Sweetest Vanilla
舞台:2190年
まだ、彼女が『死』というものを知らなかった頃の物語。
甘い香料の香りが鼻腔をくすぐった。
華やかな花の香りのような甘さでも、果実のような芳醇な甘さでもない。
そう……、砂糖を連想させる甘ったるい香り。
──ヴァニラ。
彼女からはその香りがした。
+ + +
特殊樹脂と金属で造られた腕を覆い隠した人工の皮膚は、一見した所生身と変わりがなかった。
「よく出来ているじゃないの」
しげしげと眺めてそう言うと、彼女は作り笑いには見えない作り笑いを浮かべて(変な言葉だが、そう言うしかない)頷いた。
「インターフェイスには特に力を入れられております」
「インターフェイス、ねえ……」
何だか使う言葉を間違えていないか、と思わないでもなかったが、意味合いとしてはそのようなものなのかもしれなかった。
──彼女の、人間にしては整いすぎた容姿というものは。
「あなたを造った『人形師』は、相当面食いのようね」
人に違和感を抱かせない為の外観だろうに、その美しさはかえって違和感を醸し出す。
おそらく彼女を目の当たりにした人間は、その背景を知らなければ『まるで造り物みたいに美しい』と思う事だろう。
「『調律師』とは、好みが合いませんか?」
にこやかな笑顔で彼女は尋ねる。毒気のない笑顔──まるっきり無垢な子供のような。
「え? 別に……いえ、そうね。そうかもしれないわ」
一応私も『女性』なので、同性の見かけなど正直どうでも良かったりする。だが、人によってはこの美貌に嫉妬する者もいるかもしれない。
──そんな事をぼんやりと考えながら答えると、彼女は微笑を湛えたまま頷いた。
「ご意見ありがとうございます。クリエイターにもそう報告します」
「え!?」
「一般人から見て不自然な点はないか──クリエイターから些細な事でも報告するように命じられています。……いけませんか?」
「そうだったの?」
それはとんだ完璧主義者だ。
「いけなくはないけど……、一応わたしから見ると彼は『上』の人なのよね。可能ならさっきの言葉は削除してくれると嬉しいかも」
「さっき、と言いますと……『面食い』、でしょうか?」
恐るべき洞察力(あるいは言語解析能力、コミュニケーション能力と表現すべきだろうか)で的確にわたしの言葉を受け止めて、彼女は不思議そうに首を傾げる。
「クリエイターにとってそれは不名誉な言葉なのですか?」
──だが、まだ語彙自体は十分ではないらしい。その不完全さに少しだけほっとしつつ、軽く肩を竦めてみせた。
「まあ、あんまりいい言葉ではないわね。人によっては不愉快に思うんじゃない」
「そうなのですね……。クリエイターはその言葉を不愉快に思うでしょうか」
「どうかな。実際に会った事もないから何とも言えないね。……ちなみにどんな人なの?」
「クリエイターは普通の方ですよ。どちらかと言うと、生真面目に分類されると思います」
「ふうん?」
確かに、彼女を作った名高い人形師、アルフレッド・ケブラーはその著名さに対して浮いた噂を一つも聞かない。
この世界を統括する《連邦》に属する研究者というだけでも、彼に好意(純粋かどうかはさておき)を寄せる女は少なくないだろうに。
余程根暗な性格なのだろうか。それとも──影で噂されるように、『人形』しか愛せないとでも言うのだろうか?
「チューナー? どうしましたか?」
黙りこんだ事を怪訝に思ったのか、彼女は不思議そうに覗き込んでくる。鼻先を、甘い香りが掠めた。まるで彼女に与えられた名前──『ヴァニラ』のような。
真っ直ぐな、チョコレートの光沢を思わせる髪。肌はクリーム。その瞳に宝石のような異質な真紅がなかったら、本当にお菓子で出来た等身大の人形のよう。
そう──彼女は人形だ。それも、精巧に作られた機械人形。ほんの一昔前までは、無骨で無機質な外観しかもっていなかったはずの。
その機械人形に、少女や少年、男や女の──人間と遜色のない外観と中身を与えたのは、一人の天才人形師の出現による。
その人物こそがアルフレッド・ケブラー。《連邦》お抱えの、一介のチューナーにすればまさに雲上人だ。
「ヴァニラは……ヴァニラの香りが好きなの? 香水?」
チューナーの仕事は、その名の通り完成した人形に目的に応じた技術を仕込み、調整する事だが、ヴァニラのような香水をつけてくる人形は初めてだった。
ちょっとした好奇心からのその言葉に、彼女はしばらく考え込み──そして困惑した顔で答えた。
「申し訳ありませんが、チューナー・レニエ。私はそのようなものは身に付けておりませんが……」
「え?」
そんなばかな──確かに、甘いヴァニラの香りが彼女から漂ってくるのに?
信じられない様子を隠し切れずにいると、ヴァニラは言いにくそうに言葉を重ねる。
「チューナー、香水のようなものは仕事に差し障りが出てくるのではないのでしょうか? どんなに微細な体臭であろうと、気付く者は気付くのだと……そのように聞いていますが」
「ええ、そう、そうね。そうだわ……」
その通りだった。その言葉はまったく正論だったし、彼女(達)が作られたその目的を考えれば、そんな香りを身に付ける事は自殺行為も同じのはずだった。
どうして……?
自分の鼻がおかしくなったのだろうか? ──それとも?
+ + +
「それでは失礼します、チューナー・レニエ」
チョコレートの髪を揺らして、彼女は優雅にお辞儀する。滑らかで自然な動きは、事実を知る者からみると妙に空恐ろしいものがある。
「……ヴァニラ。あなたの仕事始めはいつ?」
「それは……。お答えできません、チューナー」
「でしょうね。……悪かったわ、そんな事を聞いて」
「いいえ。チューナー・レニエ。貴女に教えていただいた技術は無駄にはいたしません」
無垢な笑顔でそう言った彼女の言葉の真の意味は──。
「あなたは今までで最高の教え子だった。……きっと、真剣にやりあえばわたしが負けるでしょうね」
「チューナー、それは」
「……再会を願う事が出来ないのが、とても残念よ」
ヴァニラの言葉を遮るように告げると、左手を差し出す。それを見て、ヴァニラも腕を持ち上げて手を握った。
……彼女の手は、柔らかだったが外見に反してとても冷たい手だった。
「二度と……、会わずに済むといいけど」
「……はい。私もそう思います」
人工の真紅の瞳が硬質に輝く。
その瞬間、またヴァニラの香りがした。そこで、はっとなる。これは、『香り』と認識しているだけで──。
「そう、か……」
「え?」
「いいえ、何でもないわ。ヴァニラ……さよなら」
「さよなら、チューナー・レニエ」
彼女は手を離すと、振り返りもしないで帰っていく。
真っ直ぐなその背中に、ヴァニラの香りが漂う。ヴァニラ──甘い香り。人工のものを象徴するような、不自然な香りだ。
香りはまるで誘うよう。けれど、実際のその味は苦くて不味いのだ。
子供の頃の失敗を思い出して、苦笑が漏れる。そう──彼女はその香りに似つかわしい。外見は美しく人目を惹くが、彼女は『暗殺者』。
《連邦》に抗するレジスタンスを狩る為に生み出された、合法的な殺人機械なのだから。
「……本当にもう二度と、会わない事を祈るわ」
もし再会するとしたら──それは間違いなく、自分の死を意味するのだから。
+ + +
甘い甘い、ヴァニラの香り。
けれどそれは偽り。それがどんなに甘く魅惑的な香りでも──誘い出されてはならない。
「さて……、チューナーの仕事は早目に廃業すべきかな」
元々望んでやっている仕事でもない。この仕事を請け負う事で、自分の存在(過去)を見逃す──それが当初の契約内容だった。
契約と言っても、こちらの意向など入る余地もない。生き延びる事を望むなら、拒否権などなかった。
軽く肩を竦めて、空を仰ぐ。
──おそらく、辞めたいと望んだ所でそのまま辞めさせてくれる相手とは思えないが。
視界に広がるのは灰色の空。晴れた空など、ここ数ヶ月見ていないような気がする。この狂った世界に、青空は似合わないと言わんばかりに。
記憶に残る青は、もう遠く。
「何処か……、血と……ヴァニラの匂いのしない場所に行きたいわね」
静かな独白は、誰の耳に届く事なく、空気に溶けた。
『人形達の輪舞』という話は近未来の話です。
わたしが書く近未来ものには基本的に二つの系統がありまして、こちらは大規模な戦争が終わった後、暗い時代を歩き始めてしまった世界です。
それ故にこちらに属する話は基本的に救いがなかったり、死が今の時代よりももっと身近にある、そんな内容になります。
この作品は作中の年代的には二つ目に古い話になりますが、この話が一番最初に書かれたものです。
この作品に登場する《ヴァニラ》が何故か妙に気に入ってしまい、結果的に単発な作品だったのにシリーズになってしまった思い出(よくある話)。