宗教剣士団「慈悲深き刃」とイリアムの過酷な修行(三)
イリアムを囲む剣士たちは、定期的に水瓶から水分を補給し、疲労が剣を鈍らせぬようにしている。当然イリアムは一滴の水も飲むことが出来ず、食べ物は言わずもがな、一瞬たりとも気を抜くことが出来ないために、深呼吸一つつくことが許されない。七時間経過した時点で、イリアムは足がからまって一度転倒しそうになった。よろめいた隙を逃さず、剣士たちは容赦のない突きを連続で繰り出す。手の甲に攻撃を受け、イリアムは初めて出血した。白い修行着が赤く汚れていくが、そんなことに気がつく暇はない。ただただ不利な体勢を懸命に立て直し、道場に差し込む月明かりと剣の気配を頼りに、防御と反撃を繰り返す。
初めて一人の剣士が倒れたのは、修行開始より約十時間経過した頃だった。肉体の疲労と意識の朦朧、強い眠気と筋肉への負担によって、幽霊のようにふらふらのイリアムが、偶然のためかあるいは一瞬の油断を見逃さなかったのか、一人の達人の胴を袈裟に斬りつけた。傷を負った達人はすぐ後ろに退いたが、そのまま倒れて動かなくなってしまったのである。出血はしているものの、そこまで深い傷ではないため、生命に危険の及ぶことはないだろう。ただ十時間も剣を握っていれば、戦意を維持するのが難しいというだけのことだ。それを考えれば、十九対一の熾烈な戦いを継続しているイリアムの天晴れなこと。この一人の脱落によって、剣士たちの側にいくらか動揺が生じた。
ただしイリアムの疲労も、極限の状態にあった。足下はおぼつかず、真っ直ぐ立っていることが出来ない。手の甲からの出血は止まったが、新たに肘や腕、腰を斬りつけられ、体力が急速に奪われている。汗と血液によって目は開かなくなり、暗闇においてまったく役に立たなくなった視力は捨て、気配と殺気、呼吸、風の動きを全身の皮膚と聴力で辛うじて読みとって生きながらえている。喉が酷く乾き、気道が乾燥のためにくっついてしまいそうになりながら、何とか呼吸を維持するために肺を大きく動かすが、大きな呼吸は相手に隙を見せることとなる。これまでよりも格段に、手痛い一撃を食らわされることが増えた。勇者に学んだ基本的な構えも崩れ、ほとんど酔っぱらいのようになって剣を振り回す。
イリアムは、自分が何をやっているのか分からなくなった。
「(……ここはどこだろう、わたしは一体何をやっているのだろう。全く真っ暗の空間で――いや、目が開かないから真っ暗なのか。この恐ろしい雰囲気は何だ、まるで決闘の殺気のようだが、どこからやってくるのだろう。意識がはっきりせず、眠りに落ちる直前の浮遊のように、不思議で不快な感覚だ。全身が鉛のように重い。わたしの思考とは独立して、勝手にわたしの身体は動いているようだ。おや、何かが見え始めたぞ。わたしが剣士たちを相手に戦っている……それをわたしが上から眺めている! これは奇妙だ)」
イリアムの肉体と魂は分離してしまった。あまりに過剰な肉体の酷使のために、肉体が剣に生きるイリアムの魂を拒絶したのである。肉体は魂の命令を聞くことなく、ひたすら機械的に戦い続ける。剣士たちはイリアムの剣に変化が生じたことに気がついた。さっきまでは間違いなく血のかよった人間を相手にしていたはずなのに、今ではまるで大理石の彫像と戦っているような感覚――。闇夜の暗黒の中でも、イリアムの目だけがギラリと光って目立っていた。
「(不思議だ……もうわたしは死んでしまったのだろうか? 自分で自分の身体が動いているのを見るなんて、どうも普通じゃない。そもそもどうして私の身体はこの明かりの無い空間で大勢の男たちと戦いつづけているのだろう。人の死というものが、魂と肉体の分離だとするならば、このわたしの置かれている状況こそまさしく死そのものに思えるのだが、そこで動いている、そう、動いているわたしの肉体はまだ死んだようには見えない)」
「イリアムよ聞こえるか」
不意に、空間全てが自ずから震えて発されたような、不思議な響きを持つ声がイリアムに聞こえた。
「(誰だ、魂のわたしに話しかけてくるのは!)」
「イリアムよ貴公、よく聞きたまえ。わたしは武勇と名誉を司る神アロマンドーレ。肉体の貴公ではなく、魂の貴公に直接言葉を送信している。貴公は神々の恩寵を一身に受けた勇者マホローンの愛弟子であるから、神々によってそこいらの並の人間よりも関心を抱かれている。わたしを含め天上の神々は知恵と勇敢を尊ぶもの。実直と勤勉によってこの世の理に接近し、死をも恐れず勇気を奮うマホローンや貴公らには、いつも楽しませてもらっておるよ。ところで今貴公は、人間が成し遂げるにはあまりに過酷な修練のために、命を落とそうとしている。魂の肉体からの剥離がその前兆じゃ。しかし剣士が己の刃と一体となり、無敵の技を身につけるためには、一度この生と死の狭間の境地から有益なものを引き出して行かねばなければならない。イリアムよ、いつまでもそこにさまよっていてはならないぞ。ひたすら剣に生きる覚悟ならば、あらゆる状態において刃の真理を求めねばならん。それをわたしは伝えに来た。肉体の鎧から一時的に自由となった今だからこそ、気の付くことも多いはずなのだ。では、ここで朽ち果てる貴公ではないだろうことを願いつつ、わたしは天上へ帰ろう。さらばじゃ」




