被ってみたら大発見
“哀れな人”の称号を与えられた俺は、まさに“ああ、無情”な気分で「レ・ミゼラブル室」に足を踏み入れた。
何故「レ・ミゼラブル室」なのか。
いや別に「レ・ミゼラブル」の意味に落ち込んでいるのではない。
いやいや落ち込んでいるのは確かだが、「レ・ミゼラブル」に腹を立てているわけでもない。
何故フランス語なのかということでもない。
何故「A号室」や「1号室」といった普通の部屋名を付けれなかったのか。
そこだ。
一体誰が名づけたのか。
あの管理人か。内藤コンシェルジュか。
コンシェルジュ…今更だが何故コンシェルジュなのかということも気になり始めた。
どの面下げてコンシェルジュを名乗るか。
あの腹と尻はどう贔屓目で見てやっても裸の何とかだ。
玄関に入ってしばらく謎のコンシェルジュとレ・ミゼラブルについて頭を悩まされたが、裏山に落ちたのだろうか、ドドドドーンという落雷の音に我に返った。
「ま、どうでもいい」
そもそも斉藤部長が探した物件だ。こんな事が起こっても仕方がない。
むしろこうなってしかるべきだ。「キャメロンデヤンス」に通う部長だ。
明金三丁目を「メロン三丁目」、メゾン・デ・孝明を「めぞんディコメ」と何食わぬ顔で地図に書き添えた男のやることだ。
俺が斉藤部長に電話でもして「レ・ミゼラブル室でした」と報告すれば、きっと「レミ イズ ワンダフル? 楽しそうな部屋だな」と返してくるに違いない。
ま、それもどうでもいい。
俺は靴を脱ぎ台所に踏み入った。およそ三畳分のスペースに流しとガス台が備え付けられている。
そこにヘルメットの入ったダンボールを下ろし、雨のせいで余計に薄暗くなっている狭い部屋を見渡した。
フローリングではない。畳貼りの六畳部屋。向かって右手側の襖を開けるとやはり畳貼りだが三畳部屋が隣接していた。
意外にも部屋は小綺麗だった。
それもそうか。名前からして敬遠される部屋だ。殆ど使われていなかったと見るのが正しいのだろう。
というよりも長いこと空き部屋だったに違いない。
以前この部屋を使っていたかもしれない主の生活臭は微塵も残されていなかった。
目の前のベランダ用のガラスには激しい雨が音を立てて吹き付けている。
灰色に曇ったそこには時折稲光が縦に反射した。
立て付けが悪そうなガラス戸はガタガタと震えている。
振り返ると、後ろの壁に内線用の電話が掛けられていた。
「落ち着いたら内線でもください」と言ったコンシェルジュの言葉にやや違和感を抱えながら返事を返していたが、これのことだったのか。
こんなちっぽけなアパートに果たして内線電話など必要なのだろうか。
どんな用事で使うのだ。
刹那そんなことを思ったが、その場はそれ以上深く考えることもなく次の思考に頭のスイッチは切り替わっていた。
当たり前だが部屋はがらんどうだ。内線用電話以外何もない。
その壁の向こうに目をやれば、湿気を含んだせいで形がゆがみ始めているヘルメット入りダンボールが台所の床に所在無げに佇んでいるだけだった。
「さて、これからの今日一日をどう過ごそうか」
俺が引越しに持ち込んだ荷物はヘルメットと僅かばかりの金とカップ麺だけだ。
幸いガスコンロは備え付けてあるものの、肝心のやかんも鍋もない状態だ。
夕食は乾燥麺そのまま丸かじりか。
それは避けたかった。
それじゃなくとも“ああ、無情”状態なのだ。
何もない部屋で麺とかやくをそのまま頬張る己の姿を想像し、背筋に悪寒が走った。
しばらくガラス越しから降りしきる豪雨を眺め、俺の手は無意識に携帯電話に伸びていた。
ポケットに手を突っ込み、慣れ親しんだその感触に触れた直後に思い出した。
この町に降り立った時から既に圏外だったと。
おそるおそる携帯を開く。確認するまでもなく普通に圏外だった。
「だよな」
自分の顔に苦笑が浮かぶのが分かる。
しかし俺は諦められなかった。
六畳の部屋を歩き回り僅かな電波を探った。
分かりきっていたことだが結果は虚しいものだった。
圏外の文字は一本の線を表示することさえも許さずそこに陣取ったままだった。
それでも諦めきれない俺は隣りの三畳部屋に移動し、やはり隅々まで歩き回った。
しかし結果は同じことだった。
「これじゃ加藤に連絡すら入れられん」
途方に暮れた俺の目の隅に、再び窓から差し込んだ稲光に反射する銀色が飛び込んできた。
台所に置いたヘルメットの触覚だ。
黄色の上に乗ったやけにキラキラと光る触覚に俺の足は無意識にそのダンボールへ引き寄せられていた。
「これに水でも入れて火にかけてみるか」
ため息混じりに漏れた馬鹿な発想がヘルメットの山に飲み込まれていく。
俺の声など受け止めているはずもないヘルメット達はただ無言のまま整然と箱の中で積み重なっていた。
「そういえばこのヘルメット、一回も被ったことないな」
それもそうだ。こんな不細工な代物、誰が好き好んで被ったりするだろう。
一つを手にし、その間抜けな姿をマジマジと眺めた。
「電磁波の有効利用ねぇ」
言いながらそいつを頭に乗せてみた。他にすることが無かったのだ。
トイレのドアを開け、そこにある鏡に自分の姿を映して笑いが漏れた。
少しばかり左寄りに傾いているが、それでもピンと立った触覚が頭の上で白熱灯の光を浴びて輝いている。
スーツ姿の身に黄色の触覚付ヘルメット。
「アホな現場監督か」
しかし何故かカポリと頭にフィットする感触が思いのほか心地よく感じられた。
意外な被り心地のよさに驚いた。
加えて全身をピリピリと何かが走る。
例えるならばそれは整体などで受ける電気治療のようなものだった。
その妙な心地よさから、俺は己の間抜けな姿を携帯カメラに収めておこうと思いついた。
頭から流れ込むピリピリとした感覚は携帯を開く指先にも伝わっている。
「ん?」
携帯を見る俺の目がある一箇所で固まった。
小さな画面の左上、そこにあるはずの圏外の文字が無くなっていたのだ。
「え?」
無くなっているということはそう、電波状況を示す棒が立っているのだ。
しかも2本。
「何だこれ」
驚いた俺は鏡に視線を移し、そこに移る自分の姿を再び凝視した。
相変わらず間抜けな現場監督と化した己が呆けた顔でこちらを伺っている。
気のせいかてっぺんの触覚が自ら光を放っているようにも見えた。
「もしかしたらコイツか」
訝りながらヘルメットに手をかけ頭から外した。
途端先ほどまで身体を巡っていたピリピリという感覚がピタリと無くなった。
慌てて携帯を確認してみる。
そこには圏外の文字が再び表示されていた。
「マジで?」
急いでヘルメットを被り直し、もう一度携帯を覗き込んだ。
「立ってる…」
バリサンとまではいかないが、話をするには十分の二本線がきっちりと表示されていた。
「あり得ない…」
俺は狂ったように蒸し暑さも忘れて狭いトイレの中でヘルメットを被ったり外したりを繰り返した。
被る度に線が立ち、外すたびに圏外が表示される。
腕の上げ下げによる筋肉の痛みとじっとりと流れる汗に覆われた俺の身体は少しばかり震えていた。
ヘルメットの被りすぎでボサボサに乱れた髪の俺は鏡の中で頬が赤かった。
「これは、ひょっとするとひょっとするぞ」
『脳を鍛える摩訶不思議なヘルメット』、これは初めから嘘っぱちだ。脳など鍛えてくれるはずもない。まずはネーミングの見直しだ。
『電磁波の有効利用』そこら辺は正しいのかどうか分からないが、まるっきり的外れなキャッチコピーでもないだろう。しかし少し手を加える必要はありそうだ。
どうしてなのか、何がそうさせるのか、説明はつかないが電波を引き寄せる効果があるのは確かだ。自分で立証済みだ。
興奮のせいなのか、はたまたピリピリという電気のようなもののせいなのか、とにもかくにもプルプルと痙攣にも似た震えが走る指先をボタンに乗せて、俺は加藤の名前をスルーし、斉藤部長へ電話を入れたのだった。