お茶でも飲みませんか
「はい、近藤です」
「あ、もしもし? 近藤さん? コンシェルジュですけども」
「管理…内藤さんですか?」
「ええ、コンシェルジュです」
受話器の向こうで微妙に高い内藤コンシェルジュの声が響いていた。
どうしても管理人と呼ばせない、そんな内藤コンシェルジュの意気込みに少々感心しつつあった俺は素直にコンシェルジュと呼ぶことにした。
「どうしました、コンシェルジュさん」
「いやいや、特に用はないんですけどね。落ち着いたら連絡くださいって言ってから数時間経ってますんで、どうしてるか気になって」
「そうですか、わざわざすみません、気にかけてもらって」
「いえいえ。倒れてたりしたら私が困りますからね」
「…そうですね」
「で、落ち着きました?」
落ち着くも何も、引越し荷物を整理しているわけでは無かったし、手を揉んでいたと言えばヘルメットの意外な効果に右往左往していたくらいなので、別に「まだ落ち着いてません」などと返事をする必要も無かった。
「ええ、落ち着きました」
「近藤さん、引越し荷物も何もまだ来てないみたいですけど、どうされたんですか?」
「なんていうか、斉藤部長の手違いで、明日になるんです、大きな荷物は」
「そうなんですか。それはそれはお気の毒に」
「気の毒、ですかね」
「じゃあ、必要な物全てが、今日はな〜んにも無いって事ですよね」
「そうですね、な〜んにもありませんね」
「レ・ミゼラブル」
「…そんな感じですかね」
「近藤さん、どうです? お茶でも飲みに来ませんか、私の部屋まで」
何だろう、軽く馬鹿にされてる感じが非常にするのだが、コンシェルジュの微妙な言葉回しに旨く反抗することすら出来なかった。
完全に頭に来る前に巧妙に話をずらされる感がある。なかなかの腕前だ。
なんて感心しているとコンシェルジュは更に続けた。
「今夜のご飯も無い状態でしょう?」
「カップ麺は持参してるんですけども」
「お湯、沸かせないでしょう、やかんとか無いですもんね」
「ええ、困ってるんです」
「乾燥麺、丸かじりでもしようかと考えてたんじゃないですか?」
「良くご存知で」
「何でもお見通しですよ」
「え?」
「って言ったら気味悪いですよね。カップ麺と聞いて、そうなんじゃないかと思っただけです」
「…そうですか」
「ま、とにかくお茶でも飲みに降りて来てください」
「ええ、これから伺います」
何だか嬉しそうに笑ったコンシェルジュは「お待ちしています」と言ってから電話を切った。
ヘルメットを被ったままだったことに気づいた俺は頭からヘルメットを外し、軽く髪を整えてから自室を後にし、コンシェルジュの部屋へ向かったのだった。
部屋を出ると、赤い錆びた郵便受けに紙切れが挟まっていた。
訝りそれを手にすると『灯流さん感想ありがとう! 水沢』とボールペンで綴られていた。
「なんだ?」
俺は灯流さんでは無い。以前のこの部屋の主か。良く分からん。ますますこのアパートの実態が分からなくなっていた。
一階へ繋がる階段は雨に濡れてびたびたに濡れていた。
赤錆が覆うその階段の隅には、一段毎に青蛙がひっそりと座っていた。
最後の一段の隅に目をやると、そこには蛙ではなくザリガニが陣取っていた。
久々というよりも、都会で生まれ育った俺は生のザリガニなんてちゃんと見たことがなかった。
ハサミを持ち上げながら俺を威嚇するその姿に、初めエビか何かだと思ってびびったが、教科書に描かれていたザリガニの写真を思い出し、それがそうであると理解するまでに時間はかからなかった。
「普通にザリガニって出没するんだな」
まだ威嚇を続けるザリガニの横を通り過ぎ、内藤コンシェルジュの部屋の扉の前に立つ。
すっかり小雨になった雨は、緩い風に吹かれて俺の顔をさわさわと撫でていた。
崖を下る雨は落ち着き、その上の木々も今では活き活きとその緑を広げている。
土から昇るミミズの匂いは程よい土の匂いに変わっており、夏草の香りと共に俺の鼻をくすぐった。
ちょっといい気分になりながらコンシェルジュ部屋の呼び鈴を押した。
「ボンジュール! ボンジュール!」
「……」
忘れてた。
この肉声を。
いい気分はすっかりどこかへ吹き飛び、目の前は瞬時に内藤コンシェルジュの揺れる腹の幻影でいっぱいになった。
「はいはい、近藤さんですか?」
「そうです、近藤です」
「早かったですね」
「二階からですからね」
早いのは当たり前だろう。そう突っ込みたい気分を抑え扉が開くのをしばし待った。
「ボンジュール!」
「…どうも」
何故ボンジュールなのか。
呼び鈴の音といい、内線電話の呼び出し音といい、このコンシェルジュの挨拶といい、先ほどから何度この「ボンジュール」を耳にしていることか。
ここがフランスでは無いだけに、その違和感は大きくなる一方だった。
「お待ちしてましたよ、ささ、どうぞお上がりください」
「失礼します」
「狭いですけどね」
同じアパートに住まっているのだ、狭いのはお前の部屋も俺の部屋も変わりないだろうが。
突っ込みどころは数あれど、それをさせないコンシェルジュの変な存在感にやや圧倒されつつ部屋に上がりこんだ。
「お邪魔します」
玄関を入ると台所が広がる。
その向こうに六畳部屋が見える。
俺の部屋と全く同じ作りであることは間違いなかった。
「今お茶入れますからね、その座布団の上に座っていてください」
「はい、すみません」
内藤コンシェルジュは軽く微笑むと、狭い台所のやかんの口を開き、湯気の昇り具合を確かめてから急須にお湯を注ぎ始めた。
俺は通された六畳部屋をぐるりと見渡した。
尻の下に引かれた座布団は紺色でふかふかの綿が詰め込まれており、明らかに客用ではあったがそれが使われたであろう回数は非常に低いことを物語っていた。
コンシェルジュの部屋ということもあって、どんなにおフランス風なのだろうと半分期待して入ってみたのだが、残りの半分のどうせバリバリに日本風に違いないという諦めのほうが勝った部屋であった。
天井を走る壁には観光地土産のちょうちんがずらりと並び、目の前にあるテーブルは丸いちゃぶ台、壁に添えられている茶箪笥はつやつやとした木目が美しすぎる純日本風のものだった。
「ん?」
良く見ると茶箪笥の上には東京タワーの置物がぽつりと立てられていた。
その隣にはそれよりも少し背の高いエッフェル塔の置物が立っている。
茶箪笥の中に目を凝らすと、フランス国旗のペイントが施されたコーヒーカップとソーサーのセットが二組並べられていた。
「ささ、お茶入りましたよ」
たぷたぷと腹を揺らしながらコンシェルジュがお茶の入った湯のみを俺に差し出した。
「あ、どうもすみません」
「いえいえ、なんのお構いもできませんで」
「いただきます」
「熱いですから気をつけてくださいね」
言いながらコンシェルジュが俺の向かいに腰を下ろす。
タンクトップから少しはみ出した腹に噴出しそうになった俺は、湯飲みに息を吹きかける風を装い、思わず漏れそうな笑いを誤魔化した。
「荷物は明日着でしたっけ?」
「ええ、そうなんです」
俺と内藤コンシェルジュは向かい合ったままひたすらお茶を啜っていた。
「おかわりどうですか?」
「あ、いただきます」
「お茶っぱ交換しますね」
茶菓子一つ出てこない内藤コンシェルジュの気の利かなさに内心うんざりしていた。
「近藤さん」
「はい?」
「なんでお茶菓子の一つも出てこないんだろうとか考えていませんでした?」
「へ?」
何でだ、何故分かる?
「私だったらそう思いますからね。お茶飲みに来ませんかと言っておいて本当にお茶だけかってね」
「は、はは」
「出さないわけじゃないんですよ、冷やしてるんです」
「冷やす…?」
内藤コンシェルジュは立ち上がると流しへ向かって冷蔵庫のドアを開けた。
今更気づいたのだが、そこにある冷蔵庫はこの狭い部屋に似つかわしくないほどデカイ。
もはや業務用サイズはあろうかというその冷蔵庫をパタンとしめると、「上出来上出来」と上機嫌のコンシェルジュが取り皿と共にそれを手にして六畳部屋へ戻ってきた。
「シュー・ア・ラ・クレーム シュルブプレ?」
「シュ…アラ? クレーム?」
クレームという言葉の響きに営業という立場上異常に敏感になっている俺は瞬時身構えた。
「シュー・ア・ラ・クレーム。シュークリームです、どうですか? 甘いのお嫌いですか?」
「シュークリーム…」
「シュー・ア・ラ・クレームです。シュークリームという言葉は本来存在しません」
「はあ」
「シュー・ア・ラ・クレーム。フランス生まれの立派なお菓子です。
シューとはキャベツのこと。ボコボコッと膨らんで焼けた形がキャベツに似ているところからこの名前が付いたんです。
もともとは何か他の料理を作った時に余った生地を捨てるのがもったいないので焼いてみたらできちゃったなんて説もあります」
「…お詳しいんですね」
「そうですかね、常識かと思ってました」
「…そうですか」
「甘いのお嫌いですか?」
「いえ、大好きです」
「それは良かった。たくさん焼いたのでいっぱい食べてってくださいね」
「これ、内藤さんが作ったんですか?」
「ええ、好きなんですよ料理。特にフランス菓子作り」
「へえ…」
俺はもう一度内藤コンシェルジュの姿をマジマジと眺めた。
タンクトップにハーフパンツ。
このオヤジがこの繊細なシュー・ア・ラ・クレームを作ったのか…俄かには信じ難かったが、流しに散乱する強力粉やふるいなどを目にするとその疑問は静かに引いていった。
「日本茶にシュー・ア・ラ・クレーム、これがぴったりなんですよ」
「そうなんですか」
「と、私が思っているだけですけどね」
「…いただきます」
一つを手にし、そっと口をつけると、中からトロリとしたクリームが舌先に絡みついた。
それは驚くほど繊細で美味で芳醇で…なんとも例えようの無い、まさに初めて口にする最高のシュークリームだった。
「これ、すっごく美味いです。すごいです、このシュークリーム」
「シュー・ア・ラ・クレームです」
「このシュー・ア・ラ・クレーム、すごく美味いです」
「お口に合いますか? それは良かった」
「今晩はこれでしのげそうです」
「それも良かった。私も夕食は殆どフランス菓子なんですよ」
「へ?」
「フランス菓子好きが災いしてって言いますかね、こんなお腹になってしまって」
はははと笑う内藤コンシェルジュの腹が揺れる。
毎晩、こんなに大量の甘いものを食っているのか。
それでその腹なら納得できる。
俺はシュー・ア・ラ・クレームをこれでもかというくらい遠慮なく腹に押し込んだ。
「ご馳走様でした」
「いえいえ。こんなに食べていただけて嬉しい限りです」
口の周りに付いたクリームをハンカチで拭い、俺はコンシェルジュに頭を下げた。
「荷物が明日ってことは、明日から本格的なここでの生活が始まるってことですね」
「ええ、そうですね。あ、そうだ、引越しのご挨拶もちゃんとしませんで…すみません。何せご挨拶用と思っていた品々なんかもあっちに残してきてしまったもので」
「そんなのいいですよ、近藤さん」
「そういうわけにはいきませんよ」
「それもそうですね」
「…ここは…このアパートは内藤さん以外に四人いらっしゃるんですか?」
「ええ、各部屋にいらっしゃいます」
「その方達にもきちんと挨拶しないと」
「そうですね」
そうなのだ。
引越しの挨拶にと思って準備していたタオルがあったのだが、それもこれも全部東京に残してきてしまった。
挨拶回りは明日にするしかない。
俺も抜けてるな、と頭をかくより仕方なかった。
「ここの住人は皆親切ですよ」
「そうですか」
「ええ、楽しい方ばかりです」
「それは良かった」
「ところで近藤さん」
「はい?」
「今日はもう夜ですから明日にでも改めて説明しますけどもね、このアパートには色んな規則がありましてね」
「規則ですか?」
「ええ、そんなところです。規則っていう規則でも無いんですけどもね、決まり事といいますかね」
「決まり事」
「コミュニケーションの一つとでも思っていてください」
「はあ」
何だろう。
ゴミだしのルールとか、何時以降は洗濯機を回さないだとか、朝はちゃんと挨拶するだとか、そんなものだろうか。
その時の俺は、常識に則った規則を考えていただけだった。
後にそれはとんでもない規則…回覧板ということだと判明するのだが、シュー・ア・ラ・クレームを内藤コンシェルジュと向かい合って食したこの日にはてんで見当が付かなかった。
「もう一杯いかがですか?」
「いえ、もう結構です。ご馳走さまです」
「そうですか。私はあと一杯くらい飲みたい気分なんですけど」
「あ、じゃあ、俺もいただきます」
「無理してませんか?」
「…してません。むしろ飲みたいなと思い直したところです」
「良かった」
やかんからジョロジョロと急須にお湯が注がれる。
その湯気の立つ注ぎ口を見つめる視線の向こうに微妙にくくくっと揺れるコンシェルジュの腹が小刻みな運動を繰り返していた。
このコンシェルジュ、侮れない。
そう感じながら再び入れられた日本茶をかぽかぽと音を立てる己の腹に注ぎ込んだ引越し初日の夜だった。