悪魔の肖像
人を殺した。十五歳の少年だった。
「これでいいんですよね、女神さま?」
女神さまに向かって問いかける。だけど、彼女は今日も、ただ微笑むだけだった。
そこには一切の邪悪さはない。
それはそうだ。私がそのように描いたのだから。
だけど。
だからこそ、そんな出自からして一切の悪心を持たない彼女が正しいと言ったのだから、私の行為に一切の間違いはないのだろう。法が許さなくても、人間の根源にある、集合的倫理には反していない。
そう。
宇崎隆二は死すべき人間だった。私の娘とは違って。
いじめ。
それも酷いものだったらしい。光は家ではそのことを一切話さなかったから、後に学校側に明かされた以上のことを私は知らない。宇崎はいじめグループのただの太鼓持ちだったそうだ。太鼓持ちという表現がわかりづらければ、よいしょ担当と言い換えてもいい。
だが、いじめに一番積極的だったのが宇崎だったという証言もある。
悔しいことに、気持ちはわからないでもない。
私も学生の頃は、それほど明るい性格ではなかった。絵ばかり描いていたからだろう。有体に言って、二軍以下の学生だった。一軍グル-プに逆らえない気持ちは、理解できてしまう。
宇崎はきっと、光を積極的にいじめることで、ターゲットが自分に移ることを防いでいたのだろう。
そういう風に他の四人に脅されていたのかもしれないし、宇崎が勝手に怯えて勝手にやっていたことかもしれない。
裸に剥いたそうだ。
娘を。教室で。暴力を使って。
それがいけないことだとわからないほど、中学生は馬鹿じゃないはずだ。彼にも罪悪感はあっただろう。それともなかったのだろうか。それなりに美しい少女を裸に剥いて、中学生らしく興奮していたのだろうか。痣だらけのその肌を見て、勃起したのだろうか。
宇崎は光を蹴るとき、殴るとき、どういう感情だったのだろう。
もしかしたら、無感情だったのではないかと思う。
理由として、私が宇崎を殺したとき、ホームで線路に向かって彼を突き飛ばしたとき、私の中に感情と呼べる感情がなかったからだ。
歓喜も、恩讐も、なにもなかった。
宇崎は轢死した。
一瞬の出来事だった。勢いよく電車に跳ね飛ばされて、手足をありえない方向に捻じ曲げながら、宙をくるくると舞った。地面に着地したとき、奴はもうただの肉塊になっていた。
その肉塊を見ても、なにも感じなかった。
人を殺した罪悪感も、恐怖も、なにも。
まだだ。
ひとつだけ、そう思った。
光をいじめていたのは、宇崎だけではない。むしろ、あいつはただの下っ端だった。いじめはグループで行われ、そのグループは、宇崎を除いて、あと四人もいる。
本当は、いじめを見て見ぬふりをした同級生を、学校の関係者を、全員殺してやりたい気持ちになったのだけど、それは現実的に難しいし、なにより、女神さまがそこまでする必要はないと言うので、私はたちどころに納得した。
「女神さま、人の心は、やはり脳ではなく心臓にあるのですね。こんなにも……こんなにも、胸が躍る」
女神さまは答えない。
そのすべてを包むような微笑は、私の言葉を肯定しているように見えた。
「人間はこんなにも愚かです。科学などという目晦ましに視界を奪われ、真実を見ることを忘れてしまっている。感情は脳の電気信号などでは断じてない。私は肚から怒り、宇崎を葬ったことに胸で喜んでいる。間違いありません」
私はそれほど賢くもないが、とはいえ馬鹿でもないので、自分の言っている言葉が誰にも理解できないことを理解していた。
鼻で笑われてしまうであろうことも。
科学に支配されてしまったこの世界では、もう、人間はそれの奴隷だ。
科学はたしかに、人類に進歩をもたらしたかもしれない。ただ、確実に人からあるべき感情を奪ってしまった。科学が進歩して以来、芸術のレベルが下がってしまったことが、如実にそのことを証明している。
だから、描けないのだ。
現代の画家には、誰にも描けない。他のどの画家にも、この絵は。
感情の在処を、生命の起源である心臓ではなく、理性を司る脳に移してしまった現代の画家には、絶対に、この女神さまは描くことができない。
そう、確信している。
「女神さま、どうか力をお貸しください。私が復讐を遂げるまで、絶対に」
女神さまが頷いた、気がした。
やはり、感情は心臓にある。何故って、こんなにも胸が満たされる。
「ありがとうございます……ありがとうございます……」
私は頭を垂れ、アトリエの床に涙を落した。
女神さまの御手が私の髪を撫でた。
◆
二人目を殺した。城塚心という名前の少年だった。
「やりましたよ、女神さま」
優しい笑みが、私を見ている。満たされていく。
少年を殺すことには、やはりなにも感じない。罪悪感も達成感も覚えない。
ただ、ここでこうして、女神さまに微笑んでもらえるこの瞬間だけ、私には至上の幸福があった。
城塚は転落死だ。
歩道橋の上からちょっと突き飛ばしただけだった。要領は宇崎のときに掴んでいたから、簡単なものだった。
野太い悲鳴を上げながら、階段を転げ落ちていく城塚の姿を覚えている。
ざまあない、そう思った。
天罰だとすら思った。
光が死んだ直接的な原因は城塚にある。
奴が橋の上から突き落としたせいで、泳げない光は溺れて死んだのだ。そんなつもりはなかったと城塚は証言し、その証言は聞き入れられた。
水死した光の亡骸は、ピンク色だった。
苦しかっただろう。
今さらになって、後悔が襲ってきた。城塚も、もっと長く苦しむ方法で殺せばよかった。
しかし、手の込んだ方法は取れない。
通り魔的犯行にしなければ、すぐにでも警察が私を捕まえに来てしまうだろうから。犯罪捜査について詳しくない私は、どの程度痕跡を消せばいいのか知らない。精々、キャップを被って手袋を付けて犯行を行っている程度だ。
というか、警察は私の行方を既に追っているのかもしれない。
私には動機があり、アリバイがない。
いじめという繋がりがあるふたりの少年が立て続けに死んだら、そのふたりを恨んでいるであろう私を疑うのが常識的な対応だ。
ただ、私は自宅にはしばらく帰っていないし、これからも帰る予定はない。
このアトリエも、友人の名義で借りているものだ。そうそう簡単に足が付くとは思えない。
「それに、私には女神さまがいる」
すべてを終えるまで、私が捕まることはない。
女神さまが私を見守ってくれているからだ。女神さまの助言通りに殺していけば、なにも問題ないことを確信している。
「報いはあるのですね。城塚も、突き落とされて死ぬとは思ってなかったはずです。惜しむらくは、城塚が即死してしまったことですが……いえ、女神さま、貴女のお言葉に逆らおうと思っているわけではありません。あなたはすべてにおいて正しい。だって、あなたは女神さまなのだから」
キャンバスの中で、女神さまは微笑む。
その中の世界に手が届かないことが、狂おしいほど口惜しく思えた。
もしもこのキャンバスの中の女神さまに触れることができるなら、私はもっと、彼女の愛を受け取ることができるはずだ。人類が誰も感じたことのないほどの幸福をその身に受け、天上に登るような心地を知り得たはずだ。
なぜ、作った私がその中に触れることができないのか、それは、私が芸術家だからだろう。
芸術家はしばしば、自らの及びも付かないほど高尚な物を世界に生み出してしまうことがある。それはその画家の実力によってではなく、天の配剤としか言えないなにかによって。
私という画家にとって、それがこの女神さまだったという話だ。
「貴女に触れたい。貴女と話がしたい。叶うなら、私を愛してほしい。私だけを愛してほしい……しかし、それは不可能なのですね。女神さまは、私だけの女神さまではないのだから」
女神さまは常に微笑んでいる。
彼女は私のどんな言葉にも微笑みを返してくれる。
私は正しいことをしている。
また、確信する。
彼女は罰を望んでいる。光の命を奪った五人の罪人に、死という名の罰を下すことを望んでいる。私が女神さまに触れられないように、女神さまもこちらの世界には触れることができない。
だから、私が代行するのだ。罰の執行を。
「あと三人です。女神さま、どうか、私に加護を」
手を組んで目を瞑る。
祈ること。
ありもしない正しさを、この世界に満たしてほしい。私の裁きによって、世界が少しでも正しさを思い出してくれたら、それより嬉しいことはない。
死して朽ちた神はここに。正義もまた等しく。
◆
三人目を殺した。前田勇作という名前だったらしい。
彼の首を絞めた翌日、そのことをテレビで知った。というか、テレビを点けたのが、そもそも彼の名前を知るためだった。
前田のことは、苗字は知っていたが名前は知らなかった。
学校側の報告に、彼の名前はなかったからだ。理由として、前田は学校では光に危害を加えなかったから。明確な、有形力の暴力は振るわなかった。そういうところろで、前田は狡猾だった。
ただ、SNSによって、彼が光にした仕打ちを私は知っていた。
光のことを弄んだ、らしい。
前田はそういう悪戯を好む悪童だったそうだ。
中学生ながらに大人びた、背の高いハンサムな男の子だった。女子人気を利用して女の子に気を持たせては弄び、最後には手酷くフり、友人と共にその様を嘲笑うことを趣味としていたようだ。
光もその餌食にかかってしまった。
そして、それが光に対するいじめの始まりだった。だから、光は私にいじめの相談をできなかったのだろう。いじめの相談は、光にとって恋の相談に等しいものだったから。好きな人に裏切られた痛みを親に相談できる子供なんて、この世界のどこにもおるまい。
娘の受けた仕打ちを想うと、胸が苦しくなる。呼吸が辛くなる。
好きな人に裏切られ、揶揄われ、いじめられ、苦しかっただろう。息の仕方も忘れてしまうような、窒息するような、そんな毎日を過ごして……。だけど、私に心配をかけないため、それでも学校を休むことはできない。
辛くても、悔しくても、恥ずかしくても、学校から逃れることができなかった。
私の存在が、もしかしたら娘にプレッシャーを与えていたのかもしれない。そう思うと、また息が苦しくなる。
「女神さま、もしかしたら……もしかしたら、光の死の原因のひとつは、私にあるのかもしれません。私が、気付いてあげられなかったから……。光をいじめた彼らに罰が必要なら、同じように、私にも……」
女神さまはなにも答えない。
ただ、優しい微笑みで「為すべきことを為しなさい」と言っているように見えた。
そうだ。
挫けているわけにはいられない。私にも、原因はあったのかもしれない。だけど、もっと直接、光を傷付け、殺した人間が、この世にはいるのだから。彼らが罰されることなく、私が罰されるのでは意味がわからない。
奪われたものは、奪い返さなければいけない。
だけど、奪われた命は二度と戻らない。光はなにをしても生き返らない。
ならば、こちらも奪うしかないではないか。
それが世界の正しい形というものだ。
奪われたものと同等のものを奪い返す。
それでこそ、バランスが成り立つ。
『子供が生まれると女性は変わる? そうですね……まあ、私に言わせれば、それは当たり前だと答えるよりないです』
テレビは、いつの間にか違う内容に変わっていた。報道は終わり、ワイドショーのようなものが始まっている。
中学生の子供が塾帰りの路上で首を縛られて殺されたというのに、数十分後には家庭を円満に保つ秘訣について放送し始める。
所詮、世の中はそんなものだ。
誰も、知りもしない誰かの不幸なんかに気を取られることはない。
他人でしかないのだから。
光が死んだときもそうだった。
テレビの中の社会学者は語る。
まるで他人事のように。
『男性と女性では、出産・育児に大きな違いがありますからね。つまり、妊娠を経験するかどうかです。母親にとって、子供はお腹の中で十月と十日を共に過ごしたひとつの命です。射精しただけの父親とは違う。十カ月も共にあり、また、自らのお腹から生まれいずった子供は、母親にとっては、もはや自らの分身です。子供の痛みを自分の痛みのように感じたり、あるいは自分よりも大切に感じたりするのは、当たり前の感性と言えます。むしろ、子供ができてもなにも変わらない男性の方こそ、私は異常だと思いますね』
ペラペラと語る社会学者が不愉快で、私はテレビを消した。
なにもわかっていないくせに、偉そうに語る学者先生が大嫌いだった。
テレビは久しぶりに見た。
久しぶりだった理由は、テレビのこういうところが嫌いだったからだ。
テレビに出ているというだけの理由で、なにもかも知っているかのように、偉そうに、自分の意見がまるで絶対の正解であるかのように、軽々に言葉を綴る。そして、それを信じてしまう馬鹿の、なんと多いことか。
胸の底からせり上がるような不快感に、私は軽くメランコリーな気分になった。
お昼過ぎの時間だったが、食欲はまるで湧かない。
ただ、胸の中で、殺意だけが膨れ上がっていた。
宇崎を殺したときと城塚を殺したときには、三か月のインターバルを設けた。
城塚を殺してから今回前田を殺すまでの間隔は、ひと月弱だった。
本当は、もっとインターバルを設けて、足が付かないように殺していった方がいいことは理解している。
だけど、耐えられなかった。
衝動が身体を突き動かす。
殺せ殺せと魂が騒ぐ。
呼応するように、女神さまも罰を下せと言ってくださった。
報道によると、警察はまだ私のことを疑っている様子はない。
まあ、それは警察がまだ発表していないだけで、あちらも既に私の存在は認知しているだろう。今回の殺害は絞殺で、できるだけ証拠が遺らないようにと注意はしていたが、痕跡を完全に消せたとは思っていない。
警察もそろそろ私のことを探し始めるだろうし、このアトリエの所在がバレるのも時間の問題だろう。
衝動云々に関わらず、タイムリミットが迫っているということだった。
警察に捕まるわけにはいかない。
あとふたり、殺すまでは。
◆
四人目を殺した。川崎俊也という少年だった。
実を言うと、彼にはそれほど恨みはなかった。光に行ったいじめのほとんどは、もちろん口に出すのも憚れるような行為ばかりだったが、宇崎や城塚が娘にした仕打ちを思えば、それほどのことではなかった。
それでも、川崎を殺さない選択肢は、私の中にはなかった。
いじめを行っていた五人のうち、ひとりだけを殺さないのは一貫性が取れないと思ったし、中途半端だと思ったから。私はA型なのだ。
それに、女神さまも「やるならやりきれ」と言った。
川崎のことは、後頭部を石で殴って殺した。
一度では絶命しなかったので、何度も、何度も。
一晩経って、まだ、その感触が掌に残留している。
死体は、川に投げ捨てた。水の中で孤独に息を引き取った光の苦しみを、少しでも味わえばいいと思う。
「女神さま、私は普通の人間ではないのかもしれません」
女神さまは今日も答えない。
その口元に微笑を湛え、真っ直ぐと私を見ている。
「川崎を殺すとき、一度では死にませんでした。だから、私は石を何度も何度も振り下ろしました。骨を砕き、脳をぐちゃぐちゃにしている感触を感じながら、それでも、私はなにも感じなかったのです。恐怖も、不快感も、なにも」
喉が渇いているのに、水を飲んでも潤わない。
そんな感覚に似ていた。
創作物の中の殺人嗜好症の人間は、人を殺すことに快楽を感じているように描写されているが、私にとってはまったくの無だった。なにも感じない。殺しても、その感触を思い出しても、なにも感じない。
ただ、少し高鳴りを覚えたという事実はある。
目標に向かって、ひとつの段階を踏んだという感覚が。
言うなれば、パズルで完成の絵が見えてきたときのような、達成感の前借りにも似たなにかが私の胸中にはあった。
「川崎たちはどうだったのでしょう? 光を突き落としたとき、光が川を流れていったとき、後に光が死んでしまったと聞いたとき、彼らには罪悪感や後悔はあったのでしょうか? それとも、達成感があったのでしょうか?」
女神さまは、答えない。
「子供だから赦された。まだ、未成年だから、責任能力がないから、光を殺したことに対する罰が下らなかった。私は、そのことに憤りました。悔しかった。赦せないとないと思った。殺してやると思った。ちょうど、貴女を描いているときでした」
女神さまは、答えない。
「完成した貴女は、ならばお前が殺せと言いました。罰を下せと。法が罰を与えないなら、天が罰を与えないなら、社会が罰を与えないなら、お前がその手で罰を下せと、貴女は仰った。そうでしょう?」
女神さまは、答えない。
「女神さま……ねえ、女神さま。貴女は、どうして私にそのようなことを言ったのですか?」
女神さまは、答えない。
なにも。
◆
五人目の少年は、嬉野修という名前だった。
彼のことは、すぐには殺さなかった。
いじめの主犯格である嬉野は、一番苦しんで死ぬべきだからだ。そうに違いないからだ。
だから、嬉野のことを誘拐した。
まだ、川崎の死体が見つかる前だったから、SNSを使ってかどわかすのはそれほど難しいことではなかった。
薄闇の中、少年のごつごつとした身体が浮かび上がっている。
私はその傍らに立って、嬉野の身体を見下ろしていた。彼は芋虫のように這いまわって、私から逃れようとしている。無意味なことなのに。
「お願いします、助けてください……」
懇願する声は、酷く震えていた。
その声に、怒りが湧きたった。
光だって、お前らにやめてと言ったはずだ。だけど、お前らは決して光を許すことはなかった。ならば私がお前を許すはずがない。
そのことが、どうしてわからない。
私はナイフを抜いて、キャンドルの炎に煌めくその刃を、嬉野に見せつける。
彼は驚愕にその双眸を見開いた。
「助けて……助けてください……、お願いします。誰か……誰か助けてっ!」
「無理だよ。こんな山奥のアトリエで、誰かがお前の声を聞いてくれるわけがない。ここにいるのは、お前と、私と、女神さまだけだ」
「女神……さま……?」
「そうだよ。ほら、彼女だ」
顎をしゃくって示すと、嬉野はやっとそのキャンバスに気付いたようだった。
キャンドルの炎に揺らめく、女神さまの微笑。
それを見た瞬間、嬉野は凍り付いたような表情になった。そして恐怖のあまり失禁し、泣き出してしまった。
「ごめんなさい……赦してください! ごめんなさい! ごめん……なさい!」
「赦すとか、赦さないとかじゃないんだよね」
私は嬉野に近づき、膝を着いた。
彼の身体が恐怖に、死の恐怖に、震え始める。ガタガタと。
「どうして……俺、償います! 反省します! なんでもします! だから、助けてください! 誰にも言いません。本当ですっ。誰にも言いませんから……」
「だから、そういう話じゃないんだよ」
「なら……なんでっ!」
「私、A型なんだよね」
ナイフを振り下ろした。
声にならない少年の悲鳴。声変わり前の子供の絶叫のようだった。
しばらくして、嬉野の身体が大人しくなる。力んでいた身体から力が抜けて、後頭部がことりと落ちる。
私は、ナイフをずるりと引き抜いた。
噴水のように、少年の身体から血が噴き出る。私は慌てて女神さまの前に立ち、絵画を噴き出る血から守った。
「ぁっ……、ぁっ……、ぁっ……」
嬉野が激しく呻いて、虚ろな瞳孔をぐるぐると回転させた。
苦しそうに呻いて、でも、もはやのた打ち回る気力もない。
ポイント・オブ・ノーリターン。
例えば私が今から唐突に良心に目覚めて、彼のことを救命しようと思っても、もはや間に合わない地点までいってしまったことは明白だった。
死んでいく。
ひとつの命が終わっていく。
「ねえ、そっちにはなにがある? 光はいる? 宇崎は? 城塚や前田は? お前の親友の川崎は? ねえ、答えてよ……死んだ後の世界には、なにがあるの?」
ほんの好奇心で訊いてみた。
だが、嬉野はいつのまにか事切れていた。
あーあ、終わりか。
そんな風に思った。
もしかしたら、嬉野を殺せば達成感でも得られるのではないか、なんて思っていた。だけど、それは勘違いというものだった。
やはり、なにも感じない。
圧倒的な虚無。
「……ああ、そうか」
振り返って、女神さまを見た。
彼女は今日も微笑んでいる。
その微笑みを見て、理解した。まだ終わっていないことを。
光を殺した人間を、苦しめた人間を、その原因となった人間を、すべて地獄に送ることが私の目標だった。そのために、この半年間を捧げてきたのだった。
私にとって、この一連の事件は作品だ。
だとしたら、足りていないものがある。芸術家として、絵画を仕上げたなら絶対にこれをしなければならない。でなければ、画竜点睛を欠くことになる。
誰が書いたのかもわからない絵に、価値なんてないのだから。
◆
神島翼のアトリエは、その夜が明けてから見つかった。
突入した警察官は、現場のあまりの凄惨さに言葉を失ったという。そこは血の海で、血の地獄だった。
嬉野修は失血死だった。腹部を鋭利な刃物で貫かれ、苦しんだ末に亡くなっただろうと予想された。
反対に、神島翼は即死だったと思われる。
嬉野修の横に転がっていた神島翼の亡骸は、頸部がぱっくりと開かれていたそうだ。握っていたナイフと首の傷の形状が一致し、自殺だということが判明した。傷は頸動脈にまで及び、自死であるとしても、相当な異常精神状態だったであろうことが予想された。普通の人間は、そこまで自分を深く傷つけられないからである。
神島翼と五人の少年の関係は、警察も調べ上げていた。
五人の少年は、いずれも神島翼の娘である神島光の仇だった。
殺害にまで及ぶ凄惨ないじめ。そのこともあって、世論では神島翼を擁護する声も散見された。
学校は後に会見を開くが、そのときの学校側の被害者意識の抜けない態度が切り抜かれて、その学校も酷く炎上した。
また、警察の対応の遅さも疑問視された。
一人目の宇崎の事件の時点で、神島翼に事情聴取すべきではなかったのか、というのが世論だ。
警察庁は、宇崎の身辺を調査したときに、学校側が神島光へのいじめの件を隠匿したのが原因だと弁明したが、その程度の言い訳で納得してくれるほど、日本社会は甘くなかった。
山奥のペンションに警察が突入したとき、血の海の中に沈む神島翼は、なにかに縋るように手を伸ばしていた。掻っ捌いた首をありえない方向に傾げ、開ききった瞳孔で、一枚のキャンバスを見ていた。
そのキャンバスに描かれた絵画を見て、警官はまた言葉を失ったという。
そこには、悪魔のように邪悪な笑みを浮かべた神島光の肖像があったそうだ。
読んでくださり、ありがとうございました。
ホラーというジャンルはあまり慣れないのですが、苦心しながらもひと晩で書き上げた作品です。
それ故荒いところもあるかと思いますが、それ故の勢いもあるのではないかと愚考しています。
心の闇が五人の少年を殺させた本作。
娘が殺されたが故に心を病んだのか、それとも生得の狂気か。
そういった考察も楽しんでいただければと思います。
余談ですが、主人公・神島翼の性別に関しては、あえて作中では言及していません(設定では性別は決まっています)。
読者の皆様方は、男性か女性か――父親か母親か、どちらだと思って読まれたのでしょうか?
それでは、最後まで読んでいただいたことに再度厚く御礼申し上げ、これにて筆を置かせていただきます。
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