加藤、お前もか
頭から昇る湯気が収まりかけた頃、俺はもう一度カポリとヘルメットを装着し加藤へ電話を入れた。
ベランダの窓に叩きつける雨の音はだいぶ弱まりかけていた。
灰色だったその色も一段階上の明るさを含んだ色に変わっている。
「もしもし? 先輩すっか?」
加藤の陽気に高い声が六度目のコールの後に響いた。
「ああ俺だ。さっき無事に着いたよ」
「良かったっすね。で、ちゃんと在ったんですか、メロン三丁目」
「在った。正確にはメロン三丁目じゃなかったんだけどな。め・い・こ・ん三丁目だった」
「めいこん三丁目」
「そうだ」
斉藤部長よりも理解が早い加藤にやや安心した。
「で、めぞんディコメは在ったんですか?」
「在った。正確にはめぞんディコメじゃなかったんだけどな。メゾン・デ・孝明だった」
「めぞんでこうめい?」
「そうだ」
「どんな字書くんっすか」
「メゾン・デまではカタカナ、孝明は孝子の孝に、明るいって漢字だ」
「メゾン・デ・孝明」
「分かったか?」
「それ、間違ってませんよね」
「ああ、間違ってないんだ」
「変な名前っすね」
「ああ。馬鹿にされた感じだよ」
斉藤部長よりはきちんと物事を判断できる加藤にますます安堵した。
「荷物送って欲しいんだ。ホントに何も無くてな」
「任せてください。業者も手配済みですから」
「なかなか気が利くな」
「ええ。後は必要なものを言ってくれれば送り出すだけですから。先輩、メモ取って聞けと俺に言ったでしょう」
「ああ」
「一応、米と水はダンボール三箱分用意してありますから」
「…そうか、ありがとう」
やはり米と水は準備済みだったか。
見当違いの気もするが、今の俺の状況からして加藤の用意してくれた米と水はそれなりに有りがたかった。
「それより先輩、藪からスティックですけど、今どこから電話かけてます? 携帯ですよね?」
「……」
瞬間、斉藤部長の間抜け面が頭に浮かんだ。
「お前もか」
「え?」
「いや、何でもない。部屋からだ」
「部屋? 可笑しいなあ、電波入ります? 俺何度か先輩の携帯に電話したんっすよ。てんで繋がらないんで、どこかで事故ってるのかと思いましたよ」
「事故って」
「無事で良かったですけど」
「まあ、説明するとだな…」
俺は斉藤部長へ報告した通りのことを加藤へも説明した。
途中加藤は「へえ!」「マジっすか!」を連発し、俺の一言一言に感嘆の声を上げた。
斉藤部長の抑揚の無い声を聞いた後だった俺は、その大げさ過ぎる加藤の反応が嬉しかった。
「すごいだろ」
「やばいっすよ」
「だろ」
「俺も田舎町に行って営業かけた方がいいっすね」
「ああ、そのほうがいい。時期に社長…部長からかもしれないが命令が下ると思うんだがな」
「そうですね、準備はしときますよ」
「大変かもしれないけどな、田舎町に飛ばされるのは」
「いいんっすよ。俺、田舎に泊ろう好きですから」
「一泊ってわけじゃないんだぞ」
「ああそうか」
大丈夫だろうか。やや心配したが加藤のこのノリならどこに飛ばされても旨くやっていけるだろう。
「じゃ、今言った家電やら何やら、ちゃんとメモ取ったな?」
「はい、ちゃんとメモ取りました。これから直ぐに業者に積み込ませます」
「宜しく頼むぞ」
「任せてくださいっすよ」
張り切る加藤の声にそういえばと気がついた。
ちゃんとした住所を教えていなかったのだ。
「加藤、俺住所まだ言ってなかったわ」
「あ。そうでしたね」
「○○県、」
「○○県」
「××市、」
「××市」
「明金三丁目、」
「めいこん三丁目…って、めいこんって平仮名っすか?」
「いや違う。明るいに金だ」
「明るいに菌…何だか汚いっすね」
「何が?」
「どんな菌っすか」
「明るいに金…金、金曜日の金だぞ」
「ああ、明るいに金曜日の金っすね」
「じゃなきゃ、めいこんとは言わないだろうが」
「そうっすね、あはは」
「…メゾン・デ・孝明、」
「メゾン・デ・孝明、ぶぶっ、何度聞いても笑えますね」
「次聞いて更に笑うなよ」
「なんすか」
「部屋名だ」
俺の言葉に期待を隠せない加藤の様子が受話の向こうから伝わってくる。
「何号室っすか?」
「レ・ミゼラブル室だ」
「は?」
「レ・ミゼラブル」
「レミ イズ ワンダフル? なんっすかそれ。ぶぶっ。楽しそうですね」
お前もか。
ため息をつき俯く頭の中から冷たい汗が頬を伝って携帯を濡らした。
「レ、中黒」
「レ、中黒」
「ミ、ゼ、ラ、ブ、ル、だ」
「ミゼラブル…っと。レ・ミゼラブル? なんっすか、それ。ぶぶぶー」
「笑うな、俺は泣きたい」
「分かりました。これで無事に荷物送れます。明日には着くようにしますから」
「ああ、頼むよ」
「了解っす」
荷物は明日か。
今日はやっぱりカップ麺丸かじりの夕食か。
そんなことを考えながら電話を切った。
窓を打つ風も弱まっていた。
そっとベランダの窓を開けてみる。
斜め前に横たわるどぶのような池はますます濁り、蓮の葉の上に特大級のガマカエルが座り込んで二階の俺を見ていた。
しばらくゴロゴロと喉元を震わしじっと俺を見ていたが、飽いたのか一つベロンと瞬きをすると重そうな身体をひねって濁った水へと消えていった。
腕時計を見ると四時半を指していた。
窓を閉め部屋に振り返ると同時に、壁にかかった内線電話から「コンシェルジュです、コンシェルジュです」と肉声が聞こえてきた。
ビビッたが、それがコール音だということに数秒後気づいた。
「これも肉声か」
俺はおそるおそる「コンシェルジュです、コンシェルジュです」と繰り返す白い内線用電話の前まで進み、そっと受話器を持ち上げたのだった。