9. 夜半
着替えもせずに後について行き、母の部屋に入った。
すでに先ほどまでの気分は霧散している。
かけられた声色から察するに、母の機嫌はよくない。
部屋に入ると、母は机の後ろに座った。
机の上には書きかけの招待状などが綺麗に置かれている。女主人として、家の仕事の途中だったのだろう。自分の帰りを待っていたらしい。
部屋には甘ったるい香りが漂う。
いつだったか、父が好きな香りなんだと聞いたことがあった。アデルの好きな香りではないけれども。
「アデル、最近のあなたはどうなっているの」
「どうって……?」
母の座る席の前で立ち、棘のある声でそのように問われると、まるで詰問されているようだった。
返答に困るアデルに、母は苛立ちを隠さない。
「今夜はどうだったの」
「今夜は……、あ、イザベル夫人と同じテーブルだったので一緒にお話しして楽しかったわ。お食事も美味しかったし」
「そうではありません」
母がぴしゃりと遮る。
「結婚相手のことよ。フランシス様はそれなりの家格の方を紹介してくれるかと思っていたけれど、ちっともそんなことないじゃないの」
「まあ……、留学からお戻りになられたばかりだし……」
「そもそもあの方、評価が高いわけではないわよ、公務もされていないし。あなた、王弟殿下と親しくなっていい気分なのかもしれないけど、あの方、周りから面白がられているだけで尊敬されているわけではありませんからね」
「なっ!!」
カッとなって言い返そうとしたら、母が神経質そうに机を爪で叩いた。苛立ったときの母の癖だ。
さらに母の大きなため息を聞いて、アデルは身体が動かなくなった。
「はあ……、最近あなた変よ……」
「…………」
「お友達もいないし、屋敷からも出ないで。王太后様からも最近お声がけ頂けていないそうね、私がとりなしたのに。本当にあなた、自分から動けないんだから」
それは違う。アデルの不調を「娘は最近疲れているようで」と母が伝えたから王太后から休むよう言われたのだ。
個人的に会うような友達がいないのは確かだけれど、それは同年代と友情を育む期間に次期伯爵としての仕事に追われていたためで。自由はなかった。
そう言いたかったけれど、痺れたように頭が動かない。
何も言わず立ち尽くすだけのアデルを、母はじろりと一瞥した。
「アデル、もしかして次期伯爵から外されて不満に思っているなんてことはないでしょうね」
びくりと体が震える。
母が机に前のめりになった。
「あのね、もともとジェフがいるべき立場だったのよ。それがジェフが騎士になったからあなたが代役になっていただけで。でも、本来は今が正しい形なのよ、分かるでしょう」
分かっている、分かっていた。
でも違う。なんて言えばいいの。
「あなたは一見出来るように見えて、実際はおっとりしているでしょう。だから後継の仕事はあなたにとって難しいことだと思っていたわ」
「そ、そんなこと……」
「事実でしょう。…………でもねアデル、あなたの気持ちも分かるわ」
冷たい声色から一転、穏やかな声になって、母は立ち尽くすアデルを優しく覗き込んだ。
「あなた、ずっと私たちが示した方向に生きてきたものね。ちゃんとした将来のために導いてあげていたんだもの。急にそれがなくなって不安なんでしょう」
「…………」
「ただ、あなたは伯爵家の娘なのよ。誰にも恥じない行動をしなさい」
最後に爪で机を叩いて、話は終わりとばかりに母は書類を広げ始めた。
こうなったら、母はもう話を聞いてくれない。
痺れて固まっていたアデルの頭の中が少しずつ流れ始めた。それは瞬時に濁流になって脳から溢れ出しそうになる。
胃が迫り上がってくるような、喉が締め付けられるような。指先が冷たく、反対に脳は茹でるように熱い。
怒り、悔しさ、諦め。
名前をつけられない感情が胸の中に吹き荒ぶ。
ここにいてはいけない。
アデルは脳に強引に指令を出し、踵を返して母の部屋を出た。
しっかりした足取りで、登ってきた階段を降りる。
外套も羽織らず玄関を出て、帰りの馬車を片付けていた御者に近寄る。
真っ青な顔をしたアデルが音もなく寄ってきたので、御者は驚いて飛び上がった。
「ど、どうしました、お嬢様。お忘れ物ですか?」
「馬車を出してちょうだい……、王城へ」
「お、王城ですか? なにか……」
「早く!」
珍しく声を荒げたアデルに、御者はびっくりして言われた通りに馬車を出す準備を始めた。
♦︎
先触れも無いし、会ってもらえるという確信があったわけではない。
けれど、警備の騎士に名前を告げれば、アデルはすんなりフランシスの部屋に案内された。
少し前に王太后のサロンから連れ去られるようにやってきた部屋。
相変わらず調度品は全然無い。
帰ってきたばかりらしいフランシスは、今夜晩餐会で見かけた服のまま、首元のタイだけ緩めていた。
青い瞳を大きく開き、珍しく驚いた表情をした。
「どうしたのアデル、こんな夜更けに。帰ったんじゃ……」
「抱いてもらえませんか」
向かいの、クッションもない椅子に腰を下ろしかけるフランシスの言葉を遮った。
視線は合わせられない。
膝の上に握った拳に目を落とし、「抱いてもらえませんか」ともう一度言った。
「…………」
返事が無い。
だが、椅子を引きずる音がして、フランシスが椅子を持って隣にやってきた。自分の手に視線を落とすと、力の入った拳がもはや色を失っている。
自分の背にフランシスの手が添えられる。
顔が近付く。
「僕はいいけど……、理由を聞いても?」
優しい声。
わずかに顔を上げた。
明るい空のような瞳と目が合う。
「わたしは……」
その途端、涙があふれた。
「わたしは、もう自分ではない何者かになりたくて……」
涙が流れたまま、瞬きもせずにフランシスを見つめる。
彼は、涙を拭ってはくれなかった。
「そのためにここに来たの? こんな遅くに?」
「そうです」
フランシスは黙って、考えるように視線を彷徨わせた。
それから、少し困ったように笑った。
「自分の気持ちを言えるようになったらいいと思うけど、それは本当に君の気持ちなの? このまま君の要望を叶えてもいいけど……」
「いいです」
「だけどアデル、僕は傷付く」
はっと息を呑んだ。
──いま、わたしは彼に何を言わせた?
茹でるように熱くなっていた頭が、急速に冷えていく。
水をかけられたような気になって、拳の力を抜いた。混乱した頭が再度、ここにいてはいけないと指令を出す。
アデルは頬の涙を拭うこともなくふらりと立ち上がった。
「大変申し訳ございません……、お詫びのしようもありません。今夜のことはなかったことに……」
フランシスの顔も見ずに、部屋から駆け出す。
スカートを押さえて走る、走る。
来た道を戻れば、御者がまだ待っていた。
屋敷に戻るよう告げて乗り込む。
馬車が家に着くまでの間、微動だにせず思考を停止していた。
屋敷について階段を駆け上がり、自室に入って、そのまま机の引き出しに手をかけた。
美しい意匠の鋏を取り出す。
右手で鋏を、左手で長い黒髪を束ねて。
右手に力を込めたら、乾いた音が響いた。