【三題噺】風が吹いている。
会社帰りに小さなテントを見つけた。
淋しげな街灯に照らされて、簡素な看板が目に入る。
「運を売ります?」
看板の文字を読み上げ、思わず笑う。
目に見えないものを売るなんて、なんと胡散臭いことか。
まるで怪しい宗教だ。
けれど、そんな警戒心よりも好奇心が勝った。
近頃、自分に運がないことも味方したのかもしれない。
いざとなれば逃げてしまえばいいだろう。
昔から逃げ足には自信があった。
それは二十五になった今も変わらない。
腰を屈めて入口をくぐる。
「いらっしゃい、おにーさん」
「子供?」
幼い声音に驚く。
声の主は十ほどの少年。
「おにーさん。悪い運がついてるね」
口を開く前に、先に口火を切られた。
少年はニィと笑ってみせた。
「それにはこれがいいかも」
「これ?」
「これ」
少年が取り出したのは、手乗りサイズで硝子のように綺麗な羽を持つ扇風機。
思わず、尋ねる。
「なんでこれがいいんだ?」
「悪い運を吹き飛ばして、いい運を風が運んでくれるからだよ」
「この扇風機が?」
「む。これをそこらの物と同じと思わないでよ」
ズイと面前に突き付けられたそれは、確かに綺麗で特別そうだった。
「いまなら、安くしたげる」
「……いくら?」
少年の台詞に、問いを重ねる。
「んー。じゃあねー。それ」
「は?」
「ほら、それそれ」
少年が仕切に示していたのは、書類容れに結ばった小さな巾着袋。
つまみ上げて、首を傾げる。
「これがお代?」
「そ」
「これでいいなら、買うけど」
「まいどありっ」
パチンと手を打ってから、少年は扇風機を渡し、巾着袋を受け取る。
「本当にそんなんでいいのか?」
手に入った特別に心配になる。少年はひらひらと手を振った。
「いーの。いーの。」
「うむむ」
扇風機を抱えて、店を後にする。
だって、あの巾着袋の中味は。
なんだってあんなものを。
謎は深まるばかりで答えは出なかった。
「可愛いですね」
不意に飛び込んだ声は隣のデスクから。
「え?」
「その、ミニ扇風機」
「あぁ」
「私も買おうかな。羨ましい」
唇に指を当てた仕草に慌てて目を逸らす。
可愛い彼女はこの部署のアイドル。
俺もその愛らしさに魅了された一人で、隣のデスクなのにまともに話せないでいる。
目を逸らしてから少し後悔する。
せっかく話しかけてくれたのに。
「ふぅ」
小さくため息。
扇風機に目をやって、苦笑する。
彼女にも少し風が吹くようにさりげなく、向きを変えてみる。
俺の運気を運んでくれますように。
風力を弱から、強に変えてそう祈る。
「あ」
「きゃ」
思ったより強くなった風にデスクから、資料が飛ぶ。
床に、彼女のデスクに、散乱するたくさんの資料。
「ご、ごめん!」
慌てて床に落ちた資料を広い集める。
あぁ、なんてついてない。
彼女が半分、資料を広い渡してくれる。
「どうぞ」
「あ、ありがと」
情けなさと照れから、渡された資料を手早く引っ張る。
と、指先に痺れるような痛みが走った。
「痛っ」
「大丈夫ですか!?」
「あ、平気平気」
薄く切れた指先をひらひらと振る。
紙で指を切るなんて、とんだ失態だ。
本当についてない。
「血、出てます!」
顔を青くした彼女が再度叫ぶ。
確かに指には赤の線が出来ている。
「私、絆創膏、持ってますっ」
「あ、自分で持ってるから……」
書類容れに手を伸ばして、はっとする。
巾着袋がない。
そこでようやく思い出す。
昨日、お代として渡してしまったのだった。
あぁ、どれだけ運がないんだ。
何がいい運を運ぶだ。
これじゃ、悪い運のオンパレードの間違いだろう。
恨めしく扇風機を見遣る。
動かない俺に彼女が遠慮気味に問う。
「ないんですか?」
「あぁ。昨日、子供にあげたから」
「私、持ってますから、手出してください」
朗らかに彼女が笑う。
そんな笑顔を向けられて、何も言えなくなる俺は情けない。
情けないけれど、幸せだとは思う。
指先に絆創膏を巻かれる。
彼女の指が当たった場所がひどく熱い。
「はい。出来ました」
離れていく手。
真っ白で華奢な指。
「ありがとう」
「いえいえ」
あ、そうだ――――――彼女が顔を輝かせる。
「ご飯まだですよね。食べ行きません?」
「え?」
「前から話してみたいと思ってたんです。ほら、歳近いじゃないですか」
唐突な展開に目を瞬く。
そして、扇風機を見て、絆創膏を見て、彼女に目を戻す。
どうでしょう、とまっすぐな瞳。
「お、俺でよければ」
「本当! なら、早く行きましょう」
嬉しそうに声を上げて彼女は鞄から財布を取り出す。
俺はまだぼぅっと頭で、昨日のことを思い出す。
淋しげな街灯に照らされた看板。
ニィと笑う少年の言葉。
「運を売ります……か」
「何か言いました?」
首を傾げる彼女に、出来るだけ自然に笑ってみせる。
「いや、なんでもない」
「そうですか。じゃあ、早く行きましょう」
彼女に急かされて、また笑ってしまう。
あぁ、今日はいい風が吹いている。
三題噺として書きました。
街灯、扇風機、絆創膏。