強ち間違ってはいませんでした
まだ太陽は青々と広がる空のてっぺんにある。
町を取り囲むようにぐるりと緑が走るその向こうには綿菓子のような入道雲が立ち上り、何となく雨の気配が伺えた。
一匹の蛾が電話ボックスのガラスに体当たりをし、そのままひらひらとヘルメットで埋め尽くされたダンボールへと落ちていった。
ヘルメットに光る触覚が陽射しを浴びてギラギラと目を刺す。
いくつもの光る触角の隙間から先ほどの蛾が這い出してきて、黄色いヘルメットに粉を撒き散らしてから田んぼの向こうへ消えていった。
その後を目で追い視線のたどり着いた先の緑の上には怪しげな雲が広がり始めていた。
蛾がガラスにぶつかりヘルメットの海に溺れて這い上がってくるまでの僅かな間で、先ほどまで広がっていた青い空はうっすらと灰がかかっている。
相変わらず立ち上る入道雲のずっと奥からゴロゴロと嫌な音が響いていた。
これだけのヘルメットを抱えながら雨に降られたりしたら溜まったもんじゃない。
いくらインチキ商品とはいえ、一応今期の主力商品であることは間違いない。
今でこそまるで役立たずのヘルメットだが、雨に濡れたりなぞしたらもっと役に立たなくなってしまう可能性が非常に高い。
なんたってオバちゃんの工作品だ。ボンド、いや糊でくっつけたであろう銀色の触覚が取れてしまう。
電話ボックスを出て雲に覆われ始めた空を見上げてからダンボールを持ち上げた。
目の前に銀色の触覚。
ふうと一つため息を吹きかけたら、蛾の撒き散らした粉が汗まみれの顔面に飛びついた。
「なんだかなあ」
とりあえず借りたアパートへダンボールを非難させなくては。
砂利と土の混じった道を歩き始めたその農道の向こうに赤サビで覆われた二階建てアパートの屋根が見える。
会社を出る直前に斉藤部長に渡された手書きの汚い地図に記された場所にあるアパートのようだ。見て直ぐに分かった。
部長の手書き地図には一本の線と時折その横から伸びる短い線と「池」と書かれた丸、その斜め向かいに星模様が書かれてあり、矢印が向けられ「ココ」と書いてあった。
「部長、なんですかこれ」
「なんですかって地図じゃないか」
広告の裏に鉛筆でうっすらと書かれた地図を手にしながら、鉛筆削りを黙々と続ける斉藤部長の頭のハゲに息を漏らした。
「いや、それは見て分かりますけども。線と丸と星だけの場所ですか」
「違うぞ」
「いや、線と丸と星だけじゃないですか」
「道と池とアパートだけだ」
削る途中で何度も芯を折り、13センチほどあった鉛筆が7センチまで身長を縮めた姿を誇らしげに眺める部長は次の鉛筆を手にしながら当たり前のように答えた。
「だからそうじゃなくて。こんな安易な地図でアパートを見つけられるんですか」
「このとおりだから仕方無いだろう。無いものを書くことは出来ない」
今向こうに見える赤サビ屋根の向かいにはどぶのような池が横たわっている。
こんな地図で場所なんて分かるかと思っていたのだが、単純な地図どおりにそこにある光景に頭の奥で笑うより仕方なかった。
広告の端の方には「メロン三丁目、めぞんディコメ」と書いてある。
俺の営業先である町名と住まうことになるアパートの名前だということには始め気づかなかった。
気づけるわけないだろう。「キャメロンデヤンス」同様、また部長の訳の分からない行き着けパブの名前か何かだと思っていた。
「部長、メロン三丁目、めぞんディコメってまたすごい店見つけましたね」
「店?」
「これ、コメディアン上がりのオカマか何かが開いたパブなんでしょう? 俺は行きませんからね、キャメロンでもう十分ですから」
「何を言っている」
「もう少しまともな店に連れてってくださいよ。しかも店の名前入りメモ用紙同然の広告の裏になんて営業先の地図を書かないでもらえますか」
「そんな店、聞いたこともない」
「は? じゃなんですかこれ、メロン三丁目、めぞんディコメって」
「お前の行き先に決まってるだろう」
部長の手に握られていた新品の鉛筆はすでに4回ほどポキリと音を立てていた。
「行き先?」
「そうだ」
「メロン三丁目?」
「そうだ」
「めぞんディコメ?」
「そうだけど?」
「からかってるんですか」
「よし」
ようやく尖った鉛筆の芯を満足げに眺める部長の手の中には9センチほどの身長になってしまったHBが切なそうに顔をのぞかせていた。
「部長、聞いてます?」
「聞いている。だから返事してるんだろうが」
「俺の営業先って、これがですか」
「そうだ」
「一体何なんですか、このふざけた名前は」
「違ってたかな」
「はい?」
「そんな感じの名前だった気がするんだが」
「そんな感じって」
「社長からの又聞きだったからな」
「社長は一体何処にいるんです? 一回も顔見たことないんですけど」
「まあ、その県に行って、その電車に乗って、そのバスに乗って2つ目で降りれば町名もアパート名もはっきりするだろう」
社長の話はあっさりとスルーされ、行くだけ行けば何とかなる的返事を返されただけだった。
「アバウト過ぎやしないですか」
「そんなニュアンスの名前だったから大丈夫だ」
今俺の手の中にはその地図がある。
斉藤部長の言うように、この県に来て、あの電車に乗って、あのバスに乗って2つ目で降りた場所がこの町だったわけだ。
降りる直前でバス内に響いた運転手の声は「○△※三丁目〜○△※三丁目〜」と聞き取れなかった。
ダンボールを抱えながら降りたバス停に書かれていた町名を見て斉藤部長の間抜けなヒアリング結果に何となく納得した。
『明金三丁目』
金どころか緑の田んぼが青々と広がる風景の町名とは信じがたいものだったが、『メロン三丁目』ではない事にいくらか安心し、だが幾分かがっかりしたのも事実だ。
メロン三丁目ならそれはそれで面白かったのだが。
コケの匂いが鼻先にまとわりつく池の脇を過ぎ、赤サビ屋根のアパート前にたどり着いた。
一階に三棟、二階に三棟の木造アパート。
古い外観にベランダの柵の水色だけが鮮やかだった。
おそらくペンキ塗りたてだろう、木造の壁には所々水色のペンキが垂れた跡が不様に線を引いていた。暑さも手伝ってかアパートが流す汗のようにも見えた。
少しの不安と胸に燻る期待を持ってアパートの数メートル先に建てられている看板に視線を移した。
『メゾン・デ・孝明』
「・・・・・・」
どう反応すれば良かったか。
斉藤部長のヒアリングは強ち間違ってはいなかった。メゾンデまでは完璧だ。
ディコメと解釈した部長も部長だが、この名前をつけた管理人も管理人だ。
自身の名前か。しかし何故この結果だ。
せっかく意気込んでフランス風にメゾン・デまで付けて、結局最後に「孝明」なのか。
何のリアクションも示せず、ただ己の無言の傍でカエルの声だけが陽気に笑っていた。
完璧に広がった黒い雲の奥に稲光が垣間見え、目の前に抱えたヘルメットの黄色にとうとうポツリと雨粒が落ちてきた。