めぞんディコメの怪(仮) その2
玄関を開くと蝉の声はますます高くなる。
階段を降りコンシェルジュ部屋の前を過ぎアパートの正面側に回ると、容赦ない陽光が頭に降り注いだ。
見上げる空には太陽以外の何もない。
雲ひとつない真夏の空は、すっきりとどこまでも青かった。
「ボンジュール、近藤さん」
「ボンジュール、内藤さん」
空の青さに心惹かれていた俺は、何の迷いもなく「ボンジュール」などど返事をする。
あまりにもすんなり出てきたボンジュールの言葉に少し笑った。
「お部屋も片付いたようで良かったですね」
「ええ。これで生活ができます」
「斉藤さんともう一方…加藤さんでしたっけ、どうされました?」
「疲れきってしまったようで。爆睡中です」
「そうですか」
「ええ。さっきはうちの部長がお部屋にお邪魔してしまって。すみません」
「いえいえ。誘ったのは私ですからね。なかなか面白い方ですね、斉藤さん」
「そうですか」
「ええ。何だかよく分からない言葉が偶に出てきましたが」
「…寝耳に…」
「ウォーターとか何とか。何ですかね、それ」
「すみません、気に入ってるみたいなんです」
「ルー語」
「ご存知ですか」
「いえ、よく分かりませんが、斉藤さんがルー語とかルーとか色々説明されていたんで、私は話の途中から聞き流してたんですけどもね、あまりにもルー、ルーおっしゃるんで、ルーがお気に入りかと思いましてね。カレーのルーをプレゼントしたんです」
「…ああ、それでカレー」
「いい香りがしてましたから、カレー作られたんでしょう」
「ええ、ご馳走さまでした」
くくくと笑うコンシェルジュと共に池の淵まで足を運ぶ。
コンシェルジュはそこにしゃがみ込み、草むしりを始めた。
軍手をはめていたのは、草むしりをするためのものだったのだ。
そういえば…と思い、池の淵からずっと目を移動し、ぐるりとアパートの周辺を見渡す。
雑草はきちんと抜かれ、ところどころに花も植えつけてある。
これだけの田舎町だ。放っておけば雑草にアパートそのものが覆い尽くされるようなことになっても不思議ではないはずだ。
それが綺麗にきちんと手入れされている庭を見て改めて感心した。
「いつも内藤さんが手入れされてるんですか」
「ええ。それが仕事ですからね」
「大変でしょう」
「そうですね、これだけ暑い日は大変ですね。でも好きですから苦痛ではありませんよ」
「池の周りも内藤さんが?」
「ええ、そうです」
「そういえば、ここに住んでるガマカエル、随分とデカいですね」
「え?」
「え?」
「近藤さん」
「はい」
「見たんですか」
「見たんですかって、ガマカエルのことですか」
「見たんですね」
「…ええ、見ました。二回ほど」
「二回も!」
「…そうですけど、何か」
「へえ」
コンシェルジュは俺の顔をまじまじと見つめた後、蓮の葉が広がる濁った池に向き直り、「それはそれは」と呟きながら一人頷いていた。
「あの…ガマカエルが何か?」
「そうですか、二回も近藤さんに姿を見せましたか」
「あの…何なんでしょう」
「孝明」
「へ?」
「近藤さんが見たというガマカエルです」
「孝明?」
「ええ」
「ガマカエルですよね」
「ええ。ガマカエルの孝明です」
「あの…もしかしてこのアパートの名前の由来って」
「メゾン・デ・孝明ですか?」
「ええ、ガマカエルから名付けたんですか」
「そうです」
当然といった顔つきで話をするコンシェルジュは俺の言葉に深く頷いた。
このヘンテコなアパートの名前はガマカエルから付けられたものだったのか。
それよりも気になることは他にあった。
「どうしてガマカエルに孝明…立派な名前を」
「どうしてですかね。昔からそう呼ばれているんですよ」
「昔から?」
「ええ。何でも昔昔、その昔、孝明という位の高いお坊様か何かがいらっしゃって、この辺りで命の灯が消えたとかなんとか。その方の化身とも言われています」
「化身…ガマカエルがですか」
「ええ」
俺はヌメヌメとまさに言葉通りに全身がぬめったあのガマカエルの姿を思い出していた。
大きな目玉をぎょろぎょろとさせ、二階から顔を出す俺をじっとみつめた後で「よっこらせ」という感じで目の前の濁った池に身体を沈めたガマカエル。
それが坊さんの化身だというのか。
「坊さんはそれでいいんでしょうか」
「何がですか?」
「いえ、何でもありません」
「しかし近藤さんに姿を見せるとはね」
そうだ、その言葉もひっかっかっていた。
「ガマカエル…その孝明になにがあるんですか」
「孝明はね、滅多に姿を現さないんですよ」
「え?」
「この町、明金三丁目の住人でも目にした人は一握りです」
「そうなんですか」
「ええ。幻とも幻想とも言われています。何しろ見た人のほうが少ないんですから当然です。声だけは偶にげーこげーこと聞こえてきますがね。孝明は気に入った人間の前にしか姿を現さないんです」
「そうなんですか」
「そうだということに私がしています」
「…そうですか。微妙な話なんですね」
「しかし、近藤さんは二回も孝明を見たと」
「はい」
「素晴らしいですね」
「そうですかね」
「歓迎されたってことですよ、近藤さん」
「…ガマカエルにですか」
「孝明にです」
「…喜んでいいんでしょうか」
「勿論です。滅多にないことですからね。きっと良いことが起こります」
「そうなんですか」
「そういうことに私がしています」
「…そうですか。そうだと嬉しいです」
「きっとそうなります。私がそうでしたから」
俺の隣りで草むしりをするコンシェルジュの横顔にはなんとも言えない微笑が浮かんでいた。
それをしばらく見つめた後に深く緑色に濁った目の前の池を凝視した。
蓮の葉の下で時折魚のうろこが陽光に反射する。
目を凝らし、池の隅々まで目を這わせてみたが、ガマカエルが姿を現す様子は無かった。
コンシェルジュの傍には引き抜かれた草がどんどんと積み重なっていく。
することの無い俺もまた手を動かし、コンシェルジュと共に草むしりをすることにしたのだった。