有刺鉄線の恋(2)
彼等が遭遇したのは、彼の古巣に間近い路地。
すでに夜更けに近い時刻で、当然人の気配は周囲にはなかった。そこに──彼女がひっそりと立っていたのだ。
いつからそこにいたのかはわからない。だが日没と共に降り出し、今では周囲を真っ白に覆い隠す程に降り積もる雪が彼女のつま先を埋める程度にはそこに佇んでいた事は確かだ。
まるでずっと、彼の帰りを待っていたかのように──否、実際に彼を待っていたのだろう。おそらくは良くない意味で。それ位は彼にもわかっていた。
けれど彼──ハリーの心に沸き起こったのは隠しようのない喜びだった。叶うならばもう一度。そう願い続けていたから。
「お、俺……! あんたのこと、知ってる」
彼女を目の当たりにした瞬間、興奮を抑えきれずにハリーはそう口走っていた。
「何度か、見かけて……、そ、それで……っ、あの……」
誰かに必死に話しかけるなど今までの彼には有り得ない行動だったが、彼の『死神』はその美しい顔を真っ直ぐに彼に向けて、彼の言葉を黙って聞いていた。彼しか映らない瞳に何故か泣きたいくらいに切ない気持ちになる。
「……ハリー・マドランですね」
やがて、彼女はそれまでの沈黙を破って彼の名を呼んだ。
しん、と凍りついた大気を震わせたのは、舞い散る雪花のごとく冷たくも儚い声。
それはおそらく狩人が標的を確認する為に行った認識の儀式に過ぎない。けれど、ハリーは恐ろしさなどまったく感じなかった。
いつかこういう日が来ると思っていた。
結果的にとは言え、何人も過去に殺してきた。それなりの恨みも買っているはずだ。けれど、彼にはそういう想像は出来てもそれに対する罪悪感はまったくなかったし、行いを改める気もなかった。
おそらくそれこそが彼を『有刺鉄線』たるものにした元凶だったのかもしれなかったが、彼はそんな事にまで考えが及んではいない。ただ単に『仕方ない』と片付けるばかりで。
いつだって何かを壊す時──(結果として)誰かを殺す時、彼なりの誠意を尽くしてきた。
ある時は、殺傷力は高いが破壊力は弱い物を、またある時は破壊力こそは甚大だが、せいぜい重傷者程度で死者が出ない物を。求められた以上の精密さで作り上げてきたのだ。
おそらく誰からも認められる事はないだろう。一種の自己満足なのは自覚している。それでも構わなかった。
常人ならば調節不可能なさじ加減で、ハリーはこれまで数々の爆発物を作ってきた。爆発物を作る事は、彼にとっては芸術家が作品を作り上げるのと同じような意味合いがあったのだ。
そう──それは『自己表現』であり、『自己肯定』だった。
『作品』を求められる事は自分が必要とされている事と同意であったし、何かがこっぱ微塵に消える瞬間、炎が吹き上がるあの刹那。その時だけ、生きている実感を感じられたから──。
彼が恐れるのは自分に干渉してくるあらゆる人の手。『作品』を求められれば作りはするが、でもそれ以上に彼に触れる事はどうしても許せなかった。気持ち悪くて気持ち悪くて、仕方がないのだ。
実の親ですら耐えきれなかったその潔癖さが、何故赤の他人である彼女の存在だけは許したのか──彼女が彼の前に立つ時までわからなかったけれど。
「そっか。あ……あんたが、俺の死神だったんだな……」
『いつか必ず出会う存在』だったから、惹かれずにいられなかったのだ。
そう理解すると、そんな場合ではないのにまるで運命的だとハリーは初恋を知ったばかりの少年のように胸を時めかせる。いや、正しい意味でこれは彼の『初恋』だった。
「だから……、あんたを、み、見た時……気になってしょうがなかったんだ」
どうしようもなく震える声で、彼は必死に彼女に語りかけ、そして微笑んだ。これまで一度だって意識してやった事のない行為だった。
「ハリー・マドラン。テロ行為及び爆発物制作、それによる大量殺害行為により処分いたします」
そんなハリーの言葉など気にする様子もなく、彼女は表情を変える事無く淡々と言葉を重ねる。これまで何度となく繰り返してきたであろう言葉を。
「──何か、最後に言いたい事は」
そんな言葉が一体何の慰めになるのか。おそらく、どの罪人もその言葉になど耳を傾けたりはしなかっただろう。けれど──。
「……あんたの……な、名前が知りたい」
「名前……」
そこで初めて、彼女の顔に表情が生まれた。困惑を隠せないその顔は妙に人間臭いものだったが、ハリーにはどうでもよい事だった。自分の言葉が彼女の感情を揺らせたという事実がただ嬉しかったのだ。
「教えてくれよ。あんたの、名前」
彼の言葉に彼女は初めてその言葉を吟味するような仕草を見せた。しばしの沈黙の後、その整った唇が自らの名を紡ぐ。
「──ヴァニラ」
「ヴァニラ? ……そ、そうか……。あんたが、あの……」
人との交流をほぼ断って暮らしている彼の耳にも、その噂は聞こえていた。
《連邦》が対レジスタンス壊滅を目的として、対人兵器を開発したという。その外見は人とほとんど変わらず、しかしその仕事は名の知られた殺し屋よりも鮮やかで容赦がない──、と。
「……そっか。あんた、人じゃなかったんだなあ……」
そこで何となく、ハリーは自分が彼女に対してここまで好意的な感情を抱いたのか、その理由を知った気がした。
人ならぬもの。人に近く──けれど、人ではない。人は恐ろしく気持ち悪いばかりだが、物ならば彼には何の怖れなど抱かせるはずがないのだ。
「そうか……」
それなら殺されてもいい、とハリーはぼんやり思った。人間に殺されたり、自分の死にざまを見られるのは我慢出来ないが、『物』に殺されるなら──。
「何故、名を?」
「え?」
「どうして……私の名前を尋ねるのですか? あなたはここで死んでしまうのに」
その行為には何も意味がないと言わんばかりの言葉。万が一にも彼が生き延びる確率など存在しないかのような言い草に、ハリーはいっそ愉快な気持ちになった。
それは今まで一度も感じた事のない気持ちだったが、嫌なものではなかった。
「……俺、あんたの事が好きなんだよ、多分」
「好き……?」
益々困惑の表情を深める彼女は、どう見ても人間にしか見えないのに、彼の口調からそれまでの緊張はなくなっていた。
「うん……、やっとわかった。あんたが人でなくて良かったよ。ヴァニラ」
「人でなくて、良かった……?」
「ああ、俺、人は嫌いだから。だから……、あんたに殺されるならいいよ」
「……ハリー・マドラン。あなたはあの人と同じ事を言うのですね」
そう言った彼女の顔に浮んだのは、明らかな苦笑。作り物だとわかっていても、どきりとする微笑。
「あ、あの人……?」
「ええ、私を育てて下さった人です。私に人の殺し方を教えてくれました。私が……、殺しましたが」
どうせ死ぬのだとわかっているからだろうか。ヴァニラはそれまでの無口な様子などなかったように彼の言葉に答えてくれる。
ほんの僅かに温度を帯びた言葉は、彼女が冷酷な殺人人形である事を忘れさせるくらいに穏やかに聴こえた。
「その人も……私に殺されるならいい、と言ったのです」
「へえ。……そいつもあんたが好きだったのかな」
ほんの微かに芽生えた嫉妬心からそんな事を言うと、ヴァニラは小さく笑みを零す。
「どうでしょう。女性の方でしたが、私に好意的ではありましたね」
「そ、そうか」
まるで彼の心を見透かしたような言葉に、ハリーは照れ笑いを浮かべた。これまでにない穏やかな気持ちに包まれる。思えば誰かとこんなにも長く言葉を交わす事は初めてだった。
「──あんたは、その人の事、好きだったのか?」
「はい。……二度と会う事がないといいと思う位には」
彼女の言葉は簡潔で、嘘がなかった。今更のように自覚する。
(ああ。俺は本当にこの子の事が好きなんだな)
おそらくこの世の存在でないあろう存在に対して、羨ましいと思える程に。
もっとこんな時間が続けばいいと願う程に。
彼女が『死神』である以上、その願いは決して叶わないのに。ならばせめて、自分もこんな風に覚えていてくれたらいい。
今までの『作品』は作り上げた端から消えてなくなり、手元には何も残らない。それはそれで納得はしていた。
けれどもし、ほんの僅かでも彼女の記憶に残るなら──それは何よりも確かに、『ハリー・マドラン』という人間が生きた証になる気がした。
そして、その時は訪れる。
ふと訪れた沈黙の後、ヴァニラの腕が持ち上がる。そのたおやかな手にあるのは、冷たい光を帯びたナイフ。
「……なあ」
「はい」
「俺が死んだら……泣いてくれるか?」
自分でもばかな事を言っている自覚はあった。相手は人形。しかも、人を殺す為に生まれた人形だ。涙などあるはずもない。そんな物を求めて何の意味があるだろう。
──しかし。
次の瞬間、ヴァニラは彼の懐にいた。その手にあるナイフは、正確に命の源を貫き、その背まで通っている。
痛みなど、感じる暇もなかった。
「……承りました」
耳元で彼女の平坦な声。それが一体何に対する言葉なのか認識した時、ハリーの時間は終わりを告げた。
──血も涙もないと言われる、殺人人形。だからこそ、彼女には涙が似合いそうだと思った。
きっと涙に濡れた真紅の瞳は、宝石のように美しいに違いない……。