~ 幼少期 ~
僕はいままでどんな道を歩いてきたのだろう
幼いころ 古い記憶を紐解いてみる
二人兄弟、僕には兄がいた
僕が初めて家にやってきた時のことだ
余程次男の誕生に周囲が喜んだのだろう
親戚一同が両手をあげて迎え入れた
自分以外が注目されているのが気にいらないのか
まだ三歳の兄が隙を見て
生まれたての僕を乳母車ごと誘拐した
何時間もの捜索のすえに
駅に向かう大きな商店街で見つかった
どこに行くつもりだったのか
兄が何を考え行動したかはもちろんわからない
今では笑い話にするため、嫉妬のあまり
電車に乗って病院まで、僕を返しに
行こうとしていた事になっている
僕が自分で思い出せる一番古い記憶は
三歳の時の引越し前
新しい家を建てている大工さんとまだ出来かけの
わが家で出前の長寿庵のうどんを食べた時のこと
僕はまだ小さく母親が丼の蓋を裏返してくれて、
そこで冷ましながら食べさせてくれた
今では他人の手に渡ったこの家の前を
たまに車で通ると懐かしい想いが胸に広がる
そのいくつかを思い出せる限り
ここに残していこう
先にも書いたが僕には三つ上の兄がいる
近所に同年代の子供が
たくさんいて恵まれた環境だったと思う
一緒に学校へ行ったり、暗くなるまで
家の前で遊んだりした
親の仕事が忙しく保育園に通っていた頃
ホームシックでの逃亡は一回、
僕は食べ物の好き嫌いが激しいだけの
目立たない大人しい子供だった
小学校にあがった僕は
兄や近所の友達と仲良く学校へ通った
僕はいつも三つ上の兄と一緒に家に帰ってきた
低学年は午後の授業が少なかったのに
放課後になぜか僕一人だけ担任の先生と一緒に
静かな教室で勉強をしていた
それから兄が授業を終えて僕を迎えに
教室に来て一緒に帰った
そう、僕は問題児だった
たしかに授業はほとんど授業を受けずに
誰もいない校庭で鉄棒やらうんていを
延々としていた記憶がある
たまに知らないおじさんが来て
「みんな教室で勉強しているよ
一緒にやったらどうだろう」
みたいな声を何度かかけられた
僕はその度、鉄棒をすると言い返した
それは校長先生だった
後年母親に聞いた話では
授業参観の日に僕が教室にいるか心配しながら
母親が学校へ行くと
僕は自分の席にちゃんと座っていた
授業参観の日は教室にちゃんといたらしい
その時ふと僕の方を見た母は
僕の机の上に初めて教科書が
出ているのを見て涙したらしい
開いてもいないその教科書は
母の眼にどんなふうに映ったのだろう
小学校も三、四年生になると
少しは周りの環境になれたのか
僕は大体の授業には出るようになっていた
友達も増え相応に遊んだが
特に流行ったのが屋上でのサッカーだった
屋上は高いフェンスに囲まれ
足元はゴムが張られていて、
少しくらいの無茶をしてもすぐに切り傷など
できずやんちゃ盛りにはかっこうの遊び場だった
特に僕にとって喜ばしい事は、
教室を抜け出して誰もいない校庭で
遊んでいるよりも、目立たない場所だったので
ゆっくりと一人の時間を楽しむ事ができたんだ