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婚約破棄ですの。……では、帰ってもよろしいでしょうか

作者: 月白ふゆ
掲載日:2026/08/07

王立学院の卒業夜会。

大広間の中央で、王太子アルヴェン・ロスガルドは高らかに告げた。


「リゼット・ヴァレール。君との婚約を、本日をもって破棄する」


楽団の演奏は止まり、集まった貴族たちの視線が一斉にひとりの少女へ向けられる。


リゼット・ヴァレール。


王国でも有数の公爵家の令嬢であり、七歳から十一年間、アルヴェンの婚約者だった少女。


淡い灰色の髪を背へ流し、濃紺のドレスをまとったリゼットは、少しだけ首を傾けた。


いつも眠そうな目が、ほんのわずかに開く。


「……婚約破棄、ですの?」

「そうだ」

「そうですか」


それだけだった。


アルヴェンの眉が動く。


その隣には、伯爵令嬢ティルダ・レーヴェンが立っている。

明るく、よく笑い、感情を隠さない少女だ。


リゼットとは何もかもが違う。


「……それだけなのか?」

「はい?」

「君は今、私との婚約を破棄されたのだぞ」

「聞こえておりますわ」

「ならば何かあるだろう!」


リゼットは少し考えた。


考えている間も、表情はほとんど変わらない。


「……長い間、お世話になりました?」

「なぜ退職の挨拶のようになる!」


広間のあちこちから、小さく息を呑む音がした。


リゼットは困ったように眉を下げる。

それすら、注意して見なければ分からない程度だった。


「では、何と申し上げればよろしいのでしょう」

「悔しくはないのか」

「……まあ」

「悲しくないのか」

「……多少は」


「多少!?」


アルヴェンの声だけが大きくなる。


リゼットは少し肩を縮めた。

大きな声は苦手だった。


「十一年も婚約していたのだぞ!」

「存じておりますわ」

「君は昔からそうだ!」


アルヴェンはとうとう声を荒らげた。


「何を贈っても同じ顔。どこへ連れて行っても同じ顔。私が話しかけても、返ってくるのは『そうですの』『よろしいのでは』『承知いたしました』ばかり!」


「……はい」


「今もだ!」


リゼットは黙った。


何を言っても怒られる気がしたので、黙ることにした。


それがさらにアルヴェンを苛立たせたらしい。


「ティルダは違う」


隣の少女がびくりとする。


「花を贈れば喜ぶ。舞踏会へ誘えば楽しみにしていると言う。私が話せば笑ってくれる」

「……よろしいことですわね」


「そういうところだ!」


また怒られた。

難しい。

リゼットは小さく息を吐いた。


「アルヴェン殿下」

「なんだ」

「婚約破棄については、承知いたしましたわ」

「……ああ」


「では、帰ってもよろしいでしょうか」


「は?」


「もう、ここにいる必要はございませんでしょう?」


卒業夜会そのものは、まだ続く。


だが、リゼットが今夜ここへ来た最大の理由は、王太子の婚約者として隣に立つことだった。


その役目は、たった今なくなった。


「待て」

「……まだ何か?」

「本当に帰るのか」

「眠いので」


「リゼット!」

「はい」

「君という女は……!」


アルヴェンは何かを言いかけ、やめた。


リゼットも待った。


だが続きがない。


「では」


小さく一礼する。


それからティルダへ目を向けた。


「ティルダ様」

「は、はい」

「殿下をよろしくお願いいたしますわ」

「え」

「夜会では少し飲みすぎることがありますので、お酒は三杯までにして差し上げてくださいませ」


アルヴェンが固まった。


リゼットは続ける。


「あと、空腹のまま飲まれると翌朝かなりお辛そうになさいます。先に何か召し上がった方がよろしいかと」


「……なぜ」

アルヴェンの声が、少し低くなった。


「なぜ、君がそこまで知っている」


リゼットは首を傾げた。


「十一年も婚約者でしたので」

「だが君は、そんなことを一度も……」

「申し上げる必要がございました?」


アルヴェンは答えられなかった。


思い返せば、酒を四杯目まで取ろうとした時には、いつも給仕が別の飲み物を差し出していた。

長い式典の前には、軽食が用意されていた。

風邪を引きそうな夜には、執務室に温かな飲み物が届いた。


誰が手配したのか。

一度も尋ねたことがない。


リゼットは何もしていなかったのではない。


何をしているのか、自分が見ようとしていなかっただけなのかもしれない。


「では、おやすみなさいませ」


リゼットは一礼した。


アルヴェンは呼び止めなかった。

呼び止める言葉が、見つからなかった。


彼女が自分の酒量まで知っていたことを、今まで知らなかった。

十一年も婚約者だったというのに。


リゼットは静かに広間を出た。

馬車へ乗り込むと、侍女のネリが待っていた。


扉が閉まる。


馬車が動き出してから、ネリはそっと主人を見た。


「お嬢様」

「……何でしょう」

「よろしかったのですか」

「何がですの?」

「婚約破棄でございます」


リゼットは窓へ頭を預けた。


夜の王都が、ゆっくり流れていく。


「よくはありませんわ」


ネリは目を瞬いた。

「そうなのですか?」


「そうですわよ」

「まったくそのようには見えませんでしたが」

「……そうでしょうね」


リゼット自身にも、それは分かっていた。


幼い頃からそうだった。

嬉しくても、あまり顔に出ない。

悲しくても、声が変わらない。

怒れば、さらに静かになる。


母だけは、

『リゼットは嬉しいと、ほんの少し目が開くのよ』

と言っていたが、それを判別できる人間は家族とネリくらいだった。


「殿下のこと、お嫌いだったのですか?」

「いいえ」

「では、お好きだった?」


少し考える。


「……ええ」


「ええ!?」

ネリの方が大きな声を出した。


リゼットは眉を寄せる。

「うるさいですわ」


「申し訳ございません。でも、お嬢様、一度もそのようなことを!」

「聞かれませんでしたもの」

「聞かれなければ言わないのですか!?」


「……言う必要があるとは思いませんでしたわ」


十一年間、隣にいた。

アルヴェンが苦い茶を嫌うことも。

人前では平気な顔をするくせに、雷が苦手なことも。

緊張すると左手の親指を握ることも。

風邪を引く前日は、妙に水を飲むことも知っていた。


毎年、誕生日の贈り物も選んだ。

本人が気づいていなかっただけで。


「けっこう、好きでしたのよ」

「けっこう」

「かなり?かもしれませんわ」

「なぜ疑問形なのですか」

「比べたことがありませんので」


ネリは額を押さえた。


しばらくして、恐る恐る尋ねる。


「では、戻りたいですか?」


リゼットは窓の外を見た。


少し考えた。

今夜のアルヴェンの顔を思い出す。

ティルダと並んでいた姿も。


自分を見て、

何を贈っても同じ顔だ。

何をしても喜ばない。

そう言った声も。


胸の奥が、少しだけ重くなる。


「……いいえ」

「よろしいのですか」

「昨日までなら、戻りたかったかもしれませんわ」


「今日は?」

「面倒です」

「面倒」

「わたくしが十一年一緒にいて分からなかった方へ、今から一から説明するのでしょう?」


リゼットは目を閉じた。


「わたくし、そういうの、あまり得意ではありませんの」

「存じております」

「それに」

「はい」


「けっこう傷つきましたわ」


ネリは黙った。


リゼットの声はいつもと同じだった。

だからこそ、ネリには分かった。

本当に傷ついている。


「帰ったら、何になさいます?」

「寝ます」

「明日のご予定は」


リゼットは目を開いた。


王太子妃教育。

王宮での昼餐。

外交史。

舞踏。

王妃への報告。


十一年間、明日の予定には必ず何かがあった。


だがもう、ない。


「……何もございませんわね」

「はい」


ほんの少し。

本当に、ほんの少しだけ。

リゼットの目が開いた。


ネリはそれを見逃さなかった。


「お嬢様」

「何ですの」

「今、喜びましたね?」


「……別に」

「喜びました」

「寝ますわ」


翌日。


昼を過ぎても、リゼットは起きなかった。

午後一時を過ぎた頃、王宮から使者が来た。

昨夜の婚約破棄について、アルヴェンが改めて話したいとのことだった。


ネリは寝室へ向かった。


寝台では、リゼットが毛布に半分埋まっている。


「お嬢様」

「……何ですの」

「アルヴェン殿下がお話をしたいそうです」


沈黙。


「昨夜の件について、改めてお話ししたいと」


さらに沈黙。


やがて毛布の中から声がした。


「……お断りしますわ」

「理由をお伝えいたしますか?」

「そうですわね」


リゼットは少し考えた。


「昨日、けっこう傷つきましたので」

「はい」

「あと」

「はい」

「今さらいろいろお話しするのも、少し面倒ですわ」


ネリは笑いを堪えた。


「そのままお伝えしても?」

「お願いいたします」

「承知いたしました」


ネリが扉へ向かう。


「ああ、ネリ」

「はい」

「明日も」


「起こしません」


「……よろしくてよ」


扉が閉まる。


リゼットはもう一度、毛布へ潜った。


婚約破棄された翌日は。


十一年ぶりに、何もない一日だった。

今回は、感情がないわけではなく、ただ出力が低い女の子です。


嬉しい。

悲しい。

好き。

傷ついた。


全部ちゃんとある。


ただ、外に出てくる時にはだいたい二割くらいになっています。


こういう子、書いていてかなり好きでした。


婚約破棄されても大声を出さず、復讐にも走らず、最後に欲しいものが「何もない一日」なのも、リゼットらしいかなと思います。


……たぶん明日も昼まで寝ます。

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― 新着の感想 ―
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