住人達との遭遇
しかし本当にこの内線電話の呼び出し音は何なんだ…と呆れながら持ち上げた受話器から、コンシェルジュの声が漏れていた。
俺が「もしもし」と声を発する前から何やら一人でしゃべっていたらしい。
妙に興奮気味のコンシェルジュに戸惑いながら「近藤です」と返事をした。
「あ、近藤さん」
「はい」
「準備ができましたので、下に降りてきてください」
「準備?」
「ええ。軽トラックがまだあるみたいなので、斉藤さんと加藤さんもいらっしゃいますよね」
「はい、どうやら今夜はここに泊ることにしたみたいで」
「それは良かった。じゃ、お待ちしてますよ」
テンションの上がっているコンシェルジュは俺が「はい」と返事をする前にガッチャリと受話を置いた。
興味津々に俺を見守る部長と加藤に振り向いた。
「準備ができましたって」
「準備?」
部長が口の脇についたよだれの粕をこすりながら呟く。
「ええ、準備ができたって」
「何の準備っすかね」
子供のように瞳を輝かせる加藤は既に腰をあげ、玄関先へ向かおうとしていた。
「なんだろうな、この時間だから夕食か何かだとは思うが…」
俺は昨日の晩を思い出していた。
夕食は殆どをフランス菓子で済ませるというコンシェルジュの言葉だ。
加えて日中に喰らったクイニャマンの後味が口の中で暴れ始めていた。
夕食ということは…ひょっとするとひょっとする。
「加藤」
「はい?」
「お前甘いものは好きだったよな」
「ええ、好きですよ。っていうか大好きです」
「そうか、ならいい」
「なんすっか?」
「いや、なんでもない」
「俺も好きだぞ、甘いもの」
部長が話しに割り込んでくる。
「そうですか」
「スイーツ、つまり甘いもの」
「…そうですか。夕食をお菓子で済ませたことはありますか」
「それはない」
「コンシェルジュ部屋でだされる夕食がお菓子でも文句は言わないでくださいね」
「どういうことだ」
「そういうことです」
とりあえず俺は二人を引き連れて階段を下った。
コンシェルジュ部屋の前に立つと、中から何とも言えない香りが漂っていた。
勿論、甘い香りだ。
「やっぱり」
「なんだ?」
「いえ、なんでも」
訝る部長の声を交わし、呼び鈴に指を添えた。
しかしそこで甘い香りの隙間を縫って別の匂いも漂ってきた。
「肉っぽいっすね」
加藤が俺の代わりに声をあげた。
「オタフクソースの匂いもするぞ」
くんくんとアホな犬のように左右に首を振りながら匂いを嗅ぐ部長も呟いた。
確かに甘い匂いのほかに、腹の虫をぎゅうぎゅうと鳴らす夕食っぽい匂いが漏れてきていた。
俺は少々安心した。部長の作った激辛カレーとお菓子以外を昨日から食っていなかった胃は、素直に肉とオタフクソースの匂いに感謝していた。
呼び鈴に添えた指を押し込むと、『ボンジュール、ボンジュール』と中に響く肉声呼び出し音が外にも漏れた。
「ぶっ」と笑う加藤の頭をこつき、コンシェルジュが現れるのをしばし待った。
カチャリとチェーンの外れる音がすると、ドアは勢いよく開かれた。
調度、ドアの影にいた斉藤部長にこれまた勢いよくぶつかった黒いドアは、弾みでもう一度バタリと閉まってしまった。
「いでっ!」
脂で照かる鼻を押さえた部長が足踏みをしている。
それを見てゲラゲラ笑う加藤の姿に俺までも吹き出してしまった。
部長の鼻の脂がついたドアがもう一度ゆっくりと開くと、中からコンシェルジュ…ではない顔がにょっきりと伸びてきた。
「ボンジュール!」
その見知らぬ顔が「ボンジュール」と言う。
つられた俺たちは躓きながらも三人揃って「ボンジュール」と挨拶を返した。
直後自身の言葉にウケタのか、加藤がまたも爆笑し始めた。
見知らぬ顔の主は男だった。
タンクトップにハーフパンツといういでたちは、内藤コンシェルジュと同じものだったが、がっちりとした体つきに浅黒く焼けた肌をてかてかと健康的に光らせ、ニカリと笑う口の中の歯もキラキラと白く輝いていた。
ムキムキとタンクトップから伸びる腕を振り回し、再び「ボンジュール!」と叫ぶ声の主は、「ささ! どうぞどうぞ!」と俺たちに手招きをした。
「あの…内藤、コンシェルジュさんは」
「中にいますよ!」
「入っていいんでしょうか、お邪魔ではないんでしょうか」
「呼んだんですから、邪魔なはずないじゃないですか! お待たせしてしまってすみませんね!」
「はい。じゃ、お邪魔します」
「どうぞ! どうぞ!」
いちいち感嘆符が付いてしまうデカイ声を発する体育会系の男が中に消える。
部長と加藤、そして俺は顔を見合わせた後、靴を脱ぎ、恐る恐るコンシェルジュ部屋に上がりこんだ。
流しから六畳部屋に続く引き戸の影からそっと中を覗くと、コンシェルジュを含めて5人の顔が丸いちゃぶ台を囲んで俺たち3人を眺めていた。
一瞬の間があってから、皆思い出したように声を上げた。
「「ボンジュール!!」」
一体なんなんだ。
砂糖、肉、オタフクソース、更には豆板醤、何となく醤油、もはや無国籍空間へ足を踏み入れてしまったような香りに包まれながら、俺たち三人はしばしぼけっとその場に立ち尽くしていた。