有刺鉄線の恋(1)
舞台:2192年
初めて見た時から、ずっと気になっていたんだ……。
近寄るもの全てを壊す事で自らを守っていた青年は、美しき彼の『死神』に出会う。
……最初に彼女を見たのは、何処かの街角。
僕はその時、『新作』の完成具合に夢中だったはずなのに、そんな事も忘れて彼女から目が離せなくなった。
その瞬間だけ──彼女と目が合った、その瞬間だけ、僕の狂いっぱなしの歯車が、生まれて初めてカチリと噛みあった。
そんな、気がしたんだ。
次に彼女を見たのは、《連邦》本部に間近い酒場の中。
身なりの良い男と同席していた。おそらく何らかの会合だったのだろう。テーブルの上には、僕が食べた事のないような、豪勢な食べ物が並んでいた。
ある所にはあるもんだ──そんな事を思いながら眺めている時に彼女の事に気付いたんだ。
よく食べ、良く飲む同行者とは対照的に彼女は何も口にせず、ひっそりとそこにいた。僕が見ているなんて気付いている様子はなかったけれど、それでも一度だけこちらに目を向けて──。
その時だけ、僕の凍り付いていた心臓に熱が通った。
……錯覚ではなくて、本当に。
──最後に彼女を見たのは……。
+ + +
「──無抵抗だった、だと?」
報告を受けた男は意外そうに片眉を持ち上げた。
機能的で無駄のない、代わりに家庭的な匂いなど一切ない──それもそのはず、そこは世界を支配する《連邦》本部なのだから──その部屋には、男と女の二人しかいない。
男は三十そこそこでまだ若いが、すでに貫禄が身に着いていた。明らかに人に命令をするのに慣れた様子がある。
対する女ははっとする程の美貌を持っているのに、不思議と存在感のない雰囲気を持つ、二十前後の容姿を持っていた。
一見すれば、年齢的にも雰囲気的にも似合いの恋人同士にも見えかねない二人。けれど、二人の間にそんな甘い感情は一切なかった。
「本当に、何の抵抗もしなかったと言うのか?」
「はい」
男の怪訝さを隠さない言葉に、女は肯定のみを返す。
淡々とした表情に嘘はなく、そうでなくても彼女が嘘をつかない事を熟知している男は、信じられない様子でため息をついた。
「……死にたがっていた様子は」
「それはありませんでした」
事務的に返事は返る。その物言いは整いすぎた容貌も手伝い、殊更冷たく聞こえた。と言っても、女の口調は今に限った事ではなく、いつもの事だったが。
「──ただ」
だが、否定のみで終わると思われた言葉には、男も予想しなかった接続詞が続いた。
「……ただ?」
思わずまじまじと彼女の顔を見つめながらその言葉を反芻する男に構う様子もなく、彼女は淡々とした調子を崩さずに言葉を重ねる。
「理解しかねますが、私をずっと見ていました。そして……」
その、無機質な赤い瞳が少し表情を翳らせ──。
「私の名を尋ねました」
「名前だって?」
今回の一件は随分とイレギュラーな事が多い。標的は一体自分を殺す相手の名を尋ねて、一体どうするつもりだったのか。
生き残る算段が死んだ男にあったとは思えない。報告を信じれば、抵抗も命乞いもその男はしなかったという。では、何故──?
「それで……、お前は答えたのか?」
「はい。尋ねられた事は禁止項目ではありませんでしたので」
男の問いに、彼女は当たり前のようにそう答える。
彼女の役目は人を殺す事。その為に生まれた。だからこそ彼女に課せられた仕事上の禁止項目は数限りない。
……けれど、確かに彼女が標的に対し、自分の名を口にする事は禁じられてはいなかった。
理由は簡単だ。それを聞いた相手が生きてその名を口にする事はほぼないからだ──今回の標的のように。
彼女は人の手によって造られた機械人形。そのやわらかそうな皮膚のようなものをはぎ取れば、そこには冷たい金属が詰まっているはずなのだ。
だが男には時々、彼女が本当は人間なのではないかと考えてしまう時があった。否──そう思わせる程に、人間臭い面を見せる、と表現すべきだろうか。
そこまで考えて、彼はふと初めて彼女と対面した時の事を思い出した。そして、一体いつから彼女はこんなに表情に乏しくなったのだろうかと思う。
──『初めまして。宜しくお願いします』
そう言って頭を下げた彼女は、その時には人と錯覚する程に人当たりのいい笑顔すら見せていたのだ。それが、人の真似ごとに過ぎないとしても。
「……ヴァニラ」
「はい」
名を呼べば、従順に答える。それはその時から変わらない。だが、確かに目前の人形はその時と同じものではなくなっていた。
それを、果たして『経験』を積んだ結果による『成長』と呼んでいいのか男にはわからなかった。
「何故、『有刺鉄線』ハリー・マドランはお前の名前を尋ねたのだと思う?」
レジスタンスに属する爆弾魔──ハリー・マドラン。多くの爆撃事件に関わっており、その名は一部では知らない者はない。
そんな男が今まで『処分』の対象にならなかったのは他でもない。単に罰すべき主犯、もしくは実行犯が別にいたからである。
何でも極度の対人恐怖症だっただけでなく、必要以上に彼に関わろうとした者は敵味方関係なく何らかの事故に巻き込まれて命を落とす事になったと言う。
迂闊に手の内に引き込もうとすればこちらが傷付く──それ故に『有刺鉄線』などと渾名がつけられた男は、この機械人形を前に何を思ったのだろうか。
その事を彼女に尋ねてみたい誘惑に駆られ──その実、彼女の「わかりません」という答えを期待して、彼はその質問を彼女に投げかけた。彼女が『人形』である事を確認して、安心したかったのかもしれなかった。
──本来自己を持つはずのないそれが、自分の判断で人を殺す。
その想像は何処か恐ろしく……、だが彼女や同様に作られた人形達はこちらの想像以上に『ヒト』に近しく感じるのだ。
だが、彼の願いとは裏腹に、彼女の反応は驚くべきものだった。
「……ヴァニラ?」
「──」
人の手によって生み出されたその証のような、真紅の瞳。そこから溢れ、流れ出したものは──。
「何故…、……泣く?」
「私が涙を流す事は禁じられてはいません」
はらはらと零れ落ちる涙。彼が彼女──ヴァニラの涙を見たのはこれが初めてだった。
確かに彼女には人と同じように涙を流す機能もあれば、傷付いた時に人工的な血すら流れる機能までもある。不必要な物のように思えるが、制作者がどうしてもと譲らずに付けた機能である。
そもそもは対象に近付く際に怪しまれない為、という理由だったはずだが、その理由からなら今ここで涙を流す意味はない。
思わず言葉を失う彼に対して何の感慨も持った様子もなく、ヴァニラは涙を拭う素振りも見せずに静かに告げた。
「……死を悼む時、人ならば涙を流すものだと聞きました。……ハリー・マドランが何故私の名を尋ねたのか、その理由は知りません。ただわかる事は……、彼が私を待っていたのだろうという事だけです」
「……待っていた、だと?」
「そう思えただけです。推測に過ぎません。けれど、そうでもなければ……最後にあのような顔はしなかったのではないかと」
──ハリー=マドランの死亡報告書には、その死に顔についてまでは記述されていなかったが、何故かその言葉で彼が浮かべた表情がわかったような気がした。
抵抗もせず、死を受け入れ──何人にも立ち入る事を許さなかった『有刺鉄線』は、その死の間際に自分を殺すものの名を尋ねた。その真意を僅かに垣間見れたような──そんな、気が。
「……お前は、奴を殺した事を後悔しているのか?」
気がつくと、今までなら思いもしなかった言葉が彼の口から零れていた。
人を殺す為に造られた彼女に対して、その質問は明らかに愚問であっただろう。そのようなものを持たせたならば、彼女がこうして当たり前のように人を殺める事は出来なかったに違いないのだ。
「私は……」
「いや、済まない。この質問には答えなくてもいい」
答えかけるのを、強引に遮る。そして彼女の答えなど想像に難くないというのに、どうしてそれを避けてしまったのかわからないまま、彼はまだ涙を止めない彼女に退出を命じた。
「……おそらくこの地上で奴の為に泣いてやる者など一人もいないだろう。気の済むまで泣いてやるといい」
「はい」
彼女は淡々と頷き、静かに退出していく。癖一つないチョコレートブロンドがドアの向こうへ完全に消えたのを確認して、男は口を手で無意識に押さえながら一人ごちていた。
「……『悼む』だと? ばかな……」
今まで何人もの最後の報告を受けてきたが、そんな事をヴァニラが口にしたのは初めてだった。──ハリー・マドランとヴァニラには今まで接点などなかったはずだ。それなのに。
男の中に、深い困惑だけが残った──。