婚約破棄ですの。……では、帰ってもよろしいでしょうか
王立学院の卒業夜会。
大広間の中央で、王太子アルヴェン・ロスガルドは高らかに告げた。
「リゼット・ヴァレール。君との婚約を、本日をもって破棄する」
楽団の演奏は止まり、集まった貴族たちの視線が一斉にひとりの少女へ向けられる。
リゼット・ヴァレール。
王国でも有数の公爵家の令嬢であり、七歳から十一年間、アルヴェンの婚約者だった少女。
淡い灰色の髪を背へ流し、濃紺のドレスをまとったリゼットは、少しだけ首を傾けた。
いつも眠そうな目が、ほんのわずかに開く。
「……婚約破棄、ですの?」
「そうだ」
「そうですか」
それだけだった。
アルヴェンの眉が動く。
その隣には、伯爵令嬢ティルダ・レーヴェンが立っている。
明るく、よく笑い、感情を隠さない少女だ。
リゼットとは何もかもが違う。
「……それだけなのか?」
「はい?」
「君は今、私との婚約を破棄されたのだぞ」
「聞こえておりますわ」
「ならば何かあるだろう!」
リゼットは少し考えた。
考えている間も、表情はほとんど変わらない。
「……長い間、お世話になりました?」
「なぜ退職の挨拶のようになる!」
広間のあちこちから、小さく息を呑む音がした。
リゼットは困ったように眉を下げる。
それすら、注意して見なければ分からない程度だった。
「では、何と申し上げればよろしいのでしょう」
「悔しくはないのか」
「……まあ」
「悲しくないのか」
「……多少は」
「多少!?」
アルヴェンの声だけが大きくなる。
リゼットは少し肩を縮めた。
大きな声は苦手だった。
「十一年も婚約していたのだぞ!」
「存じておりますわ」
「君は昔からそうだ!」
アルヴェンはとうとう声を荒らげた。
「何を贈っても同じ顔。どこへ連れて行っても同じ顔。私が話しかけても、返ってくるのは『そうですの』『よろしいのでは』『承知いたしました』ばかり!」
「……はい」
「今もだ!」
リゼットは黙った。
何を言っても怒られる気がしたので、黙ることにした。
それがさらにアルヴェンを苛立たせたらしい。
「ティルダは違う」
隣の少女がびくりとする。
「花を贈れば喜ぶ。舞踏会へ誘えば楽しみにしていると言う。私が話せば笑ってくれる」
「……よろしいことですわね」
「そういうところだ!」
また怒られた。
難しい。
リゼットは小さく息を吐いた。
「アルヴェン殿下」
「なんだ」
「婚約破棄については、承知いたしましたわ」
「……ああ」
「では、帰ってもよろしいでしょうか」
「は?」
「もう、ここにいる必要はございませんでしょう?」
卒業夜会そのものは、まだ続く。
だが、リゼットが今夜ここへ来た最大の理由は、王太子の婚約者として隣に立つことだった。
その役目は、たった今なくなった。
「待て」
「……まだ何か?」
「本当に帰るのか」
「眠いので」
「リゼット!」
「はい」
「君という女は……!」
アルヴェンは何かを言いかけ、やめた。
リゼットも待った。
だが続きがない。
「では」
小さく一礼する。
それからティルダへ目を向けた。
「ティルダ様」
「は、はい」
「殿下をよろしくお願いいたしますわ」
「え」
「夜会では少し飲みすぎることがありますので、お酒は三杯までにして差し上げてくださいませ」
アルヴェンが固まった。
リゼットは続ける。
「あと、空腹のまま飲まれると翌朝かなりお辛そうになさいます。先に何か召し上がった方がよろしいかと」
「……なぜ」
アルヴェンの声が、少し低くなった。
「なぜ、君がそこまで知っている」
リゼットは首を傾げた。
「十一年も婚約者でしたので」
「だが君は、そんなことを一度も……」
「申し上げる必要がございました?」
アルヴェンは答えられなかった。
思い返せば、酒を四杯目まで取ろうとした時には、いつも給仕が別の飲み物を差し出していた。
長い式典の前には、軽食が用意されていた。
風邪を引きそうな夜には、執務室に温かな飲み物が届いた。
誰が手配したのか。
一度も尋ねたことがない。
リゼットは何もしていなかったのではない。
何をしているのか、自分が見ようとしていなかっただけなのかもしれない。
「では、おやすみなさいませ」
リゼットは一礼した。
アルヴェンは呼び止めなかった。
呼び止める言葉が、見つからなかった。
彼女が自分の酒量まで知っていたことを、今まで知らなかった。
十一年も婚約者だったというのに。
リゼットは静かに広間を出た。
馬車へ乗り込むと、侍女のネリが待っていた。
扉が閉まる。
馬車が動き出してから、ネリはそっと主人を見た。
「お嬢様」
「……何でしょう」
「よろしかったのですか」
「何がですの?」
「婚約破棄でございます」
リゼットは窓へ頭を預けた。
夜の王都が、ゆっくり流れていく。
「よくはありませんわ」
ネリは目を瞬いた。
「そうなのですか?」
「そうですわよ」
「まったくそのようには見えませんでしたが」
「……そうでしょうね」
リゼット自身にも、それは分かっていた。
幼い頃からそうだった。
嬉しくても、あまり顔に出ない。
悲しくても、声が変わらない。
怒れば、さらに静かになる。
母だけは、
『リゼットは嬉しいと、ほんの少し目が開くのよ』
と言っていたが、それを判別できる人間は家族とネリくらいだった。
「殿下のこと、お嫌いだったのですか?」
「いいえ」
「では、お好きだった?」
少し考える。
「……ええ」
「ええ!?」
ネリの方が大きな声を出した。
リゼットは眉を寄せる。
「うるさいですわ」
「申し訳ございません。でも、お嬢様、一度もそのようなことを!」
「聞かれませんでしたもの」
「聞かれなければ言わないのですか!?」
「……言う必要があるとは思いませんでしたわ」
十一年間、隣にいた。
アルヴェンが苦い茶を嫌うことも。
人前では平気な顔をするくせに、雷が苦手なことも。
緊張すると左手の親指を握ることも。
風邪を引く前日は、妙に水を飲むことも知っていた。
毎年、誕生日の贈り物も選んだ。
本人が気づいていなかっただけで。
「けっこう、好きでしたのよ」
「けっこう」
「かなり?かもしれませんわ」
「なぜ疑問形なのですか」
「比べたことがありませんので」
ネリは額を押さえた。
しばらくして、恐る恐る尋ねる。
「では、戻りたいですか?」
リゼットは窓の外を見た。
少し考えた。
今夜のアルヴェンの顔を思い出す。
ティルダと並んでいた姿も。
自分を見て、
何を贈っても同じ顔だ。
何をしても喜ばない。
そう言った声も。
胸の奥が、少しだけ重くなる。
「……いいえ」
「よろしいのですか」
「昨日までなら、戻りたかったかもしれませんわ」
「今日は?」
「面倒です」
「面倒」
「わたくしが十一年一緒にいて分からなかった方へ、今から一から説明するのでしょう?」
リゼットは目を閉じた。
「わたくし、そういうの、あまり得意ではありませんの」
「存じております」
「それに」
「はい」
「けっこう傷つきましたわ」
ネリは黙った。
リゼットの声はいつもと同じだった。
だからこそ、ネリには分かった。
本当に傷ついている。
「帰ったら、何になさいます?」
「寝ます」
「明日のご予定は」
リゼットは目を開いた。
王太子妃教育。
王宮での昼餐。
外交史。
舞踏。
王妃への報告。
十一年間、明日の予定には必ず何かがあった。
だがもう、ない。
「……何もございませんわね」
「はい」
ほんの少し。
本当に、ほんの少しだけ。
リゼットの目が開いた。
ネリはそれを見逃さなかった。
「お嬢様」
「何ですの」
「今、喜びましたね?」
「……別に」
「喜びました」
「寝ますわ」
翌日。
昼を過ぎても、リゼットは起きなかった。
午後一時を過ぎた頃、王宮から使者が来た。
昨夜の婚約破棄について、アルヴェンが改めて話したいとのことだった。
ネリは寝室へ向かった。
寝台では、リゼットが毛布に半分埋まっている。
「お嬢様」
「……何ですの」
「アルヴェン殿下がお話をしたいそうです」
沈黙。
「昨夜の件について、改めてお話ししたいと」
さらに沈黙。
やがて毛布の中から声がした。
「……お断りしますわ」
「理由をお伝えいたしますか?」
「そうですわね」
リゼットは少し考えた。
「昨日、けっこう傷つきましたので」
「はい」
「あと」
「はい」
「今さらいろいろお話しするのも、少し面倒ですわ」
ネリは笑いを堪えた。
「そのままお伝えしても?」
「お願いいたします」
「承知いたしました」
ネリが扉へ向かう。
「ああ、ネリ」
「はい」
「明日も」
「起こしません」
「……よろしくてよ」
扉が閉まる。
リゼットはもう一度、毛布へ潜った。
婚約破棄された翌日は。
十一年ぶりに、何もない一日だった。
今回は、感情がないわけではなく、ただ出力が低い女の子です。
嬉しい。
悲しい。
好き。
傷ついた。
全部ちゃんとある。
ただ、外に出てくる時にはだいたい二割くらいになっています。
こういう子、書いていてかなり好きでした。
婚約破棄されても大声を出さず、復讐にも走らず、最後に欲しいものが「何もない一日」なのも、リゼットらしいかなと思います。
……たぶん明日も昼まで寝ます。




