人人形ヴァニラ。その涙を知る者は一握りの関係者と彼女が散らした者達ばかり。
誰も彼女の内の混沌を知らないまま、実る事のない彼等の『恋』も終わりを告げた。