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身代わりの肖像

作者: 霧島 慎
掲載日:2026/05/13

■第1章 乾いた日常と火種


 朝


 トーストが焼ける音だけが、静かなダイニングに残っていた。


 由美子は、テーブルに並べた皿を見渡す。


 焼き色の薄い食パン、きれいに揃えたアボカド、一定の音を立ててコーヒーを落とすエスプレッソマシン。


「このマシン、やっぱり正解だったな」


 夫の真治がタブレットから目を上げる。


「味が安定してる。朝の手間も減るしな」


「……ええ」


 カップを差し出したとき、指先がわずかに震えた。真治は気づかない。


「クリーニング、今日出しておいてくれ」


「分かってるわ」


 それだけの会話。


 食器の触れ合う音が、やけに大きく聞こえた。


 ふと、自分がどこに立っているのか分からなくなる。


 ここにいるはずなのに、どこにも触れていないような感覚だった。


 コーヒーを口に含む。


 温度も苦味も、きちんと整っている。


 ――何も、引っかからない。



 コンビニのバックヤードに入ると、空気が少しだけ柔らかくなる。


「助かるよ、由美子さん」


 店長の佐伯が、棚を見ながら頷いた。


「並びが変わると、売れ方まで違ってくる」


「そんな……」


「いや、本当だよ」


 軽く笑うその顔には、どこか力の抜けた温度があった。


 棚を整える。


 商品を一つずつ触れていくと、自分の手がちゃんと動いていると分かる。


 ここでは、触れた分だけ結果が返ってくる。


 それだけで、十分だった。



 年末。


 忘年会の代わりに、佐伯の家に呼ばれた。


 他の従業員は来られなくなり、結果的に二人きりになった。


「家内が亡くなってから、時間が止まったままでね」


 佐伯は酒を注ぎながら言った。


 由美子は、頷くだけだった。


 しばらくして、立ち上がろうとした瞬間、酔いのせいで足元が崩れる。


「おっと」


 佐伯に支えられる。


 思ったより細い腕だった。


 顔が近づく。


 目を逸らせなかった。


 唇が触れる。


 驚くほど静かだった。


 押しつけるような、弱い重みだけが残る。


 そのとき、部屋の隅の遺影が視界に入った。


 由美子は咄嗟に身を引いた。


「……失礼します」


 鞄を掴み、慌ただしく外へ出る。


 夜風が頬を冷やした。


 しばらくしてから、自分の唇に触れる。

 

 そこに残っていたのは、熱ではなかった。


 ただ、消えかけた何かの名残のような感触だった。




■第2章 謝罪と影


 翌日。


 バックヤードの扉を開けると、佐伯がいた。


 顔色が悪い。


「申し訳ありませんでした」

 

 言い終わる前に、床に膝をついた。


「……顔を上げてください」


 由美子はしゃがみ込む。


 肩に触れると、驚くほど軽かった。


 骨の形が、そのまま指に当たる。


 佐伯は何も言えず、ただ息を乱している。


 由美子は、その手を取った。


 離そうとすると、わずかに力が返ってきた。

 

 離せなかった。


 しばらくして、佐伯が顔を上げる。

 

目が合う。


「……ひとりなんです」


 掠れた声だった。


 由美子は頷いた。


 そのまま、手を握り続けた。




■第3章 死の気配


 初夏。


 店内で、佐伯が倒れた。


 大事には至らなかったが、戻ってきたときには、別人のように痩せていた。


 シャツの襟元が浮いている。


 ある日、帰り支度のとき。


「少し、いいかな」


 佐伯が言う。


「分かるんです。私にはもう時間がない」


 言葉のあと、間があった。


「奥飛騨へ行きませんか。二泊だけでいい」


 由美子は何も答えない。


「最後に、一度だけ」


 沈黙が続く。


 由美子は、自分の手を見た。


 商品を並べるときの手。


 触れれば、必ず何かが返ってくる手。


 家では、何も返ってこない。


「……行きます」


 自分の声が、少し遅れて耳に届いた。



 その夜。


 味噌汁の味が、いつもより少し濃かった。


 真治は一口飲み、水を足した。


 何も言わない。


「ねえ」


 由美子は言う。


「もし私がいなくなったら、どうする?」


「何だ急に」


 視線は画面のまま、指先だけが一定のリズムで画面をスクロールし続けていた。


「くだらないこと言ってないで、明日のゴミ出しを忘れるな」


 それだけだった。


 由美子は何も言わず、椀を片付けた。


 あのときの手の冷たさを、まだ覚えている。


 離そうとしたとき、わずかに力が返ってきた。


 あの感触だけが、残っている。




■第4章 奥飛騨


 宿。


 部屋には、布団が二組並んでいた。


 隙間がない。


 佐伯は、鞄から古い長襦袢を取り出す。


「家内のものです」


 由美子は、それを受け取った。


 布は冷たく、埃と防虫剤の匂いがした。


 鏡の前に立つ。


 背後から、襟元に老いた手が触れる。


 指が、布越しに迷う。


 一度止まり、また動く。


 由美子は、動かなかった。


「……ひとりにしないでくれ」


 声が落ちる。


 返事はしなかった。


 そのまま、触れられるままにしていた。


 灯りの中で、影が揺れる。


 佐伯は、確かめるように何度も触れた。


 間が途切れないように。


 由美子は受け止めていた。


 力を返さず、ただそこにいた。


 終わったあと、呼吸が崩れる。


 浅く、速く、また止まりかける。




■第5章 身代わり


 朝。


 佐伯は目を開ける。


「……美津子、もう起きたのか」


 由美子の唇がわずかにふるえる。


 すぐには答えなかった。


 呼ばれた名前が、冷えた空気の中に残る。


「……ええ」


 小さく返した。


 声は、ほとんど動かなかった。


 外を歩く。


 雪が残っている。


 佐伯はぽつりぽつりと昔の話をする。


 由美子は聞くだけだった。


 言葉の間に、足音だけが続く。



 夜。


 佐伯は薬を飲む。


「もう一度だけ」


 由美子は頷く。


 触れられるたび、呼吸が変わる。


 速くなり、乱れ、また戻る。


 その繰り返しが、静かに続いた。




■第6章 帰還


 朝。


 呼びかけても、佐伯の返事はなかった。


 由美子はしばらく、そのまま座っていた。


 自分の手のひらに、昨夜の温度がまだ残っている気がした。


 やがて従業員が来て、騒ぎになる。


 その中で、由美子は動かなかった。


 亡骸が運ばれるのを、じっと見ていた。


 雪解けの水が光っていた。


 音は、遠かった。



 帰宅後。


 真治は言う。


「あんな老いぼれに。この件は外に出さない。分かったな」


「……はい」


「とにかく黙っていればいい。それだけだ」


それで終わりだった。



 夜。


 台所に立つ。


 包丁を動かす。


 一定のリズム。


 ふと、手が止まる。


 あのときの呼吸の感触が、まだ残っている。



 深夜。


 由美子は一人で座る。


 長襦袢を抱く。


 布は、もう冷えていた。


 指先でなぞる。


 何も返ってこない。


 しばらくして、手を離す。



 朝。


 コーヒーを淹れる。


 湯気はほとんど立たない。

 

 カップを口に運ぶ。


 味は変わらない。


 ふと、もう一つカップを取り出す。


 同じ分量で、同じ温度で淹れる。


 テーブルに置く。


 向かいの席に。


 しばらく、そのままにしておく。


 やがて冷める。


 由美子は、それを流しに運ぶ。


 指先は、もう震えていなかった。


 何も触れていないのに、


 そこに、わずかな重みだけが残っていた。



(了)



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