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第1話 野兎とリーフパイ

 森を抜ける風が、熟れすぎた果実の香りを運んでくる。グレイはその香りを頼りに、草むらに身をかがめた。

 狙いは、丸々と太った野兎。背を低くし、草の揺れと風向きを読みながら、じり、と一歩踏み出す。


「……そこだ」


 鋭く放たれた投げ槍が、野兎の背をとらえる。軽く息を吐くと、グレイは草むらに分け入って倒れた獲物を拾い上げた。肉付きもよく、毛並みも悪くない。今日の晩餐には充分すぎる。


「……さて、帰るか」


 手慣れた動作で槍を背負い、グレイは小さな山小屋へと戻っていく。もう十年以上も冒険から離れていたが、こうした狩りだけは身体が覚えている。




 屋根からわずかに立ち上る煙を見ながら、リセルは囲炉裏の火加減を調整していた。

 庭に植えたローズマリーとセージの香りが窓辺に流れ込み、湯気の立つ鍋に重なる。


「野兎ね。前脚と腰肉が使えるわ」


 グレイが扉を開けるよりも先に、リセルは静かにそう言った。現れたのは、絹のような黒髪を揺らす美しい女で、見た目はどう見ても二十代半ば。だがその口ぶりは、どうにもこうにも、長年連れ添った妻のそれだった。


 魔法使いとしての勘——いや、経験と魔力を用いた感知魔術は、いまや彼女の日常の一部だった。夫がどの方向で何を仕留めたか、だいたいの帰宅時刻まで、頭の中に整理されて描かれている。


「ただいま」


 言葉はそれだけ。グレイはいつものように余計なことは言わず、野兎を袋から取り出して見せる。


「想像通り。ちょっと痩せてるけど、煮込めば悪くない」


 リセルは獲物を受け取りながら、わずかに口元をほころばせた。


「毛皮は捨てずに干しておいて。ラグナーの冬用の靴底に貼るかもしれない」


 落ち着いた声と手際のよさは、若々しい外見とは裏腹に、年輪を感じさせるものだった。

 グレイは頷くだけで、それ以上の返事はしなかった。


 


「……今日はあの子たちから便りが来てたわよ」


 リセルは手を動かしながら、ぽつりと口を開いた。


 長男ラグナーは、王国の近衛騎士団で副長を務めている。父に似て無口で真面目だが、やや融通が利かないのが玉に瑕だ。

 長女のリリィは街から街へ、吟遊詩人の一座とともに旅している。毎度ろくでもない話ばかり寄こしてくるが、どこか憎めない。

 そして次女のアイラは、王立大学で魔法史を教える講師となった。学者肌で理屈っぽく、文章は三人の中でもっとも長い。


「三人とも勝手に巣立って、勝手に忙しそうにしてるけど」


 リセルは手紙の束を棚に戻しながら、少しだけ目を細めた。


「寂しいとは言わないけど、静かすぎるのも考えものね」


「……なら、俺がもう少し騒がしくしようか」


 グレイがぼそりと返すと、リセルは振り向きもせずにくすっと笑った。


「冗談。あなた、もともと口数が少ないのに、近頃は減る一方よ」


 


 鍋の蓋を開け、リセルは煮込み具合を確認する。

 獲物の肉が白く柔らかくなり、根菜の甘い香りが部屋を満たしていた。


「リーフが余ってたから、パイにしたわ。……あなたの好物だし」


 そっけなさがありつつも、声は温かく響く。


「ありがたい」


 グレイは椅子に腰掛けて囲炉裏の火を見つめていた。

 静寂が、心地よく二人の間を流れる。


 


 ふと、リセルの指が止まる。窓の外、遠くの丘の向こうで、光る何かが近づいていた。


「……来たわね」


 視線を動かさず、リセルが呟いた。


「また王都からか」


「ええ。今度は、ただの挨拶じゃなさそう」


 遠目にも馬を飛ばす急使の姿が見える。風を裂くように一直線に走るその動きに、緊迫の気配があった。


「鍋を火から下ろしておいて。吹きこぼれるから」


 リセルは静かに言った。


「それから、剣は磨いておいた方が……」


「昨日、砥いだばかりだ」


「さすがね」


 言葉のやり取りの中には、互いにしか伝わらない“備え”の感覚があった。


 


 やがて馬の足音が、土を叩く確かな振動として届き始める。


 小屋の前に馬が止まり、若い騎士風の男が飛び降りて一礼した。

 息を切らせたまま、彼は胸元から封蝋の施された巻物を取り出す。


「レオニス・アルグレイ殿、セリス・ヴァルティア殿。王都よりの至急の書状をお届けに参りました」


「ご苦労さま。中に入って。……冷たい水と、まだ温かいリーフパイがあるわ」


 リセルがそう言うと、若い使者は少し驚いた顔で、軽くうなずいた。


「はっ……恐縮です」


 


 グレイは巻物を受け取ると、火のそばに戻り、黙って封を割った。


 リセルが座に戻りながら尋ねる。


「王都で何かあったの?」


 グレイは巻物を読み進める。眉は動かず、声もない。


「……王宮近衛の補佐役が失踪。西の国境付近……魔導の痕あり」


「その件に、私たちが関与を?」


「“再び、貴殿らの力を求む”……だと」


 


 リセルは椅子に深く腰を下ろし、脚を組んだ。

 囲炉裏の火が静かに揺れ、鍋の中でハーブと根菜が再び煮え立つ音がする。


「いいのかしら、私たちなんかに。引退は十年も前よ。今さら、英雄気取りなんてごめんだけど」


「ただ、やるか、やらないかだ」


 グレイの目は、火の奥にある何かを見つめているようだった。


 しばらくの沈黙ののち、リセルが立ち上がる。


「じゃあ、私は荷造りするわ。……三日分の着替えと、あとは野営用の布。それと保存食はもう用意してあるの」


「やけに準備がいいな」


「あなたが帰ってくる前に、もう見えてたのよ。野兎の影も、あの伝令も」


 リセルは微笑む。どこか誇らしげに。


「私、魔法使いですもの」


 その言葉に、グレイはごくわずかに口元を緩めた。


 静かな老後は、今日で終わる。

 だが、かつて世界を救ったこの老夫婦には、まだ心に剣がある。

 ふたたび背を預け合う旅が、今、始まろうとしていた。


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