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あてのない旅人

作者: 如月はじめ

「ここは、どこだ……?」

 ――ふと気が付けば、私は大きな鞄を背負い、藪の中を歩いている。どうやら旅をしているみたいだ。

 そこで昨日や一昨日を思い返してみるが、あるのはずっと歩いている記憶だけ。

 夜明けと共に起き、日中は歩き続け、日が沈むとそこで眠る。そうして、暑い日も寒い日も関係なく、ずっとずっと旅をしていた。そんな日々を送っていた。

 そして、ふと思う。

 ――いつからだろうか、私が旅をし始めたのは。どこから来て、どこへ目指し、何のために旅をし始めたのだろう。

 旅人は思い出そうとしてみた。

 ……けれど、どんなに頑張ってみても何も思い出せなかった。

 旅人は全てを、忘れてしまっていた。

 そのことに気が付くと、これからどうしたらいいのか分からなってしまった。

 後ろを振り返り、すぐに前を見る。やがて旅人は草を掻き分けて歩いていく。そのまま旅を続けることにしたのだ。

 立ち止まらず、色々な場所へと歩いていく。

「私にはこの旅の目的が分からない。しかし、他のものなら何か分かるかもしれない」

 そう思い、歩き続ける。そして行く先々で会うものに尋ねてみた。

「私はこれからどうすればいいのでしょうか?」

 そうしたら、男もリスもカエルも皆同じことを言った。

「知らないよ。自分で考えな」


 ――なぜだろう。なぜ忘れてしまったのだろう。

 顔を俯ける。

 それでも旅人は旅を続けた。

 どうすればいいのか分からない旅を、続けた。

 ――……何も分からなくても私には旅しかない。歩くしかないんだ。

 それからも特に代わり映えのない毎日を過ごした。

 変わりようがない毎日を過ごした。

 夜明けと共に起き、日中は歩き続け、日が落ちればそこで眠る。そんな日々を。


 森の中を歩いていたある旅の途中、旅人は湖を見付けた。気が付けば昼時だったのでそのほとりでいつものように少し休むことにした。

 湖に一番近い木の陰に座り、荷物を下ろす。

 その時、ふと思った。

 ――今の旅を私はどう思っているか。

「楽しいか」

 自分で自分に訊く。

「辛くないか」

 自分で自分に尋ねる。

 しかし――

「……ナニモ、ワカラナイ……」

 ――何も思い浮かばなかった。私の心には、何も出てくるものがなかった。

 その時、目から頬にかけて違和感があった。手を遣り、確かめる。

「何だ……?」

 指が、濡れていた。

 ――どうやら目から水が流れているらしいな。

 でも、なぜ目から水が流れているのか旅人には分からなかった。何ひとつ解らなかった。

 やがて鬱陶しくなったので顔を洗おうと湖に近づく。しゃがみ込み水を掬うため手を伸ばしながら湖面を覗く。

 しかし湖面に手が触れる前にピタッと止める。その手の先には顔があった。

 ひどくやつれ、落ち窪み、無表情で、目には生気がなかった。

 その顔は何日か、何か月か、何年か振りに見る自分の顔だった。自分の顔が湖面に映っていた。

 ――……私はこんな顔をしていただろうか。

 分からない。判らない。解らない。……忘れてしまった。

 しかし、ひとつだけ分かることはあった。

 じっと自分の顔を見る。

「……ヒドイ顔だな……」

 ……今や旅人の旅は何も瞳には映らず、何の感動もなくなり、何もかもが残らず、全てを忘れてしまう旅になっていた。

 何がきっかけとなったのかは分からない。けれどいつの間にか忘れてしまった過去。気付いてしまったあの時から始まったこのあてのない旅。

 それは本当はとても辛くて、とても寂しくて、とても悲しい、心がすり減るものだった。

 旅人が何もかも忘れてしまうようになったのは、もうどうしようもないほど心が乾ききってしまったからだった。

 そのことに旅人は気付いたか分からない。

 けれど、自分の顔が酷いことだけは分かった。解ってしまった。

「……はっ……」

 乾いた笑いすら出来なかった。


 その日から旅人は旅をするのを止めた。


 夜明けと共に起きることもなく、日中は木に凭れたまま座り続け、日が沈めば同じ場所で眠る。 毎日何をするでもなく、ただ生きるために生きた。

 やがて、季節が巡る。

 どのくらいの月日が経ったのだろうか。何日か、何か月か、何年か。

 ――私はどうしてこんなところにいるのだろう。……何も分からない。何も思うことができない。

 旅人の心は未だに涸れ続け、枯れたまま。

 顔を上に上げる。それは酷く緩慢な動きだった。

 ――私は何も分からない。何も解らないはずなのに。なのに、なぜ思い出す? あの旅を。忘れてしまったはずなのに。

 旅人の顔にはハッキリと困惑が見て取れた。表情が現れていた。

 ……そう、旅人はいつからか思い出すようになっていた。

 旅をしていたあの日々を。あてもなく歩いて、歩いて、ただひたすら歩いたあの日々を。空を見て、大地を見て、人や動物を見たあの日々を。

 なぜか思い出す。全てを忘れ、何も感じなくなってしまった虚しいだけの旅が次々と溢れ出してくる。

 ――痛い。

 ――なぜか胸が裂けそうにイタイ。

 眉間に皺を寄せて目を固く暝ると、胸の上に手を遣りギュッと服を掴む。

 暫くそうしていたが不意に、額に冷たいものが当たった。ビックリして目を開く。

 それは一瞬のことで、手で確かめてみても水が付いていることしか分からなかった。

「……これは……?」

 首を傾げていると、目の端で上から下へと何かが見えた。

「……上から?」

 もう一度上を見る。

 そこには雲が厚く、灰色の空が広がっていた。

 久しぶりの空だった。

 よく見るとその空から白いものがはらはらと落ちてくる。

 ――あれは……。

 ドクン。

 胸が、心が脈打つ。

 ――私は、あれを、知っている。今までに何度も見たことが、ある。

 ドクン。

 ――痛い。

 ――心が、イタイ。

 目を閉じる。手を胸に当て、考える。

 ――私がしてきた旅のこと。私が覚えている旅のこと。それは……。

「楽しいか」

 自分で自分に問い掛ける。

「辛くないか」

 自分で自分に問い質す。

「……ワカラナイ」

 けれど。けれど、けれど。

 目を開く。しっかりと開く。

 曇天の空を見る。凍っている湖を見る。ところどころ葉を付けていない森を見る。カサッと音がしたかと思ったら近くに兎や鹿がいた。兎や鹿へ手を伸ばすと、どこかに走り去ってしまった。

 それから、伸ばしたままの手の平を自分に向けた。そこにふわりと白いものが落ちてきて、ヒヤッとしたかと思ったら一瞬で水になった。

 ――これは……。

 「……冷たい」

 水になったそれをじっと見つめる。

 ――これは、ゆき。ユキ、雪だ。

 その時、目から頬にかけて違和感があった。どんどん目の辺りがもやもやしだし、たくさんのものが頬を伝う。

「……あ……?」

 おそるおそる手を遣り、確かめる。

 指が濡れていた。目から水が流れているらしい。

 ――いや、違う。これはナミダ、涙、だ。

 涙が次々と溢れ出し、顎から下に落ちて膝を濡らす。手で顔を覆うと、手は冷たく、頬が温かかいのが分かった。

 心が動き出す。涸れて冷たかった心が、潤い温かくなるのを感じた。

 ――私には、見たいものがあった。眩しくて、美しいもの。人が、自然が、世界が生きているところを。

「……うっ……くっ……」

 指の間から声が漏れる。止まらない。止められない。

 ――だから、私は旅をしていた。だから、私は生きていた。

 両の手を地面に付けて、握り締める。

 ――だから私は……。

 そう思い出した時、旅人は大声を出していた。何かを叫んでいた。

「――――――!」

 何を叫んでいるのか誰にも、自分でも分っていないだろう。

 何かを吐き出すように、何かを刻み込むように声を辺りに響かせる。


『私は、生きている』


 そう誰かに、あるいは自分自身に伝えているようだった。


 ――ふと気が付けば私は大きな鞄を背負い、野原を歩いている。旅をしている。

 夜明けと共に起き、日中は歩き続け、日が沈むとそこで眠る。そんな旅をしている。

 ――私には忘れていることがある。いつから始めて、どこから来て、どこへ目指しているのかが分からない。自分の過去の一切が分からない。

 旅人は未だに思い出せず、忘れたまま。

 ――それでも、私は旅をする。また心が動き始めたから。また私が生き始めたから。

 ――そして、たったひとつ思い出せた、見たいもののために旅をする。それで、十分だ。

 立ち止まり、雲一つない青い空を見上げる。

「……私は、旅を続けられる。歩き続けられる。」

 ――今日とは違う、明日へと目指して。

 旅人の顔には笑みがあった。


 あてのない、旅をする。



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― 新着の感想 ―
[一言] 素敵な短編をありがとうございます。 旅人や周りの詳しい描写はなかったはずなのに、なぜか頭の中でアニメでも見ているかのように物語が流れてきました。
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