〜 遅れ 〜
幼心に受け止める
この生存競争
大きな怪我に検査入院などを経験したあと
バスケができる身体ではないことを前置きに、
まだ小さいしどうせ大した動きもできないので
そこまで体に負担はかからないだろうという
判断で部活動への復帰を許された
僕の傷ついた右膝には大きくてゴツくて、
両サイドには関節に合わせるように
くの字に曲がる太い鉄の板にが入った
サポーターという響きの域を越えた
装具という名の部品がついた
練習に戻った僕には、ロボコップという
あだ名がついたが定着はしなかった
身体能力が低くただでさえ厳しい背比べの中、
僕は遅れをとった
センスのない体に無理矢理に押し込んだ
ほんの少しの技術は慣れという
レベルには乗れずに、
無情にも僕の体から離れてしまっていた
そしてちゃんとした練習生活に戻るための
基盤が僕の体には無く、チーム戦術に
組み込まれレベルの高い練習をする同級生を
横目に身体作りや基礎練習からやり直した
二年生になった僕が新入部員にかける言葉は、
一応上級生だがやってる事は同じだった
その頃から僕の練習は下級生の世話役や雑用、
スコアの整理や審判などの仕事が増えていった
もう同級生の中には性格的な適性から
プレーヤー兼マネージャーを
担当している人がいた
僕はそこに弟子入りするかっこうになった
前にもふれたが、練習試合の時などに
一年生同士の試合もやる
三校や四校で一日かけて、ダブルヘッダーや
トリプルは当たり前なハードな
練習試合スケジュールの合間に下級生が出てくる
うちの学校は、反則ではあるが勝つためではなく
上級生も試合経験を積むためにその試合に出た
絶対に先輩などと言ってはいけない
その先輩達は補欠であり兼マネージャーである
僕はその先輩達と同じレールに乗っていた
一年生試合の時、進級していた僕は
後輩と一緒に名前を呼ばれた
ベンチに入り、練習もレギュラーメンバーとの
コンビネーションが出てくる戦力組は自然と
先輩達とのコミュニケーションが増え、
そうでなくチームの裏方や下級生の
世話役などになる戦力外組は後輩との
関係が増えていく
チームの為になることは頑張った
後輩に教えられることは教えた
たとえ技術で後輩に追い抜かれようとも、
それがチームの為なら喜んでした
というより、それが当たり前の社会が
構築されていた
人一倍負けず嫌いなはずが、自分の位置を見極め
周りとの競争心や闘争心を無くしていた
それはおそらく、小学校と中学校での
自分の位置が急変したことと、
怪我による戦線離脱が原因ではないかと思う
でも僕には僕なりの仕事を任されたし、
レギュラーで試合に出ることだけが
すべてではないことも教えられた
チーム全員、ベンチウォーマーがいなければ
試合には勝てないと言うのが顧問の口癖だ
その恩師から与えられる責任と導かれるヒントに
僕は居場所を見出していった
二年生の僕は27番のユニフォームを持っていた
最上級生が引退して代替わりしたとき、
一年生はクラス順とサイズを考慮し
番号があてがわれた
チームは濃い色の方の紺を持っていて、
淡い方の白は個人で買ってもらう
システムになっていた
合宿も自分達でやるし週一の
小学校体育館を借りるのも、
そこで使うボールなども全て自費での活動
毎週のようにある遠征の費用も個人の負担である
ユニフォーム購入については、
もちろん思い出という形なることもあるし、
経済的な負担の軽減もある
チーム保有のものに関しては、
憧れの先輩からお古のユニフォームを
引き継ぐという、いろんな意味合いがあった
部員としての生活はなかなかに
負担のかかる活動であった
けして取り柄と言えるほどのものではなく、
他の子供以上に怪我による
出費も僕にはあったのに
でも出来損ないの子供へのその投資は
人間形成に多大な効果を出したのは明白だ
僕の新しいユニフォームは13番
夏の大会も終わり、先輩が引退すると
新しいチーム作りが始まる
それと同時に新しい自分のナンバーが決まり
ユニフォームの引き継ぎ式がある
僕は用事がありその日の練習には
参加していなかった
次の練習前、同級生が
僕にユニフォームを雑に手渡した
一つ上の代が八人で僕らの代は十人、
つまり二人は同級生の着けていた番号の
ユニフォームを着ることになる
僕にユニフォームを渡したその子は5番になり
僕らの代のエースだった
4番がキャプテンでそれから十番目、
その代最後の13番が僕の番号
順当だ