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レ・ミゼラブル

「やべ」

俺は先ほどまで呆けて眺めていた『メゾン・デ・孝明』の看板の横を慌てて走り過ぎ、アパートの裏手へ回った。

各々の部屋の前には黒く塗られた玄関扉が並んでいる。

同じように赤い錆びたポストがその隣に設けられている。

壁にぴたりと身体を押し付け、ふうと息を吐いたその瞬間、天が何かを思い出したかのようにバケツをひっくり返したかのような雨が落ちてきた。

「危ない危ない」

間一髪だった。ヘルメットには数滴の雨粒が光るものの、てっぺんの触覚は全て無事だった。

「で、俺の部屋はどこだ?」

斉藤部長からは『めぞんディコメ』というネーミングしか情報は入っていなかった。

アパートの手配は部長が進めてくれていた。

部長が手配するという事にもっと慎重になっておくべきだった。


「とりあえず俺から管理人に連絡しておいたから心配ない。鍵は行ったその時にもらってくれ」

「その日にですか」

「その日にだ」

「何号室とかは…」

「分からん」

「引越し荷物とかもあるんですけど」

「ヘルメットだけもっていけば何もいらんだろう」

「ヘルメットで生活ができますか。俺も一応人間ですし、家電も欲しければ家具だって必要最低限のものは欲しいですよ」

「じゃ、あとから送ればいい」

「俺が引っ越してしまったら、一体誰が荷物を送ってくれるんですか」

「加藤にでも頼んでおけ」

こんな調子だったものだから、俺は本当に手荷物一つとヘルメットのダンボールしか引越し初日は持ち込んでいなかったのだ。

仕方なく俺は部長に言われた通りに後輩の加藤に荷物の発送を頼むことにした。

「任せてください。とりあえずアパートに着いたら連絡ください」

「悪いな。こんなはずじゃなかったんだけど。部長が相変わらずでさ」

「まあ、斉藤部長の手配ですからね、当てにしたらまずいっすよ」

「アパートの名前もあやふや、何号室かさえも分からない。参ったな」

「仕方ないっすよ。ちゃんとした住所分かったら教えてくださいね。直ぐに米送りますから」

「…米って」

俺は加藤を当てにしてもよいのだろうか。

ニコニコと微笑む加藤の顔面に斉藤部長の影が被った。

「いや、米とかは現地で調達できるし、その前に必要なものってあるだろう」

「水ですか」

「…そうだな。とにかく着いたら連絡する。そのときに必要なものを全て言うから、ちゃんとメモを取りながら聞いてくれ、加藤」

「任せてくださいっすよ」

頼もしい後輩の言葉を胸にその夜俺はいそいそと荷物をまとめたのだった。


ますます雨足が強くなってきた。

アパートの裏には切り立った崖が数十メートル上まで伸びている。

その上にはやはり緑がびっしりと生い茂り、背景に広がる黒い雲の中で稲光が燻っていた。

ゴロゴロという音はさっきよりも近づいている。

崖を伝って降りてくる雨水が玄関前の土に這いつくばり薄い湖ができかかっている。

先ほどまでの暑さに焼けた土は、雨水を含んでミミズの匂いを放っていた。

壁に寄りかかったまま左隣にある黒い玄関扉、一階の左端の部屋の表札を見る。

『concierge(コンシェルジュ:門番)』

「は? コンシェルジュ?」

赤いマジックペンでへたくそに書かれたフランス語。

もしかしたら管理人室か。

何なんだ、俺は一体どんなところへ来てしまったのだ。

しばらくその赤い文字から目を離せなかった。

激しい雨は足元にも時折ぴしゃりと跳ね返る。

このままここに立っているわけにもいかない。

抱えたダンボールを下ろすこともままならず、左腕とアゴで箱を抱えながら赤いポストの横の呼び鈴をやや緊張しながら押した。

『ボンジュール!!』

「……」

なんだこの呼び鈴の音は。

音じゃない。肉声じゃないか。しかも「ボンジュール」って。

このときから既にこのアパートの怪しさが伺えていたのだ。

俺が呆気にとられていると、中から男の声がした。

「はーい」

コンシェルジュは普通に日本語を発していた。日本人であることは間違いない。やや安心した。

「あの、コンシェルジュ…管理人さんですか?」

「コンシェルジュです」

「コン…ここの管理人にあたる方ですか?」

「そうですけど」

「今日からお世話になる近藤です」

「ああ、はいはい、斉藤さんから聞いてましたよ」

「俺の部屋、何号室ですかね」

「ああ、ちょっと待ってください、今開けますから」

鍵を外す音の後に扉が開き、中から太った中年男が顔を覗かせた。

もはや日本人であることは明らかだったが、白いタンクトップにハーフパンツという、おにぎりが非常に良く似合うであろうオヤジがにっこりと微笑んでいた。

コンシェルジュの言葉にしっくりこな過ぎるその容姿にただマジマジと視線をぶつける事しか出来なかった。

「ボンジュール!」

「…はじめまして。お世話になります」

「いやいや、すごい荷物ですね、何ですかそれ?」

「会社の商品です」

「雨の中大変だったでしょう。今お部屋に案内しますからね」

「お願いします」

「近藤さんの部屋は二階の真ん中になりますからね。あ、そうそう私は内藤です。宜しくお願いしますね」

「内藤…孝明さんですか?」

「いえ、内藤康夫です」

「…そうですか」

コンシェルジュは俺の前を行き、二階へ続く階段を上り始めた。

ゆっさゆっさとハーフパンツの中の尻が揺れている。

「営業ですってね」

「ええ」

「大変ですね」

「ええ」

「まあ、この町の住人は皆いい人ばかりです。きっと売れますよ」

「そうですかね」

「分かりませんがね」

二階の真ん中の黒い扉の前に着き、管理人…コンシェルジュは振り向いた。

「こちらです」

「どうも」

「今、鍵を開けますからね」

「はい」

扉に鍵を突っ込みカチャリと音を立てるコンシェルジュが前かがみになる。

その背中越しから見えた扉の表札に釘付けになった。

『Les miserables』

「レ…」

「ミゼラブルです。レ・ミゼラブルが近藤さんのお部屋の名前です」

「レ・ミゼラブル…たしか…ヴィクトル・ユゴーの」

「このお部屋、ちょっと名前があれで、敬遠されがちでしてね。その分お安くなってますから」

「“ああ、無情…”」

「まあ、そんな感じです。“哀れな人々”って訳するのが正しいんですけどね」

「……」

「知ってるフランス語を使ったらこうなったっていうだけですから。気にしないでください。逆にカッコいいじゃないですか。素敵な響きですよ、レ・ミゼラブル」

ダンボールを抱える腕から力が抜けた。

寸でのところでヘルメットの落下は食い止めたが、田舎町へ営業へ行かされた哀れな身に、見事に哀れの称号を与えられた事で二階まで立ち上るミミズの匂いが絡み付いた。

泥土の上を這いつくばっているような感覚が全身を覆った。

「じゃ、こちらが鍵です。落ち着いたら内線でもください。お茶を用意しますから」

「…はい」

「これから宜しくお願いしますね」

「…宜しくお願いします」

内藤コンシェルジュはにっこりと微笑み階段を降りていった。

階段を一歩降りる度にゆっさゆっさと揺れる腹の肉を眺め、まだゴウゴウと降る雨音を聞きながらその場に立ち尽くしていた。

崖を伝う雨は俺の涙か。

黒い扉に振り返ると、フランス語の赤文字が「ああ、無情」とだけ俺に囁いていた。






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