5. 周りから見た自分
編み物会の数日後の昼前、シャグラン伯爵家に予告なしに馬車が寄越された。
高級そうな服を身に着けた御者が、姿勢よく言う。
「フランシス殿下より、シャグラン伯爵令嬢をお迎えするようにと承っております」
聞いていない。先触れもなかった。
毎度のことながら、彼は相手の都合や、自分の行動の影響をなぜ考えないのであろうか。
数日前にフランシス本人の襲来を受けた母は、御者に聞こえぬよう、困惑した顔でアデルに言った。
「急にこんな……、アデル、殿下と一体どういうご関係になっているの?」
こっちが聞きたい──。
そう思いながら、アデルは母に追撃を受ける前に馬車に乗った。
「夜会でお話しする機会があったのですけど、こちらにお戻りになったばかりでまだよくわからないことが多いそうなの。ちょっと行ってきます」
馬車で連れて来られたのは、高級ブティックやレストランの集まるランデ通りという大通りだった。
着飾った男女が通りを行き交っている。
途端に居心地が悪くなって、アデルは馬車の中でソワソワした。
ランデ通りに来たことはあるものの、いまは突然のことだったために普通のワンピースなのだ。とても高級店に入れるような装いではない。
そうっと馬車から降りると、またラフな格好のフランシスがひらりと手を上げて立っていた。
ジャケットすら羽織っておらず、グレーのシャツとスラックスにサスペンダーを合わせただけだ。
「おはよう、アデル!」
「おはようございます……」
もはや文句を言う気にもなれない。
どうせ言っても無駄であろうとアデルは半ば諦めた。
「今日は一体どんなご用で……」
「なんかね、バターにフルーツの香りをつけたやつが流行ってるんだって、知ってる? 食べてみたいと思って。一緒行こ」
「はあ……」
確かに昼時ではあるけれども……と気のない返事をしてハッとした。
ということは彼は、この格好のまま大通りの店に入るつもりなのではないか。
案の定、フランシスが「行こう行こう」と通りの向こうに目をやる。
「まままま待ってください! とてもこの格好でお店に入れません!」
「大丈夫、大丈夫、知ってた? こういう場所ではあまり華美じゃない方が逆に丁寧に接されるよ」
「それはどういう」
「ラフだと、『あ、ランデ通りの近くに住んでるお金持ちの人なんだな』って思われるじゃん」
「フランシス様はそうでしょうけども!」
フランシスの腕を引っ張ってなんとか阻止する。
知り合いだっているかもしれないし、一応伯爵令嬢としてその場に合った服装をするのはマナーである。言っても分からないだろうが。
「フランシス様、フレーバーバターはランデ通りでなくても、ヴォルデ街にお店がありますよ! そちらに行きましょう!」
「よく知ってるね、アデル」
「最近流行ってますものね! さ、早く行きましょう!」
一等地の大通りから一区画行けば、もう少しリーズナブルで入りやすい店の多い街になる。
アデルはフランシスに有無を言わさず、ずんずんと道を進み、しばらく歩いてヴォルデ街の目的の店に着いた。
客層は上流階級ではあるけれども、ランデ通りほど着飾った人たちはいない。
今の服装でもさほど浮かないので、アデルはほっとして席に着いた。
フランシスの目当てのフレーバーバターとパン、それにメインを注文して、ようやく一息つく。
「言っても無駄かなとは思いますけどね、急に呼び出したりするのやめて頂けませんか」
「なんで? どうせ何もやってなかったでしょ」
「そ、そうですけど」
これまでは父について行ったり、自分に割り振られた仕事のために人に会ったりして、それなりに忙しかった。
しかし仕事はジェフに引き継いだので人に会うこともなくなったし、そもそも発作が起きるのが怖くて誰にも会わないようにしている。
運ばれてきた紅茶に口をつけて、アデルはキッとフランシスを見た。
「フランシス様こそ、王弟殿下でいらっしゃるというのに、普段は何をなさってるんですか?」
「僕? 何もしてない」
あっけらかんと開き直って言われたので、アデルは面食らった。
確かに、公務に出ている様子はないし、初めて会った夜会以来、数日おきに会っている。
留学から帰ってきたばかりとはいえ、何もしなくていいんだろうか。
「あの、ご公務とかも何もしなくていいんですか?」
「いやなんかね、兄から何もするなって言われた」
「なるほど」
若干呆れたものの、フランシスの兄である国王の苦労もほんの少し理解できた。
付き合いの短い自分ですらこんなに振り回されているのだ。
一番近い身内、しかも彼を公の場に出さなければならないとなると、フランシスの行動には頭を抱えるだろう。
ただ、自分の立場とフランシスの立場を思い浮かべて、アデルはなんとなく切なくなった。
もしも。
フランシス自身には王家や公務への熱意はあって、それを国王から止められている状態だとしたら。
自分の能力に自信はあるのに、勝手に評価を下されているのだとしたら。
アデルは紅茶の液面に視線を落とした。
「……フランシス様は、そのように陛下から言われて悲しくないのですか」
「僕? 全然悲しくない」
思わずずっこけそうになった。
そうだ、この人はこういう人だった。
「僕ね、留学先で畜産とか農産の勉強してきたから、どこか遠くでそういうことしようかなと思ってて」
「臣下に下られるのですか!?」
「表向きの言い方するとそうかもね。さ、バターが来たよ」
ウエイターがパンとフレーバーバターを運んできたので会話が途切れた。
パンの隣に置かれた小さい壺には、淡いクリーム色のふわふわのバターが入っている。焼きたてのパンが良い香りだ。
バターの壺を手に取って顔に近づけると、ほんのりと柑橘の匂いがした。
「フランシス様って本当に自由で羨ましいです。わたしならきっと……」
フランシスの場合は本人のせいだが、もし自分なら。
留学先から帰ってきて公務から外されたら、きっと自尊心を失う。家族をがっかりさせた自分を不甲斐ないと思うだろう。
フランシスはパンにたっぷりバターを塗って言った。
「アデルは人の目が気になるみたいだね」
「親に認めてもらいたいと思ったり、周りにがっかりされたくないというのは普通では?」
「親にどう思われたっていいじゃん」
「育ててもらった親ですよ」
「産んでくれなんて言ってないし、いずれ先に死ぬよ」
彼らしい言いっぷりに、肩をすくめる。
フランシスがバターを塗り広げながら続けた。
「案外ね、人って他人を見ていないものなんだよ。ほら、あーん」
「はっ!?」
バターを塗ったパンをこちらに差し出してきたので、アデルはぎょっとした。
「じ、自分で食べられます!」
「試してみようよ、僕たちが『あーん』って恥ずかしいことしたところで、周りからどう見られる?」
どう見られるって、恋人同士に見られてしまうではないか。
いや、恋人の中でも「あーん」をしてしまう、特に恥ずかしい部類の恋人同士だ。
仮にここに知り合いがいないとしても、他人に見られるなど。そもそも伯爵令嬢として、基本的に「あーん」はマナー違反なのではないだろうか。
周囲を窺ったアデルは、近くのカップルがこちらを見ていることに気付いた。
「み、見られてます! 無理です!」
「知り合いなの?」
「知り合いではないですけど……、むぐっ」
フランシスに口にパンを押し込まれ、結果的に「あーん」してしまったアデルは目を白黒させてパンを咀嚼した。
柑橘のフレーバーバターは美味しいものの、味わうどころではない。
フランシスに怒りの目を向けつつ、きちんと飲み込んでから小声で怒った。
「無理ですって言ったのに!」
「知り合いじゃないんでしょ? 大丈夫、大丈夫。どうせ彼らは気にもしないよ。今日あった出来事が彼らのスパイスなんだからさ。帰って僕らのことを『何か変な人いたね』って話して、いい雰囲気になってその後ベッドに入って」
「わーわわわわわ!! 昼間から何を!!」
大慌てでフランシスの口を塞いで、あたりに目をやる。
本当に口から出ることがゆるくて困る。
もっとちゃんと考えてから発言してもらえないだろうか。
「はあ…………」
なんだかくたびれて、椅子の背に少しもたれてパンをちぎる。
さっきの一口目は味わえなかったが、フレーバーバターは美味しい。これは柑橘のようだけれど、他のフレーバーもあるのだろうか。
そんなことを考えていたら、フランシスがさらりと言った。
「そうだ、公爵家の次の夜会呼ばれてるでしょ、一緒に行こうね」
「えっ!?」
「元からその約束だったじゃん」
そうだったっけ……と思い返して、確かにその通りだったことを思い出す。
初めて会ったとき、人の名前が分からないから夜会で助言してくれと言われたのだった。
それはそれとして、アデルは一点不安になった。
「あの、フランシス様……」
「なあに?」
「ドレス贈って下さったりなんてことはしないでくださいね……?」
もしフランシスが自分に助言を求める以上の関係を求め、ドレスでも贈られたりした日には、既成事実になってしまう。
するとフランシスはあっさり首を横に振った。
「しないしない、お金ないし」
「お金ない……?」
「牛買っちゃったから」
「うしかっちゃったから????」
よく意味が分からずオウムのように復唱してしまったが、彼は最近移住を検討している先で牛を飼うことにしたらしい。
本人が言っていた臣籍降下の件は実際に進めているようだ。
「すぐに移住なさるなら夜会で人を覚えなくてもいいんじゃありませんか?」
「いやいや、そういうところで誰かに気に入られたらお金もらえるかもしれないからね。次は羊を買いたいからさ」
アデルは力無く「そうですか……」と言った。
やっぱり、なんだか変な人である。




