掠れた声と吐息
目の前には白亜のベットに沈み、苦しげに浅い呼吸を繰り返す、愛しい女。
彼女の瞳はきつく閉ざされたまま、俺を映しはしない。どうしようもなく不安で、握っていた彼女の手を更に強く握った。握る左手に一層、彼女の皮膚の下を通る熱い液体の温度を感じた。普段は落ち着かせてくれるそれが、今は胸に渦巻く不安を搔き立てた。
嗚呼、俺のアサイラム。心の安寧を保てる、唯一の楽園。
その楽園が今、灼熱地獄と化している。
一体、彼女が何をしたというのだ。彼女より悪行を働く人間が世に蔓延る中、主はどうして彼女にこんな試練を与えるのだ。
汗で額に張り付いた前髪を梳かすと、火照った富士額が露わになる。
そのまま額に手をやると、俺の左手が一気に熱を吸い取った。すると眉間の皺がとれ、幾分楽になったようだ。しかし、ほっとするもつかの間、額からは新たな熱がぐつぐつと沸き上がり、ささやかな避暑地すら灼熱へと変える。
そして、漸く水枕の存在を思い出す。
なんたる醜態。彼女に「旦那様」ではなく「阿呆」と呼ばれる所以!!
悪しき己の矮小な姿!
しかし、悔いるのもここまでだ、早く彼女を救わなくては。
勢いよく立ち上がろうとするも、傾く我が身体。
なんということだ!俺が彼女に冷を齎すには、この固く結ばれた左手を離さなくてはならない!!
――もしや、これは俺に課せられた試練なのか?
俺から楽園を奪い、愛しい女を苦しめ、俺の無能で矮小な部分を露わにさせ、絶望に貶め、そして今、愛しい温もりからも俺を遠ざけさせんとしている。
ふと、俺は己を省みる。
そこには憮然とした表情の俺がいる。嫁を困らせ、献身的に尽くしもしなければ、毎夜愛をささやくこともない。彼女の優しさに漬け込み、好き勝手に行動した挙句、その体温に、声に何時も救われている糞野郎。そんな自分を嬲り殺したくなった。
これは、その報いだと言うのか?俺のせいで、愛する彼女がこんなに苦しんでいるのか―。
ならば、乗り越えねばならぬ。
名残惜しさに負けぬよう、彼女の手を握る己の左手を素早く身に戻した。
ぷらんと垂れる彼女の右手に、酷く罪悪感を覚えた。
それ以上、みてはられず勢いよく背を向けドアノブへと手を掛ける。
すると
「どこ行くの?」
普段の凛とした声とは違う、酷くか細い声。今すぐにでも振り返って、駆け出して、無様に、その弱った身体を腕で固く覆い、一生閉じ込めてしまいたい。
「・・・水枕とおしぼりを持ってくる。」
そっか、と寂しさを孕んだ呟きに決心が鈍る。ええい、いかん!耐えろ、耐えるんだ俺!!
「なら、早く持ってこい。」
それって―。
主を憎むのは道理に合わないと知りながらも、大声で罵り叫びたくなった。
□□
大きな音を立てて閉まった扉。
何やらぶつぶつと呟きながら、意味もなくバタつき、百面相をしていた阿呆が居なくなって、この部屋にも漸く沈黙が訪れた。
すると、静かな部屋に控えめに電子音がなった。発生源を辿ると、電波時計が午後1時を告げていた。
奴にお粥だの薬だのを用意するだとかの看病など出来るわけがなく、起床してからこの方ずっと私の右手を握っていた。
「阿呆。」
皺がれて思ったように音にならなかったそれが、1人きりの部屋に虚しく響く。
― 何よりも阿呆よりも、空気に触れた右手が寂しくってしょうがないなんて思っている私が何とも阿呆な気がして、熱い溜息を吐いた。
掠れた声と吐息
(戻ったら水枕という発想に至れた阿呆をどう褒めちぎってやろうか、なんて凝りもせずに考えてる。)