第5話 一夜の盃
書記局の閲覧印が下りるまで一日。
王国近衛第七騎士団の客人として城内の宿舎も提案されたが、グレイとリセルはあえて城下の宿屋を選んだ。表向きは「副長である息子に会いに来た、引退した老夫婦」。その体裁を保つには、街の空気に紛れたほうがいい。
夕暮れ、木製の招き看板が揺れるたび、煮込みと麦酒の香りが通りへこぼれる。
宿屋「銀の麦穂」の酒場は、仕事帰りの職人たちや商人でほどよく賑わっていた。長卓を押しやり、空き樽を椅子代わりにして、四人は腰を下ろした。ラグナーは鎧の肩章を外し、エルンストはマントを畳んで壁に立て掛ける。
「まずは再会に」
エルンストが木杯を掲げる。
「それと、書類の山から解放された一夜に」
杯が触れ合い、乾いた音が重なった。苦味の立つ黒麦酒が喉を滑り落ちる。リセルは口を湿らせるだけで、グレイは二杯目を静かに注いだ。
「こうして酒場で盃を重ねるのも、ずいぶん久しぶりだな」
グレイが視線を巡らす。
リセルが懐かしそうに笑う。
「任務の最中でも、こうして夜更けまで飲んだものね」
エルンストの口元が緩む。
「覚えてますか、あの飲み比べ大会。騎士と魔術師が入り乱れて、誰が最後まで立っていられるかってやつ」
リセルは肩をすくめた。
「ええ。あなたも参加していたでしょう?」
当時の酒場は、今日よりずっと薄暗く、歌声は少々荒っぽかった。
騎士たちは度数の強い蒸留酒を、魔術師たちは香草を漬けた透明酒を。
普段は水と油の二つの群れが、珍しく同じテーブルで肩を並べ、見事に張り合った。
最後に残ったのは、騎士方のグレイと、魔術師方のリセル。
静かな火花が散るように、杯が満ち、空になり、また満ちた。
「……結論だけ言うと、私が勝ったの」
リセルが涼しい顔で言うと、グレイが小さく咳払いをした。
「反則気味に、だがな」
「“少しだけ”温度調整をしただけ。氷の魔法で喉の熱を鈍らせたの。誰にも迷惑はかけてないわ」
「その結果、俺は昏倒した」
エルンストは豪快に笑った。
「その時のグレイ殿の顔といったら! 最後の一口が喉を通らず、机に突っ伏して……」
「介抱したのは私。……魔法を使ったことは謝ったわ。正々堂々とは言えなかったから」
リセルは杯の底を見つめ、淡く笑う。
「それで二人の仲が進んだ、というのが“世に言うところ”なんですよね」
エルンストが肩を揺すって笑い、ラグナーがむず痒そうにうつむいた。
「真偽は……さて、どうだったかな」
グレイの言葉は相変わらず短い。だが、その目尻の皺は柔らかい記憶を語っていた。
軽口が一巡し、揚げたての川魚と煮込みが卓に並ぶ。
店の奥からは吟遊詩人の弦が鳴り、客の合いの手が飛ぶ。
ラグナーが料理を取り分けたところで、エルンストがわざとらしく大仰な咳払いをする。
「ところで副長どの。ラグナー。……そろそろ身を固める気は?」
ラグナーの手がわずかに止まる。
「英雄のご子息、近衛部隊の副長ともなれば貴族からの申し出は数知れず、ってな話を聞くが」
エルンストはにやりとし、グレイに目配せする。
グレイは視線を杯に落としたまま、言葉を飲み込むように沈黙する。
リセルが穏やかに言葉を添えた。
「選ぶのは本人よ」
ラグナーは一度だけ深く息を吐いた。
「今は務めが最優先です。なので申し出は丁重に、お断りしています」
「心に決めた者がいるのか?」
「……いない、と言えば嘘になるのかもしれませんが、いないとも言えます」
言葉を選ぶ息子に、グレイは救い舟を出すように顔を上げ、エルンストへ水を向けた。
「エル。宴会の“芸”をやれ」
「げ、芸?」
「俺たちは表向き、ただの引退した老夫婦だ。盛り上がっていないと怪しまれる。……昔、酒場で毎日のようにやっていた見せ物があるだろう」
理屈をつけられては、エルンストも逃げ場がない。
「ええい、ままよ」
彼は空き樽の上にひらりと乗ると、膝を曲げ、胸の前で両手を組んだ。
深呼吸ひとつ。
次の瞬間、彼の顔の筋肉が奇妙な速度で躍り、片目は眉の上へ、口角は耳へ、鼻は鳩のように膨らんだ。
瞬きするうちにその表情が連打され、曲芸のように連続で切り替わっていく。
続けて、掌で空の木杯を挟んで回転させ、踵で卓の端を叩いてリズムを刻む。
最後に腹から声を出し、吟遊詩人の節回しを真似て“今日の煮込みの材料”を韻で並べた。
どっと笑いが起き、口笛が飛ぶ。
店主の女房まで手を叩いて笑い、次の一杯をおまけした。
エルンストは額の汗を拭い、樽から跳び下りて「どうだ」と胸を張る。
「相変わらずだ」
グレイが短く評し、リセルは指先で拍手をした。
「昔より、間の取り方が上手になったわ。貫禄ね」
「……では、失った貫禄の半分は回復しましたか?」
「四分の一はね」
四人の笑い声に、酒場全体がつられて明るくなる。
だが、その喧騒の端で、ひっそりと盃を傾ける一団があった。
若い兵士が三人、角卓に背を寄せ合い、酒は進んでおらず、視線だけがさりげなく四人の卓へ滑る。
彼らの肩章は外されている。靴の汚れは薄く均され、腰の剣は目立たぬよう布でくるまれている。
(ラグナーの部下だな)とグレイは一瞥で見抜いたが、顔には出さない。
ここで気づかぬふりをしておくのが、今夜の“芝居”の正解だ。
卓に湯気が立つ。
煮込みの芋はほろりと崩れ、川魚の香草焼きは皮がぱりりと鳴る。
ラグナーがようやく笑顔を戻し、己の杯を掲げた。
「……父上、母上。今日は、ありがとうございました」
「礼を言うのは明日以降だ」
グレイは杯を軽く当てる。
「閲覧印が下りたら、すぐ走ることになる」
「ええ。王都に長居は無用」
リセルは扉の向こうを見た。通りから冷たい夜風が流れ込み、ランプの炎が小さく揺れる。
ふと、空気の層に微かなさざめきが立つのを、彼女は額の奥で感じた。
――誰かが、形を持たない羽で、酒場の天井を撫でている。
伝書の使い魔か、あるいはもう少し厄介な眼か。
彼女は杯を唇に運び、何も言わずに喉を湿らせた。
「そういえば」
エルンストが唐突に声を上げ、場の空気を軽く変える。
「ウル=リムの谷に入るなら、荷は軽く、足は速く。……昔、リセル殿に教わった通りで良いですか」
「変える理由はないわ。森はいつだって、余計な荷から先に奪っていく」
リセルの目は細い微笑みをたたえ、その奥に冷たい光を宿している。
「ただ、今回は“声”を持たないものが相手かもしれない。足跡も、熱も、匂いも、あとから消せる手──人の手、ね」
ラグナーが頷く。
「先遣の装備表は明朝、帳場から回します。母上が求めていた帳簿一式も、書記局の印が下り次第」
「頼む」
グレイは短く応じ、席を立った。
「そろそろ休む。……飲みすぎるな」
「父上に言われたくは」
ラグナーが言いかけ、笑って飲み込む。
リセルは椅子から立ち上がると、卓の影でエルンストの肩を軽く叩いた。
「明日は“貫禄”を全開でね」
「承知しました。今はまだ、鞘に仕舞っておきます」
店を出ると、夜はもう深かった。
王都の石畳はランプの光を鈍く返し、遠くで巡回の槍柄が鳴る。
背後の酒場からは、まだ笑い声と歌が漏れている。
その音の向こうで、先ほどの若い兵士たちもそっと立ち上がった。
彼らは金を卓に置き、帽子を目深に被ると、別々の出口から夜へ散っていく。
明かりに照らされない路地で、一人が短く口笛を吹いた。応える口笛が遠くで返り、すぐに消えた。