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第1話:帰還者の贖罪

 ――断末魔の叫びが洞窟の中に鳴り響いた。

 それは単なる音の振動ではなかった。空間が歪み、因果律が悲鳴を上げ、神々の築いた理さえもが砕け散るかのような、次元震を伴う咆哮。この地に千年君臨し、絶望という概念そのものであった邪竜が、長大な生命活動についに終止符を打った瞬間だった。

 天を覆っていた鉛色の絶望の帳が、まるで悪夢から覚めるかのように、ゆっくりと確実に裂けていく。その裂け目から差し込んだ一条の光は、この地に住まう全ての生命が、もはや記憶の彼方にさえ忘却してしまったであろう、暖かな太陽の色をしていた。

 光は呪われた大地を照らし出す。邪竜の瘴気によって黒く枯れ果て、生物の骸さえも塵に返す死の沈黙に支配されていた大地に、まるで世界の創造を早回しで見ているかのような、奇跡の光景が広がっていく。黒い大地に亀裂が走り、そこから眩いほどの生命エネルギーが溢れ出す。光の筋は瞬く間に大地を駆け巡り、その軌跡に沿って、青々とした若草が芽吹き始めていた。それは、あまりにも幻想的で、そして、あまりにも残酷なほど美しい、世界の再生だった。

 俺は、聖剣『エリュシオン』の柄に全体重を預け、杖代わりにすることで、かろうじてその場に立っていた。全身の骨という骨が軋みを上げて悲鳴を響かせ、酷使しすぎた筋肉はあちこちで断裂を起こしている。喉は灼けるように乾ききり、口の中に広がるのは血の鉄錆の味だけだ。全身に浴びた邪竜の返り血は、ミスリル製の鎧の隙間から皮膚に染み込み、呪詛のように不快な熱を発し続けていた。

 だが、そんな肉体的な苦痛は、もはや意識の表層にすら上ってこない。ただ、目の前で起こっている世界の再生を、現実感のない映画でも見ているかのように呆然と見つめていた。


「…………終わった、のか……?」


 誰に問いかけるでもなく、掠れた声が唇から漏れ出た。

 その声に応える者はいない。

 視界の端に、死線を共に越えた仲間たちの姿が映る。

 パーティーの主盾、俺たちの絶対的な守護者であった隻腕の剣士、片桐誠一郎。彼はその自慢の大剣を墓標のように大地に突き立て、そこに背を預けて静かに目を閉じていた。彼がその身一つで受け止めた邪竜の一撃は、神々が作りし防具さえも粉砕するほどの威力だった。それを防いだ代償として、彼の全身には無数の亀裂のような傷が刻まれ、その屈強な身体から流れ落ちる血が、足元に再生した若草を赤黒く染めている。

 後衛で広範囲殲滅魔術を担っていた呪われしエルフの魔女、セレス。彼女はその魔力の源である世界樹の杖を固く握りしめたまま、魔力枯渇で気を失って倒れ伏していた。彼女の白い頬には、一条の涙の跡がくっきりと残っていた。人間を信じず、世界を呪っていた彼女が、俺たちのために流した涙。その意味を思うと、胸が締め付けられる。

 そして、パーティーの切り込み役であり、その俊足で戦場を撹乱し続けた嘘つきの盗賊のレン。彼は悪態をつく元気もないらしく、大の字になって再生した空を見上げていた。その口元には、満足げな、それでいてどこか寂しげな笑みが浮かんでいる。スラムの孤児だった彼が、命を懸けて守りたかった「誰かのための世界」が、今確かにここにある。

 誰もが限界に達していた。文字通り、魂の一滴まで絞り尽くして、この戦いにすべてを捧げた。

 それでも、俺たちは勝ったのだ。

 この絶望しか知らない世界を救ったのだ。

 歓喜が胸の奥から込み上げてくるはずだった。仲間たちと抱き合い、涙を流して、この勝利を分ち合うはずだった。

 なのに。

 どうしてだろう。俺の心を支配しているのは、達成感でも、安堵でもない。まるで心臓を氷の指で鷲掴みにされているかのような、冷たく、そして鋭い焦燥感だった。

 何かがおかしい。何かが足りない。

 この勝利の光景に、絶対にいなければならない一人の男の姿が見えない。パーティーの心臓であり、俺の魂の半分でもあった、彼の姿が。


「――翔ッ!」


 俺は悲鳴に近い叫びを上げ、もつれる足で駆け出した。

 向かう先は、パーティーの後方。支援者(サポーター)である彼の、いつもの定位置。

 いた。

 そこに、俺の親友――結城翔は、まるで戦いの喧騒など嘘であったかのように穏やかな表情で座り込んでいた。仲間たちが倒れ伏す中、彼だけがその身に傷一つなくただ静かに、俺が駆け寄ってくるのを見ていた。


「翔、終わったぞ! 俺たちの、勝ちだ……! これで、あいつとの約束も……果たせるんだ!」


 言葉が途切れ途切れになる。息が、苦しい。

 翔はそんな俺を見て、ふっと本当に微かに笑みを浮かべた。


「……ああ、見てたよ、透」


 その声は、風に掻き消されてしまいそうなほど、か細かった。

 いつも快活に笑い、冗談ばかり言ってパーティーの空気を和ませていた彼の面影はない。その顔色は、まるで上質な陶器のように病的なまでに白い。黒曜石のように輝いていたはずの瞳は、その光を失い、どこか虚ろに揺れていた。


「さすがだな、僕の親友は。……世界一、カッコいい勇者様だ」


 からかうようないつもの口調。だが、その言葉にはまったく力がこもっていなかった。

 俺は、翔の隣に崩れるように膝をついた。彼の震える手を、両手で包み込むように握る。まるで、真冬の氷に触れているかのように冷たい。ありえないほどに、生命の温もりが感じられない。


「何を言ってるんだ。お前がいたから勝てたんだろ。お前の【共鳴鼓舞(レゾナンス・ブレイブ)】がなきゃ、俺はとっくに……邪竜の餌食になってた」

「……はは、違いない」


 翔は弱々しく笑った。

 彼のユニークスキル【共鳴鼓舞】。それは、仲間たちの魂を共鳴させ、その力を一時的に何十倍にも増幅させるという、まさに奇跡の力。邪竜の神性さえ貫いた俺の聖剣の一撃も、セレスが放った魔法も、すべては翔のこの力があってこそだった。

 だが、その代償はあまりにも大きい。仲間たちの魂を励まし、共鳴させるその力は、術者の魂そのものを燃料として燃やす諸刃の剣。使えば使うほど術者の生命力は、存在そのものがこの世界から希薄になっていく。


 その瞬間、俺は見たくもないそれを見てしまった。

 俺の意思とは無関係に、呪いのように備わってしまったスキル、【神眼の鑑定】が発動する。俺の網膜に、冷たい青色のデジタルの光が、非情な現実を、機械的なフォントで映し出した。


【名前】結城 翔

【称号】魂を燃やす者、勇者の親友

【HP】3 / 350

【MP】0 / 890

【状態】魂魄摩耗(末期)、生命力枯渇、存在の希薄化


 ――末期。

 その二文字が、俺の思考を凍てつかせた。

 それは、もはやどんな治癒魔法も、どんな蘇生薬も意味をなさない、不可逆の状態異常を示す言葉。魂という、生命の根源そのものが、燃え尽きる寸前だという死の宣告。

 見たくもない情報が、俺の呪われた眼によって、強制的に表示される。

 翔の命が、まるで風に揺れる蝋燭の灯火のように消えかけているのが分かってしまった。彼のHPを示す数値が、まるでカウントダウンのように、赤く点滅しながらゆっくりと減っていくのが見えた。


「……喋るな。すぐにセレスを起こして、治癒魔法を……!」

「……いいんだ。……もう、いい」


 翔は静かに首を振った。その動きさえ、ひどく億劫そうだった。

 そして、最後の力を振り絞るように俺の手を弱々しく握り返してきた。


「約束、覚えてるか?……ガキの頃、河原で話したやつ。もし、どっちかが先に死にそうになったら、……メソメソしないで、笑って見送るって約束」

「……ッ、覚えてるか、そんなもん! ガキの頃のくだらない約束だろ! 意味なんてない!」


 思い出したくもない記憶が鮮明に蘇がえる。

 それは、蝉の声が降り注ぐ、中学二年生の夏の日だった。二人で近くの河原の土手に寝転がって、ぬるくなった缶ジュースを飲みながら、当時流行っていた漫画の話をしていた。主人公が、仲間が死んだことを引きずって前に進めなくなる、そんな話だった。

『俺、ああいうのって好きじゃないんだよな』

 翔は、入道雲が浮かぶ空を見上げながら言った。

『死んだ奴はもういねえんだから、残された奴は、そいつの分まで笑って生きなきゃ可哀想だろ』

『……まあ、そうかもしれないけどさ』

『だから約束な、透。もし俺が先に死んだら、お前、俺の葬式で大爆笑しろよ。最後までダセェ親友だったぜって』

『馬鹿言え。逆だよ。もしお前が死んだら、俺は泣いてやる。これでもかってくらい泣いて、お前の家のラーメン、大盛りで食ってやる』

 くだらない、子供じみた言い合い。夕日が俺たちの影を長く伸ばすまで、そんな馬鹿話で笑い合っていた。まさかこんな形で、この異世界の果てでその約束を突きつけられることになるなんて、誰が想像できただろうか。


「くだらなくないさ。……僕にとっては、……すごく、大事な約束だ」


 翔は、ゆっくりと空を見上げた。その瞳に、ようやく再会できたはずの、どこまでも澄んだ青空はもう映ってはいないのかもしれない。


「……帰りたかったな……。お前と、一緒に。……また、馬鹿みたいに教室で騒いだり、……駅前のまずいラーメン食いに行ったり、さ。……コンビニのアイス食いながら、深夜アニメの実況とかも、したかったな……」

「帰るんだよ! これから帰るんだ! 約束しただろ、二人で絶対に、あっちの世界に帰るって! お前がいなきゃ意味がないんだよ! お前がいない日常なんて、ただ地獄だ!」


 俺の叫びは悲鳴に近かった。

 聖剣を握り、邪竜を屠ったこの両腕は今、すぐ隣で消えかけている親友一人、繋ぎとめることができない。

 なんのための力だ。なんのために、俺は勇者になったんだ。世界を救うなんて、大層なことじゃない。俺はただ、こいつと一緒に、俺たちの日常に帰りたかった。ただそれだけだったのに。


 俺の視界の端で、ステータスウィンドウの【HP】の数値が、ついに『2』になった。


「……ごめんな、透。……約束、守れそうにないや」


 翔は、本当に申し訳なさそうに、眉を下げて笑った。

 その顔は、不思議と安らかに見えた。


 そして、ウィンドウの【HP】が、『1』に変わる。

 翔の身体の輪郭が、ぼやけ始める。指先から、足元から、彼の存在が、きらきらと輝く光の粒子となって、風に溶けていく。まるで、陽光に溶ける淡雪のように。


「やめろ……やめてくれ……翔……!」


 俺は必死に彼の手を握りしめるが、その手はすでに実体を失い始めていた。俺の指が、透け始めた彼の手のひらを、すり抜ける。


「……先に、帰ってるよ」


 最後にそう呟くと、翔の顔が、穏やかな微笑みを浮かべたまま、光の奔流に掻き消えた。

 握りしめていたはずの温もりは、もうどこにもない。

 俺の手の中に残されたのは、掴むことのできなかった光の残滓と、耐え難いほどの虚無感だけだった。

 彼の身体は、もうそこにはなかった。まるで、最初からそこに誰もいなかったかのように、跡形もなく、完全に消滅していた。


 ステータスウィンドウの【HP】が、『0』になった。

 そして、ウィンドウそのものが、ノイズと共に掻き消える。

 後に残されたのは、耐え難いほどの静寂と、あまりにも広すぎる世界だった。


「ああ……ああああああああああああああああああああッ!!」


 世界を救った英雄の慟哭は、再生を始めた世界の産声に掻き消され、誰の耳にも届かなかった。

 俺の英雄譚は、かけがえのない親友の「死」という、決して癒えることのない傷痕と共に、その幕を閉じた。

 救えたはずの世界と、救えなかったたった一人の親友。

 その残酷な天秤が、俺の心を再起不能なまでにひび割れさせた。


 どれくらいの時間、そうしていただろうか。

 慟哭はやがて掠れた嗚咽に変わり、ついには音にもならない乾いた呼気へと変わっていた。涙はとうに枯れ果てている。感情という感情の全てが、巨大な嵐のように過ぎ去った後の心は、まるで干上がった川底のように、ひび割れた虚無感だけが広がっていた。

 立ち上がらなければ、と思う。

 倒れている仲間たちのもとへ行かなければ。誠一郎さんは? セレスは? レンは? みんな、生きているのか?

 だが身体が、大地に縫い付けられたかのように、鉛と化して動かない。指一本、僅かに痙攣させることさえ億劫だった。

 翔が消えた空間を、ただ見つめることしかできなかった。


 その時だった。

 不意に俺の身体が淡い光に包まれた。

 なんだこれは。

 セレスが使う治癒魔法ヒールの、温かな光とは明らかに違う。もっと無機質な光。まるで天国が自ら迎えにきてくれたような。

 まさか。

 俺は、最悪の可能性に思い至り、最後の力を振り絞って、声にならない声を上げた。


(やめろ……! 俺は、まだ……!)


 仲間たちの安否も確認できていない。翔の弔いもできていない。俺の物語は、俺たちの物語は、まだ終わっていない。終わらせてなるものか。

 だが、俺の意思などお構いなしに、光は急速にその輝きを増していく。

 遠くで、大地に突き立てた盾を杖代わりに、誠一郎さんがよろめきながら立ち上がるのが見えた。何かを叫んでいる。その声はもう俺には届かない。

 倒れていたセレスが、必死にこちらへ手を伸ばしている。その瞳が、絶望に見開かれていた。

 大の字になっていたレンが、こちらへ向かって駆け出してくる。

 その光景が、まるでノイズの入った映像のように、引き伸ばされ、白く、白く、塗りつぶされていく。

 仲間たちの声が、世界の産声が、水中にあるかのように遠ざかっていく。

 痛みも衝撃もない。ただただ無慈悲で、抵抗のしようもない「世界のルール」によって、俺という存在が、あの世界から、俺の居場所から、強引に引き剥がされていく。

 ああ、そうか。

 邪竜は倒した。世界の脅威は去った。

 俺の役目はもう、終わったということか。

 用済みになった駒は、盤上から、ただ静かに取り除かれる。ただそれだけのこと。

 意識が、急速に薄れていく。

 最後に脳裏に浮かんだのは、光になって消える直前の、翔の、あの穏やかな笑顔だった。


 ――ごめんな、透。約束、守れそうにないや。


 その声と共に、俺の意識は、完全な「無」に包まれた。


 ***


 チク、タク、チク、タク……。


 規則正しい、秒針の音が聞こえる。

 単調で、どこまでも無機質な音。

 次に感じたのは、鼻腔をくすぐる独特の薬品の匂い。消毒液と、何か植物のような香りが混じり合った、不快ではないが、決して心地よくもない匂い。

 そして、肌を覆う少し硬いシーツの感触と、ぺらぺらの毛布の重み。

 五感が少しずつ、現実の輪郭を取り戻していく。

 俺はゆっくりと目を開けた。

 視界に飛び込んできたのは、見慣れない白い天井。シミ一つない、清潔な天井。邪竜城の、禍々しいレリーフが刻まれた天井ではない。野営の夜に見上げた、星空でもない。

 ここは、どこだ?


 全身に鈍い痛みが走る。まるで、巨大なオークに何度も地面に叩きつけられた後のような、全身の骨が軋む感覚。だが、あの邪竜との死闘で負ったはずの骨が砕けるような鋭い痛みは嘘のように消えていた。

 俺はゆっくりと上半身を起こした。

 自分が、簡素なベッドの上に寝かされていることに気づく。シーツも、枕も、カーテンも、全てが清潔な白で統一されている。

 周囲を見渡す。

 白いカーテンで仕切られた狭い空間。近くには、医療器具が置かれたワゴンや、薬品が並んだガラス棚が見える。

 保健室だ。

 日本のどこにでもある、学校の保健室。

 理解した瞬間、俺の思考は急速に冷凍されていく。


「あら、神谷くん、気がついた?」


 カーテンがさっと開けられる。そこに立っていたのは、白い割烹着のような服を着た、人の良さそうな中年女性だった。確か、この学校の養護教諭である佐藤先生。俺が一年生の頃から、何も変わらない。

「気分はどう? びっくりしたわよ、教室で急に倒れるんだもの。始業式の後、ホームルームの最中だったかしら。貧血かしらね。休み明けの久しぶりの学校で、緊張しちゃったのかもしれないわね」

 彼女は、慣れた手つきで俺の額に触れ、熱を測る。その手のひらの温かさが、ひどく現実離れして感じられた。

 俺は何も答えられなかった。

 教室? 倒れた? 貧血?

 何を言っているんだ、この人は。

 俺は、ついさっきまで異世界で邪竜と戦って、仲間たちと、翔と……。

 そうだ、翔はどうなった? いや、違う。翔は、死んだ。俺の腕の中で、光になって消えた。

 じゃあ、誠一郎さんは? セレスは? レンは?

 あの後、無事だったのか?


「……今日は、何日ですか?」


 ようやく喉から絞り出した声は、自分でも驚くほど掠れていた。

「え? 今日? 今日は、四月八日よ。高校二年生の、最初の始業式の日。あなた、自分のクラス、覚えてる? 二年D組よ」

 しがつ、ようか。

 その言葉が、巨大な鉄槌のように俺の頭を殴りつけた。

 嘘だ。

 俺が異世界に召喚されたのは、三月の下旬だったはずだ。

 あの世界で、俺は仲間たちと何年も旅をした。春も、夏も、秋も、冬も、何度も巡ってきた。戦って、笑って、泣いて、結果として翔を失った。

 なのに。

 この世界ではたった二週間しか、経っていないというのか?

 俺の血と泥にまみれた数年間は、この世界のたった十四日間の出来事だったというのか?

 頭が割れるように痛い。俺の中の常識が、ぐちゃぐちゃに掻き乱されていく。


「……大丈夫? 顔色が、さっきより悪いわよ。真っ青」

 佐藤先生が、心配そうに俺の顔を覗き込む。

 俺は、彼女の目を見ることができなかった。こみ上げてくる吐き気を、必死でこらえる。

 俺は自分の手を見た。

 聖剣を握りしめ、敵を斬り伏せてきた、俺の手。そこには、幾重にも重なった傷跡と、硬い剣ダコがあったはずだ。

 なのに、目の前にある俺の手のひらは、傷一つない、滑らかな皮膚に覆われている。まるで、ペンより重いものを持ったことがないかのような、無力な、ただの高校生の手だ。

 馬鹿な。

 俺はおそるおそる自分の腹部に触れた。ダークエルフの呪剣に貫かれた、あの傷。今でも時折、疼くほどの深手だったはずだ。

 だが、制服のシャツ越しに触れた腹筋は滑らかで、傷跡などどこにもない。

 背中も肩も、全身のどこにもあの戦いの痕跡は綺麗さっぱり消え失せていた。


 この世界は、俺の戦いを、俺たちが生きた証を、俺の身体にさえも、「なかったこと」にしようとしている。

 その事実に気づいた瞬間、血の気が急速に引いていくのを感じた。


「俺は……どれくらい、眠って……?」

 震える声で尋ねた。

「あら、ほんの10分くらいよ。すぐに目を覚ましたから、先生たちも安心していたわ」

 じゅっぷん。

 その、あまりに無慈悲な時の単位が、俺の最後の希望を粉々に打ち砕いた。

 俺の英雄譚の壮絶なエピローグ。親友の死と、仲間たちとの永遠の別れ。その全ては、この世界のたった十分間のただの貧血の発作にすぎなかった。


「……そうですか」

 俺は力なく呟いた。

 もう何も考えられなかった。

 保健室の窓から、グラウンドで体育の授業を受けている生徒たちの楽しそうな声が聞こえてくる。

 その声がまるで、この世の音ではないかのように遠くに、ひどく遠くに聞こえた。

 俺が帰ってきた世界は、あまりにも平和で、あまりにも無慈悲だった。

 俺の失われた数年間も、失った親友の命も、何もかもがこの世界では存在しない。

 その耐え難い事実だけが、色のない現実として俺の目の前に広がっていた。

 佐藤先生が、俺の両親に連絡するために席を外す。

 一人になった保健室で、俺はただ天井のシミを数えていた。

 一つ、二つ、三つ。

 意味のない行為に没頭することで、思考を停止させる。戦場で、極度の緊張を強いられた時によくやっていた精神統一法だ。

 これからどうすればいい?

 家に帰る? あの、俺がいなくなったことで、時が止まってしまった家に?

 学校に通う? この平和な日常を、何事もなかったかのように演じ続ける?

 無理だ。

 俺の心はまだ、翔が消えたあの荒野に置き去りにされたままだ。


 やがて、ドアが開く音がして、息を切らした母さんが、保健室に駆け込んできた。

「透! 大丈夫なの!?」

 その顔は憔悴しきっていた。俺の状態を聞いて、仕事の途中、飛んできたのだろう。

「……大丈夫だよ、母さん。ただの貧血だって」

「でも……!」

 母さんは俺のベッドの横に膝をつき、俺の手を握りしめた。その手は小さく震えていた。

「よかった……本当に、よかった……。二週間も家に帰ってこないから、もう二度とあなたの顔を見られないかと思った……」

 彼女の瞳から、大粒の涙が、いくつも零れ落ちる。

 俺は何も言えなかった。

(2週間?俺が異世界に行っていた間の時間はこちらでは2週間で、こちらにはいなかったことになっているのか?)

 俺が失踪している間、どんな気持ちでいたのだろう。

 ただ彼女の手を、力なく握り返すことしかできなかった。


 その日は母さんと一緒にタクシーで家に帰った。

 見慣れたはずの街並みが、まるで知らない国の風景のように窓の外を流れていく。

 家に帰り、自室のベッドに倒れ込む。

 俺はこれから、この無色の世界でどうやって生きていけばいいのだろう。

 答えはどこにもなかった。


 地獄とはきっと、こういう場所のことを言うのだろう。


 翌日、俺は再び制服に袖を通していた。

 学校へ行かなければならない。

 行きたくないという感情はなかった。あるのはただ、そうしなければならないという、任務を遂行する兵士のような義務感だけだ。

 母さんは、今日も仕事だと言って俺よりも早く家を出て行った。昨日の今日で、無理をしているのは明らかだった。食卓の上には、完璧に用意された朝食と、「残さず食べてね」という、丸文字のメモが置かれていた。

 俺はその朝食を味わわずに胃に詰め込んだ。

 唯はリビングに降りてこなかった。昨日のまでの件で、どう接していいのか、わからなくなっているのだろう。あるいは、俺という存在そのものに、恐怖を感じているのかもしれない。

 静かすぎる家で、俺は一人、家を出た。

 四月九日。快晴。

 その、あまりに完璧な青空が、俺の心をより一層重くした。


 学校へ向かう道すがら、俺は昨日タクシーの窓から眺めたのとは違う、もっと解像度の高い「日常」を目の当たりにしていた。

 学校という檻から解放されたはずなのに、今度は、街そのものが、巨大な檻のように感じられた。

 駅前の商店街。

 クレープ屋から漂ってくる、甘ったるい匂い。異世界では甘味など、希少なハチミツか、偶然見つけた果物くらいしか口にできなかった。この匂いは、平和の象徴のはずなのに、今の俺には感覚を鈍らせる毒のように感じられる。

 ゲームセンターから漏れ聞こえてくる、けたたましい電子音。それは、戦場で聞いた、仲間の悲鳴や敵の咆哮を不意に思い出させた。

 俺はまるで夢遊病者のように、光と音の洪水の中へと、吸い寄せられていった。

 薄暗い空間に、無数のゲーム筐体の光が明滅している。格闘ゲームのコーナーで、同じ制服を着た男子生徒二人が、熱狂しながらアーケードコントローラーを操作していた。

「よし、そこだ!新コンボ !」

「させっかよ! コマンドが遅ぇんだよ!」

 画面の中では、精巧な技術で作られたキャラクターたちが、人間離れした技を繰り出し合っている。だが俺の目には、その全てがただの児戯にしか映らなかった。

 隙だらけだ。

 大振りの必殺技を繰り出す前の予備動作が大きすぎる。現実の戦闘なら、そのモーションに入った瞬間に、首を刎ねられている。ガードを固めているが、下段への意識が疎かだ。そもそも、相手との距離の取り方がなっていない。あれでは、熟練のゴブリン相手にさえ三十秒と保たないだろう。

 脳裏に誠一郎さんとの血の気の多い剣の稽古が蘇る。

『いいか、透。剣ってのはな、ただの鉄の棒だ。それに意味を与えんのは、握る人間の覚悟だけだ。自分の恐怖も、相手の恐怖も、自分の物にした方が方が勝つ。画面の向こうの、安全な場所でボタンを叩いてるだけのガキには、一生わからねえことだ』

 隻腕で、俺よりも巨大な大剣を軽々と振るっていたあの人の背中。その言葉の重みが、今になってずしりと心に響いた。


 ゲームセンターを出て、再び歩き出す。

 今度は、書店の大きな看板が目に入った。平積みにされた新刊コーナーには、俺が自室で見つけたファンタジー小説『勘違い英雄の冒険譚』の、最新刊が並べられていた。その派手なポスターには、「伝説の英雄、再び! 今度の敵は、この世の悪魔!」という、勇ましいキャッチコピーが踊っている。

 勇者。

 その言葉の、なんと軽々しいことか。

 俺がいた世界で、英雄とは希望の象徴であると同時に、絶望の生贄でもあった。世界を救うというあまりにも重すぎる宿命を背負わされ、仲間たちの死体を乗り越え、それでも前を向いて剣を振りい続けなければならない、呪われた存在。

 この物語の主人公はきっとそんな泥臭い現実など知る由もないのだろう。聖剣を掲げれば奇跡が起き、仲間を信じれば道は開ける。そんなご都合主義の世界で彼は戦っている。

 本当の英雄とはそんなものではない。

 本当の英雄とは、病気の村人のためにプライドを捨てて、敵国の商人から薬を盗んできたレンのような男だ。

 本当の英雄とは、呪われた大地を浄化するために自らの命を削り、何日も詠唱を続けたセレスのような女だ。

 そして、本当の英雄とは、俺たち全員を生かすために、たった一人でその魂を燃やし尽くして死んでいった翔のような男のことを言うのだ。

 俺はポスターに描かれた綺麗すぎる勇者の顔を冷たい目で見つめた。

 羨ましい、とは思わなかった。ただひどく、空虚な気持ちになった。


 商店街のアーケードを抜ける。

 その出口のすぐそばに、その店はあった。

 『中華そば 樋口』。

 古びた赤いのれんが、煤けた店構えに不釣り合いなほど鮮やかに揺れている。ガラス戸越しに見える店内は、カウンター席だけの狭い空間だ。

 豚骨とニンニクの食欲を刺激する匂いが、俺の足を止めた。

 この店は、俺と翔が中学の頃から通っていた行きつけの店だった。


 ――夕日が俺たちの影を長く伸ばすまで、そんな馬鹿話で笑い合っていた。

 蝉の声が降り注ぐ、中学二年生の夏の日。二人で近くの河原の土手に寝転がって、ぬるくなった缶ジュースを飲みながら、当時流行っていた漫画の話をしていた。主人公が、死んだ仲間を引きずって前に進めなくなる、そんな話だった。

『俺、ああいうのって好きじゃないんだよな』

 翔は、入道雲が浮かぶ空を見上げながら言った。

『死んだ奴はもういねえんだから、残された奴は、そいつの分まで笑って生きなきゃ嘘だろ』

『……まあ、理屈ではそうだけどさ。そんな簡単に割り切れねえだろ、普通』

『だよな。でも、俺はそうしたいんだよ。もし俺が先に死んだら、透には、俺の分まで、馬鹿みたいに笑っててほしい』

『……縁起でもないこと言うなよ』

『だから約束な、透。もし俺が先に死んだら、お前、俺の葬式で大爆笑しろよ。最後までダセェ親友だったぜって、弔辞で読んでくれ』

『馬鹿言え。逆だよ。もしお前が死んだら、俺は泣いてやる。これでもかってくらい泣いて、お前の家のラーメン、大盛りで食ってやる。お前のオフクロに、こいつの代わりに俺が親孝行しますって言って、ドン引きさせてやる』

『ははっ、なんだよそれ! 俺ん家のラーメンじゃなくて、駅前のまずいラーメン屋だろ、そこは!』

『ああ、そうだったな。じゃあ、満来のラーメン、チャーシューマシシで食ってやるよ』

『それだ!』


 くだらない、子供じみた約束。

 その約束を、俺は何一つ守れそうにない。

 俺は店の前にただ立ち尽くした。のれんをくぐれば、あの頃と同じように、無愛想な親父が「へい、いらっしゃい」と、ぶっきらぼうに迎えてくれるだろう。

 だが、俺の隣にはもう、あいつはいない。

 一人でこの店のカウンターに座る。

 一人であの頃と同じラーメンをすする。

 そんなこと、できるはずがなかった。それは、翔の死を俺自身の手で、何度も何度も確認するような、残酷な行動に他ならない。

 俺はラーメン屋に背を向け、再び歩き出した。

 翔と飯を食べることは、これから永遠に果たされることはない。


 駅前の喧騒を抜け、住宅街へと入る。

 車の音も、人の声も少なくなり、世界は急に静かになった。

 だがこの静寂は、俺が慣れ親しんだ森の夜の静けさとは違う。あの静寂の中には、生命の気配があった。風の音、虫の声、そして闇に潜む敵の息遣い。

 だが、この住宅街の静けさは空虚なだけ。生命の気配が希薄なのだ。

 俺は歩道脇に停まっていた黒塗りの高級車の横を通り過ぎた。磨き上げられた車体が、鏡のように俺の姿を映し出す。

 俺は思わず足を止めた。

 そこに映っているのは、見知らぬ少年だった。

 真新しい制服に身を包み、学生カバンを肩にかけ、どこか頼りなげな平凡な顔立ちをした、ただの高校二年生。

 違う。

 これは俺じゃない。

 俺はこんな顔をしていない。俺の顔には、もっと疲労と絶望、幾多の死線を越えてきた戦士の覚悟が刻まれているはずだ。頬にはゴブリンキングに斬りつけられた浅いくも、決して消えることのない傷があったはずだ。

 俺は恐る恐る、自分の頬に触れた。

 そこにあるのは、滑らかで傷一つない、子供の肌。

 誰だお前は。

 俺は鏡の中の自分を睨みつけた。

 鏡の中の少年も俺を睨み返してくる。その瞳の奥にだけ、俺が知っているあの深い闇の色が確かに宿っていた。

 俺の魂は、この平凡な少年の肉体に無理やり押し込められた囚人なのだ。

 その耐え難い事実に、吐き気がした。


 どれくらい歩いただろうか。

 結局、今日は現実に戻ってきた実感がなく、高校へ行かなかった。

 やがて、見慣れた自分の家の門が、視界に入ってきた。

 二階建ての、ありふれた一軒家。庭には母さんが趣味で育てている花が、季節外れに咲き誇っている。

 俺の家。

 帰るべき、場所。

 俺は門の前で立ち尽くした。

 ポケットの中の鍵の感触を確かめる。冷たい金属の感触。

 鍵を開ける。

 たったそれだけのことが、邪竜城の分厚い城門を破るより、はるかに困難なことのように思えた。


 ガチャリ、という、小さな、しかし決定的な音が響く。

 俺は、逃げ出したい衝動を必死にこらえながら、自宅の玄関のドアを開けた。

 ひんやりとした、静かな空気が俺を出迎える。

「……ただいま」

 誰にともなく、掠れた声で呟く。

 もちろん返事はない。この時間に家にいるのは俺一人だ。

 靴を脱ぎ、廊下を歩く。自分の足音がやけに大きく響いた。

 リビングのドアを開ける。

 そこには、完璧に整頓された空間が広がっていた。ソファのクッションは綺麗に並べられ、テーブルの上には埃一つない。まるで、誰も住んでいないモデルルームのようだ。俺がいた頃は、もっと雑然としていたはずなのに。ソファには、父さんが脱ぎっぱなしにしたであろう上着が投げ出され、テーブルの上には、唯が読み散らかした雑誌が置かれている。それが、俺の知っている神谷家のリビングだった。

 この完璧すぎる清潔さは、この家の住人が心を病んでいることの、何よりの証拠だった。何か一つのことに没頭しなければ、不安で押しつぶされてしまいそうな、そんな精神状態。きっと母さんだろう。俺がいなくなった後、彼女は、来る日も来る日も、この家を磨き続けていたのかもしれない。息子の不在という、決して消すことのできない汚れから、目を逸らすために。


 壁際の飾り棚に、家族写真が置かれているのが見えた。

 高校の入学式の時の、写真。少しぶかぶかの制服を着て、照れ臭そうに笑う、一年前の俺。その隣で、満面の笑みを浮かべる両親と、まだ小学生の面影が残る唯。

 俺は、その写真に近づくことができなかった。

 そこに写っている少年は、確かに俺のはずなのに、全くの別人に見える。こんな風に、屈託なく笑う方法を、俺はもう、思い出せない。

 今の俺がこの写真の中に紛れ込んだら、きっとこの家族の笑顔を、永遠に奪ってしまうだろう。

 俺はリビングに背を向け、逃げるように階段を上った。


 二階の一番奥。俺の部屋。

 ドアノブに手をかける。ひんやりとした、金属の感触。

 ゆっくりと、ドアを開けた。

 ――そこは、時が止まっていたようだった。

 二週間前の終業式の日、俺が家を出た時と寸分違わぬ光景がそこには広がっていた。

 ベッドは少し乱れたまま。机の上には教科書とノートが広げられたまま。壁のポスターも、本棚の漫画も、何もかもが俺の帰りをずっと待っていたかのようだった。

 俺は、まるで他人の遺跡に足を踏み入れる探検家のように、おそるおそる自室へと一歩、足を踏み入れた。


 椅子を引いて、腰を下ろす。高校生の身体に合わせて作られたはずなのに、今の俺には少し窮屈に感じられた。

 机の上の数学の教科書。そこには、俺が解きかけていたであろう二次関数の問題が並んでいる。

 くだらない、と思った。

 俺が解いてきたのは、こんな紙の上の問題ではない。古代遺跡の、死のトラップを解除するための、神代のルーン文字。敵の魔法陣の詠唱の隙と、術式の弱点。味方が全滅するか、生き残るか。その答えをコンマ数秒で導き出す、本物の「問題」だ。

 それに比べれば、この数式は、なんと平和で、意味のない遊びだろうか。


 椅子から立ち上がり、鏡の前に立つ。

 そこに映っているのは、制服を着た平凡な高校生。保健室で見た時と同じ、見知らぬ少年。

 俺はゆっくりと、制服のボタンに手をかけた。一つ、また一つと外していく。

 シャツを脱ぎ捨て、上半身を露わにする。

 そこには顔には無かったものがあった。

 この世界が、俺の身体から消し去ることができなかった、唯一の「証拠」。

 無数の古傷。


 左肩には、ワイバーンの爪による三本の引き攣れた痕。空を飛ぶ敵との初戦闘で、俺の判断ミスからパーティーを危険に晒した。翔の【共鳴鼓舞】で強化された誠一郎さんが、その剛腕でワイバーンの首を刎ね飛ばさなければ、俺の左腕は今ここにはなかっただろう。

 腹部には、ダークエルフの呪剣によって受けた今も時折疼く古傷。レンが敵のトラップに気づき、俺を突き飛ばしてくれなければ、心臓を貫かれていただろう。

 そして背中には、悪魔デーモンの奇襲からセレスを庇った際に負った、広範囲の火傷の痕。彼女の防御魔法が間に合わず、俺の背中を地獄の炎が舐めた。その痛みよりも、俺を治療しながら、自分のせいだと涙を流していた彼女の姿の方がよほど心に痛かった。


 これだ。

 これこそが俺、神谷透であり、ただの神谷透ではないことの絶対的な証明だった。

 俺の英雄譚は夢じゃない。

 仲間たちと過ごした日々は、現実だった。

 翔の死も、現実だった。

 その事実が、安堵とより深い絶望となって、俺の全身を貫いた。


 疲れがどっと押し寄せてきた。

 俺はベッドに倒れ込むように身を投げ出した。

 ギシリ、とスプリングが大きく軋む。

 俺はこのベッドに、まるで異物のように横たわっていた。この部屋は、このベッドは、昔の「神谷透」という、もう存在しない少年のものだ。俺はその抜け殻に宿った、名もなき亡霊にすぎない。

 目を閉じる。

 眠りは、訪れない。

 瞼の裏に浮かぶのは、異世界の血と炎に彩られた風景ばかり。

 窓の外から、子供たちの甲高い笑い声が聞こえてくる。近所の公園で、遊んでいるのだろう。

 平和な日常の音。

 俺が命がけで守りたかったはずの音。

 だが、その音は今の俺の心には少しも届かない。むしろ、その平和さそのものが、俺の孤独をより一層際立たせるだけだった。


 やがて太陽が傾き、部屋がオレンジ色の夕日に染められていく。

 俺はただ横たわったまま、時間が過ぎるのを待っていた。

 これから始まることのために。偽りの食卓。偽りの日常。偽りの家族。

 その全てを、俺は演じきらなければならない。


 その時だった。

 静寂を破り、ポケットに入れていたスマートフォンが、ブブッ、と短く震えた。

 俺は億劫に思いながら取り出す。電源を切るのを忘れていたらしい。

 画面にはメッセージアプリの通知が表示されていた。

 知らないグループチャットへの招待。グループ名は、「2年D組クラスライン」。

 誰かが、俺を勝手に追加したのだろう。

 どうでもいい、と思った。無視して電源を切ろうとした、その瞬間。

 新しいメッセージが、ポップアップで表示された。


佐伯 瑠美:『白川さんから聞きました!神谷くん、今日大丈夫だった?心配してたんだよー!』


 その、無邪気で善意に満ちた文章。

 それを見た瞬間、俺の右目が灼けるような熱を持った。

 俺の意思とは無関係に、【神眼の鑑定】が、スマートフォンの画面に表示されたそのテキストの上に、無慈悲な真実を映し出す。


【状態:偽善、探り、マーキング】


 静かだったはずの俺の聖域への、あまりにも突然の侵入者だった。

 俺が戦うべき戦場は、もう異世界にはない。

 しかし、俺の新しい戦いが、この小さな四角い画面の中からすでに始まっていたのだ。


 階下で、ガチャリ、と玄関のドアが開く音がした。

「ただいまー」

 母さんの声だ。

 俺はゆっくりと重い身体を起こした。

 ああ、帰ってきてしまった。

 俺の戦場に役者たちが。


 リビングに降りていくと、すでに母さんがエプロン姿でキッチンに立っていた。俺の姿を認めると、一瞬びくりと肩を震わせた後、慌てて笑顔を作った。

「あら、透。起きてたのね。お腹、すいてるでしょ? もう少しで晩御飯できるから、座っていて」

「……手伝うよ」

「いいのいいの! あなたはゆっくりしていればいいの。座ってなさい」

 その言葉がチクリと胸を刺す。俺は何も言い返さず、黙って食卓の椅子に座った。

 やがて唯が、そして父さんが帰ってきた。

 食卓に神谷家の四人が揃う。一年ぶりの光景。

 だがそこに、かつてのような和やかな空気は微塵もなかった。

 テレビの音だけが、気まずい沈黙を埋めるように虚しく響いている。


「「「いただきます」」」


 三つの声が重なる。俺は少しだけ遅れて、誰にも聞こえないような声で同じ言葉を呟いた。

 今日の夕食は肉じゃがだった。母さんの得意料理。俺が一番好きだったおかず。

 じゃがいもは、煮崩れる寸前の絶妙な柔らかさ。人参には味がこれでもかというほど染み込んでいる。美味いはずだ。

 なのに味がしない。

 心が、この完璧な日常を、この完璧な優しさを、拒絶している。


「兄ちゃん、学校、どうだった……? その、大丈夫だった?」

 沈黙を破ったのは、唯だった。

 母さんの箸が、ぴたりと止まる。父さんの、ご飯を食べる音も聞こえなくなった。食卓の空気が、一瞬で凍り付く。

「……別に。どうもしない」

「そ、そっか。……友達とか、できた?」

「さあな」

「……」

 会話が続かない。俺が壁を作っているからだ。

 わかっている。彼らは心配してくれている。俺のことを理解しようと、必死になっている。

 だが無理だ。

 俺が経験したことを、彼らに理解することはできない。そして、俺もまた、平和だった昔のようには振る舞えない。

 俺たち家族の間には、もう決して埋めることのできない溝が、横たわっていた。


「透」

 それまで黙っていた父さんが、重々しく口を開いた。

「来週、時間はあるか。カウンセリングの予約を取っておいた」

「……必要ない」

 俺は即答していた。

「必要ない、じゃないだろう! お前が普通じゃないことくらい、見ればわかる! 俺たちがどれだけ心配してるか……!」

「父さん、やめて!」

 声を荒らげた父さんを、母さんが制止する。

 食卓の空気は最悪だった。

 俺のせいだ。俺が帰ってきたから。俺という異物が、この家族の保たれていた平和を、ぶち壊してしまった。


「……ごちそうさま」

 俺はほとんど手をつけていない肉じゃがの皿を置き、席を立った。

「透! まだ話は……!」

 父さんの声を無視して、俺はリビングを出る。

 階段を駆け上がり、自室に逃げ込むように入り、ドアに鍵をかけた。

 ベッドに倒れ込み、顔を枕に押し付ける。

 息が苦しい。

 戦場の方が、よほどマシだった。

 そこにはこんな、優しさの仮面を被った地獄はなかったからだ。


 その夜、俺は一睡もできなかった。

 翌朝、腫れぼったい目でリビングに降りると、食卓には、昨日と全く同じように、完璧な朝食が用意されていた。

 俺たちの戦いは、まだ、始まったばかりらしい。



 四月十日。快晴。

 その、あまりに完璧な青空が、俺の心をより一層重くした。

 学校へと向かう足取りは、まるで処刑台へと向かう罪人のようだった。

 始業式。二年D組。

 俺は教室の最後列、窓際の席で気配を殺していた。

 教室の中心では、白川琴音が完璧な笑顔を振りまいている。

 俺は彼女を見ないように、ただ窓の外を眺めていた。

 関わってはいけない。俺が関われば、きっと、ろくなことにはならない。

 そう、決めていたはずだった。


 ホームルームが終わり、教科書の配布が始まった。

 一人の男子生徒が、教科書の山を、派手にぶちまけた。

 昨日と違うのは、その男子生徒が、俺のすぐ前の席だったことだ。

 散らばった教科書が、俺の足元にまで転がってくる。

 俺は、ため息をつきながら、それを拾い上げた。

 そして、顔を上げた瞬間、視線が、かち合った。

 白川琴音。

 彼女が、昨日と全く同じように、助けに駆けつけ、俺の目の前で、屈み込んでいた。


「神谷くん、ありがとう」

 彼女は、俺から教科書を受け取りながら、完璧な、一点の曇りもない笑顔を、俺に向けてきた。

 その瞬間だった。

 俺の右目が、ズクリと、灼けるような熱を持った。

 やめろ。

 やめてくれ。

 もう見たくない。

 俺の意思とは無関係に、【神眼の鑑定】が、発動する。

 視界の端がノイズを帯び、世界から色が抜け落ちていく。

 そして、俺の目にだけ見える無慈悲な真実ステータスが、彼女の上に淡い光の文字となって浮かび上がった。


【名前】白川 琴音

【称号】偽りの天使

【状態】ストレス(極大)、精神疲労、自己嫌悪

【ストレス値】95/100


 ――息が、止まった。

 心臓が、鷲掴みにされたかのように軋む。

 目の前で完璧な笑顔を浮かべている少女のステータス。そこに表示された、あまりにもおぞましい数値。

 それは、魂が限界まで悲鳴を上げている証。

 何よりも、俺の記憶の最も深い場所に刻まれた、あの最悪の数字を思い出させた。


【名前】結城 翔

【状態】精神高負荷、魂摩耗


 救えなかった親友が、死の間際に見せていた、絶望のステータス。

 白川琴音の、あの完璧な笑顔の裏で、今、同じことが起きようとしている。

 俺の耳元で、死んだはずの親友の声が、はっきりと聞こえた。


 ――透、今度こそ、ちゃんと救えよ。


 退屈だったはずの教室が、一瞬で俺だけの戦場に変わった。

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