藪からスティックとレミイズワンダフル
ヘルメットを被った俺は六畳部屋の中央に移動した。
手にする携帯は立派に二本線を表示している。
耳にあてる受話部分からはプルルル…と小気味良い発信音が響いていた。
八度目のコールで斉藤部長の低い声が出た。
「もしもし、何だ」
「何だってことはないでしょう、近藤です」
「それは分かっている」
「部長、着きましたよ、明金三丁目、メゾン・デ・孝明」
「ああ着いたのか、良かったな。直ぐに分かったか、メロン三丁目、めぞんディコメ」
「メロンじゃなかったですよ、明金です」
「め…ろん、三丁目だろ」
「め・い・こ・ん、三丁目です」
「ふーん」
「何ですかその反応。メロンと明金、だいぶ違うじゃないですか」
「似たようなもんだろ、無事着いたんならいいだろう、メロン三丁目」
「だから…明…、ま、無事着いて良かったですよ」
外回りでもしているのだろうか、相変わらず無責任な部長の声の後ろでは、時折車のエンジン音が響いていた。
「で、どうだ、めぞんディコメは」
だからそれも違うって。「メゾン・デ・孝明」だと正そうかと思い口を開きかけたが、繰り返し何度説明をしたところでこの斉藤部長の頭にはきちんとインプットされる事はないだろうと思い直し言葉を呑み込んだ。
「まあ、見た目はボロいですけど、中はまあまあですよ、メゾン・デ・孝明」
「メゾン・デ・孝明?」
分かるのかいっ!!
明金三丁目を理解できない斉藤部長は、「メゾン・デ・孝明」の限りなく「めぞんディコメ」に近い方の言葉の誤りを理解できた。
「良く分かりましたね、メゾン・デ・孝明」
「お前が今そう言ったんだろうが」
「…明金三丁目」
「マロン三丁目がどうした」
「……」
何故そこは理解できない。しかも既に町名が変わっている。
「いえ。何でもありません」
「で、何号室だったんだ。加藤が気にしてたぞ」
「レ・ミゼラブル室です」
「レミ イズ ワンダフル? 楽しそうな部屋だな」
「……」
やっぱり。
俺の想像は間違っていなかった。
「ああ、無情ですよ、レ・ミゼラブル」
「編む嬢、レミ イズ ワンダフル? 何屋なんだ、そのレミっていう女は」
「…それより部長、あれ被ってみました?」
「なんだ、あれって」
「ヘルメットですよ。摩訶不思議なヘルメット」
「ああ」
「被ったんですか」
「被るわけないだろう」
「…ですよね」
部長の声の奥ではエンジン音に加えて人ごみに溢れる足音が漏れてくる。
ただ豪雨の中、ポツンと一人狭いアパートに放り込まれた自分の現状を思い、ふいにその喧騒が懐かしく感じられた。
「賑やかですね、外回りですか」
「まあ、そんなところだ」
「こっちは酷い豪雨ですよ」
「そうみたいだな、さっきからお前の声と一緒にビタビタと何かが煩いと思ってたところだ」
「ヘルメット売れました?」
「売れるわけないだろう」
「そんな自信たっぷりに言わないでもらえますか? そっちで売れないヘルメットがこんなど田舎で売れるとでも思って俺を送りだしたんですか」
「さあな」
「さあなって」
「で、なんだ、用件は」
おそらく一服でも始めたのだろう、「よっこいしょ」と言う声と共にふうと息を吐く音がする。
直ぐ耳元で聞こえる部長の吐息が何となく気持ち悪く、思わず受話部分を数十センチ離してから再び耳元に当て次の言葉を切り出した。
「あのヘルメット、すごいんですよ」
「なんだ、藪からスティックに」
「…何故、ルー語なんですか」
「流行ってるだろう、ルー語」
「まあ、そうですけど」
「で、藪からスティックになんだ」
「俺、さっきヘルメット被ってみたんですよ」
「ほう」
「そしたらですね、大発見をしたんです」
「ほう」
「今俺、携帯から部長に電話してるんですけどね」
「それは分かっている」
「ええ。でも携帯の繋がるような場所じゃないんですよ、明金三丁目」
「そうなのか、マロン三丁目」
「マ…そうなんです、明金三丁目」
「ほう」
「でもですね、ヘルメットを被ったらですね、繋がったんですよ、携帯」
「意味が分からん」
「えーっとですね、明金三丁目に来たときには既に圏外だったんです」
「うむ」
「もちろん、レ・ミゼラブル室に入っても圏外でした」
「レミ イズ ワンダフルも圏外だったと」
「…そうです。でも思いつきで…というかたまたまヘルメットを被ってみたらですね、何故か電波が入ったんです。で、こうして斉藤部長に電話をかけることが出来てるんです」
「ほう」
「驚きませんか?」
「なんでだ?」
「なんでだって…圏外だったのが、ヘルメットのおかげで電波が入ったんですよ」
「ほう、それはすごい、最初からそう言え。回りくどくて分からん」
鈍い。鈍すぎる。斉藤部長が部長に成り得たことが不思議に感じられた。
「このヘルメット、脳なんて鍛えませんよね」
「当たり前だろう」
「だから自信たっぷりに自社の製品を否定しないでもらえますか。それを売りに来ている俺のことも考えてくださいよ」
「俺の命令じゃないからな」
「でしょうけどもね」
「で、なんだ」
鈍い。鈍すぎる。そこでもっと驚き、商品の売り出し法を考え直すべきだと何故思えない。
半ば呆れながら俺は斉藤部長に説明を開始した。
「このヘルメットですね、脳なんて鍛えませんから、そもそも商品のキャッチコピーを見直すべきなんです」
「うむ」
「そんなキャッチでこのヘンテコな被り物を持ち込んでも絶対売れませんからね」
「うむ」
「しかし何故か携帯の電波をキャッチする機能を備えているんです」
「うむ」
「びっくりでしょう」
「そうだな」
「脳を鍛える摩訶不思議なヘルメット、これは名前も付けなおしです」
「うむ」
「電磁波の有効利用が何とかかんとか…これも少し手を加える必要がありますね」
「うむ」
分かっているのかいないのか、斉藤部長は電話の向こうで一つでっかい欠伸をかましている。
「部長も試してみてくださいよ。ヘルメット被って」
「しかしだな」
「なんですか」
「こっちは電波バリバリ入るからな、そんな検証、アイキャント、できない」
「なんでルー語なんですか、分かりにくい」
「流行ってるだろう、ルー語」
言われてみればそうだった。
都会でこのヘルメットの機能を試してみることはなかなか難しい。
そして田舎町でこそこのヘルメットの効果が期待できるというものだ。
「部長、加藤はどうしてるんですか」
「こっちで営業してるぞ」
「それも考え直すべきです、このヘルメットは田舎でこそ役に立ちます」
「話をリッスン、聞く限りではそうらしいな」
「社長はどこです?」
「さあ」
「さあって。社長に言ってくださいよ、商品名とキャッチを一から考え直すべきだと」
「そうだな」
「ともすればこれは大発見、いや、大発明ですよ」
「そうだな」
一人興奮する俺を尻目に部長はやけに落ち着いている。
いや、落ち着いているというよりも何も考えていないに違いない。
どこで旨くルー語を使おうか、そんなことばかり頭に過ぎっているに違いない。
「必ず言っておいてくださいよ。売り方によっては絶対ヒット商品になります」
「ああ」
「なんだったら俺が立証済ですから、商品名とか色々考えますからとも言っておいてください」
「ああ、そうする」
「必ずですよ。こんな田舎に来た俺の苦労を無駄にしないでください」
「藪からスティック」
「使うとこじゃないですよ」
「気にいってるんだ」
「…じゃ、そういうことで。また連絡しますから」
「分かった」
一抹の不安よりもかなりの不安を抱えながら俺は電話を切った。
指先にはピリピリと電気が流れている。
ヘルメットを被る頭は蒸し暑さのせいでモワモワと汗を掻いていた。こめかみ部分から一筋の汗が流れ落ちてきた。
「次は加藤だな」
引越し荷物を送ってもらわねばならない。
だが蒸れた頭が気になって一度ヘルメットを外した。
何も無い部屋で俺の頭から昇る湯気だけが白く緩々(ゆるゆる)と踊っていた。