4. 価値を決めるのは誰か
ちくちくちく。
刺繍や編み物をしているときは無心になれる。
はずなのに、アデルの心はここにあらずであった。
先日出会った、ふわふわ長めのプラチナブランドに青い瞳の男性。
調べたら、確かに王弟殿下フランシスだった。
長い留学から帰ってきたところらしい。
年はアデルの二つ上の二十六歳。留学に十年間行っていたそうなので、夜会でも会ったことがないわけだった。
鎖と繋がっていた懐中時計。
帰りがけに時間を確認するフランシスをちらりと見ると、鷹と剣を模した王家の紋章が入っていた。
あの日結局、勝手に渡された鎖を手に、会場に戻った。父には話していない。
気付けなかったのは仕方ないとして。
なぜ無防備に全て話してしまったのだろう。
しかもあの軽い態度。医学の心得があるというのも嘘だった。彼は留学先で農畜産を学んできたらしい。
口からポンポンと出る適当な言葉に、普段とは違って返す言葉がぱっと出てこなかった。
まあ、そのせいで発作も起こらなかったわけだが。
「アデルさん、アデルさん。そこ間違えているんじゃないかしら」
「あ……」
指摘されて慌てて意識を戻す。
ここは王太后のサロン。
手芸の好きな令嬢たちが集まって思い思いに作業する『編み物会』の場だ。
『編み物会』のメンバーは王太后を中心に二十名程度。
未婚、既婚問わず、王太后に声をかけられた淑女のみが参加できる、特別な会である。今日は十名弱が集まっていた。
アデルは八年ほど前からこの会に出入りしていた。
女伯爵になるのが既定路線だったため、勉強のため他の令嬢との接点が少ないアデルを気遣った、王太后の計らいでもある。
昔から目をかけてもらっていたし、アデルは『編み物会』の場が好きだ。
王太后は国王陛下の母、つまりフランシスの母でもあるわけだが、『編み物会』でフランシスの名を聞いたことはほぼない。
アデルが参加し始めた時にはすでに彼が留学していたからだろう。
「アデルさん、お疲れ? 大丈夫?」
「大丈夫です、ごめんなさい」
「お忙しいんでしょう、夜の社交だけでなく、お仕事の引き継ぎもおありでしょう?」
隣の席の、だいぶ年下の令嬢が心配してくれる。
アデルが次期伯爵から外れて結婚相手を探していることは、公には正式決定ではないものの、周知の事実だ。
父伯爵が発表する前なので、話をふられるたびにアデルは曖昧に微笑むに留めている。
「皆さん社交が忙しくなったらそうなるのよ」
王太后が口を開いたので、皆がぱっとそちらを向いた。
デビューしたばかりの若い令嬢たちが「たくさんお呼ばれするものね」「早くそうなりたいわ」と花のように笑う。
王太后は、いまは褪せているけれども、昔は美しい金髪であった。
そのふわふわの髪を見て、フランシスを思い出す。アデルの母と祖母の間くらいの年齢だが、いまだに高貴で美しい。
「でもねアデルさん」
王太后の青い目がアデルを見る。
「はい」
「弟君……、ジェフさんがお戻りになってよかったとわたくし思っているのよ」
王太后がアデルを見たのは一瞬で、すぐに手元の編み物に戻った。
アデルは手を止め、続きを待った。
「お勉強してきたのにお家を継げないのは可哀想と思いますけれどもね、あなたはとても大人しいし繊細でしょう? 当主なんて難しいんじゃないかしらと実は思っていたの」
「は、はい」
胸がぎゅうと掴まれたように痛んだ。
王太后の言葉が棘になってアデルに刺さる。
可哀想。大人しい。繊細。難しい。
「無理して大変な立場になるよりも、普通の結婚をして幸せになる方があなたにとってもよかったと思うわ」
「…………っ」
──ありがとうございます、わたしもそう思います。
ああ、まずい。
喉まで声が出かかっているのに、いつもの通り、最後まで出てこない。息が浅くなる。
ぶわりと一気に脂汗が浮かび、アデルは目が泳いだ。
こんな場所で発作なんて起きたりしたら。
「アデルさん?」
異様な状況を察知した隣の令嬢に顔を覗き込まれ、アデルは小刻みに頷いた。
「……あ、ありがとうございます。わたしも、その、父の意見も聞きながら将来のことを考えているところでございます……」
なんとか絞り出して、ガタリと立ち上がる。
隣の令嬢が目を丸くした。
「申し訳ありません、少々席を外します」
明らかに不審がられているのには気付いていたが、そのまま留まっていたら発作が起きてしまう。
アデルは駆け足でサロンを出て、化粧室へ逃げ込んだ。
いつもと同じだ。無難に返せばいいのに、それが出来ず発作が起きてしまった。
王太后の言葉はありがたいことだ。
ただのいち伯爵令嬢のことを慮ってくれて、いまのアデルの境遇に同情してくれてあのような言葉をかけてくれたのだ。
そこに悪気はないのは分かっている。むしろ気遣ってくれたのだということも。
しかし正直に言えば、アデルは自尊心が傷付けられた気持ちになった。
自分が女伯爵には不向きだったと。
分かっている、分かっているけれども。
「はあ…………」
大きくため息をついて、鏡の前で顔を上げた。
そこには顔色の悪い、うつろな目をした女が映っていて、アデルは鏡から目を逸らした。
あまり長く不在には出来ない。
意識して呼吸を落ち着かせ、気持ちを立て直してからすぐにサロンに戻ると、急な離席を心配した令嬢たちから「大丈夫ですか?」と心配された。
「大丈夫です、失礼しました」
「アデルさん、しばらくはこの会をお休みしてもいいのよ」
心配そうに眉を下げた王太后からそのように言われ、アデルは慌てた。
「いえ、大丈夫です。先ほどは失礼いたしました」
「いえね、お家のこともあって、社交もお忙しいでしょう。お母上からも最近アデルさんが疲れているようでと伺っていたのよ」
「母が……」
「ええ。だから少し落ち着くまでお休みなさったらいかがかしら」
今度は発作ではなく、単純に涙が出そうになった。
王太后のサロンに出入りしていることは、アデルにとっては誇りの一つだった。
どうしよう。
この場所まで取り上げられてしまったら、自分は本当に何者でもなくなる。
アデルが「あの、でもわたし……」と言いかけたところで、サロンの扉が勢いよく開いた。
「あー、いたいた」
集まる淑女たちの視線が集まった先にフランシスが立っていて、アデルはぎょっとした。
先日と同じふわふわの金髪で夜会よりもラフな服装。叩かれたという頬はもう赤味が引いていた。
日差しの入るサロンで照らされたフランシスは美しい青年で、一部の令嬢はときめきを隠さず見つめていた。
一方のアデルはというと、フランシスがまっすぐに自分に近付いてくるのでその場から逃げ出したくなった。
「アデル、遊びに来ていたんなら言ってよ。おうちまで行っちゃったじゃん」
「えっ、我が家にですか!?」
「うん、そう。そしたら城に上がりましたよって言われて、戻ってきたの」
突如娘を訪ねてきた王弟に、両親は泡を吹いたのではないだろうか。
帰ったらなんて言われるか……と遠い目になっていたら、王太后が口を挟んだ。
「フランシス、急に来て失礼ですよ」
「あれ、母上のサロンって男子禁制でした? 僕、編み物得意ですよ」
「男子禁制です。それになんですか、アデルさんとどうやって知り合ったのか知りませんが、彼女に馴れ馴れしくするんじゃありません」
「友だちになったんですよ、ねー」
ねー、ではない。
頬が引きつって苦笑いを浮かべると、王太后がため息をつく。
「アデルさんはお疲れのようですからね、登城を少し控えてお休みなさったらとお話したところなの」
「王太后さま……!」
「なんだ、ちょうどいいじゃん」
そう言ったフランシスがアデルの編み物カゴをひょいと抱えた。
手元の編み物から伸びた毛糸がカゴの中に繋がっているため糸が引っ張られそうで、思わず腰が浮く。
「アデルは疲れているんじゃなくて、母上に見張られているから落ち着いて作業出来ないんじゃないですか?」
「なんですってフランシスっ!!」
「あはは! ね、アデル、僕と遊ぼうよ。お菓子用意してもらうからさ」
「アデルさんはあなたと遊ぶような子じゃありませんよ! 待ちなさいっ、フランシス!」
「ではでは、皆さんもほどほどにねー」
突如現れた王弟と、珍しく声を荒げる王太后のやり取りに周囲も固まる。
アデルは青くなったまま一言も発せずにいたが、フランシスが編み物カゴを人質のように抱えているものだから、強引に連れられてサロンを出た。
かろうじて退出直前に皆に頭を下げることは出来たが、どう考えても不敬だ。
廊下に出て、ようやく声が出た。
「殿下! 困ります、殿下……!」
「殿下は嫌だなあ、フランシスって呼んでよ」
「フランシス様! あんな失礼なことを!」
「母のこと? 大丈夫だよ。どうせ夜にワイン飲んだら忘れるさ」
「知ってた? 意外と酒乱なんだよ、母は」と話しながら全く歩みを止めてくれない。
しかも歩幅も合わせてくれないものだから、アデルはフランシスの持つカゴから繋がった編み物を持ったまま、駆け足で付いていくしかなかった。
「はい、どうぞ」
「はあ、はあ……」
発作で息が上がっているのではない。
運動不足の身で駆け足で連れて来られたからだ。
アデルは肩で息をしながら、ようやく返された編み物カゴに編み物を戻し、部屋を見回した。
応接室のようだが、王城の部屋にしてはシンプルだ。
布製品は落ち着いた色で刺繍は少なく、飾り棚には装飾品もほとんどない。
「あの、ここは……」
「僕の部屋」
まだ二回しか会っていないながらも、これまで突拍子もない言動を見てきたのでもはや驚きはしない。
しかしそれでも、アデルは気が遠くなった。
王弟の部屋に淑女を連れ込んで──、はたしてこの人はわたしの評判がどうなるか気にしてくれないのであろうか。
サロンから連れ去ったのを見られているので手遅れであるとしても──。
クッションもない木製の椅子を勧められて、よろりと腰掛ける。
侍女が何も言わずに紅茶を注いでくれ、向かいにフランシスが座った。机の上にチェス盤を広げ出す。
言っても分からないだろうなと思いつつも、アデルは念のため言った。
「フランシス様、お部屋に連れ込まれると醜聞になるのですが……」
「大丈夫大丈夫、扉は開けとくし、何もしないからさ」
「そうじゃありません!!」
飄々としているフランシスに、思わず大きな声が出た。
「どうするんですか! わたしの家に来て、サロンから連れ去るようなことをして、さらにはお部屋にだなんて! わたし、王弟殿下の愛人だと思われて縁談が来なくなります! 両親からもなんて言われるか。それにもう王太后様にも呼んでもらえなくなります!!」
「すでに縁談はうまくいってないし、母からはもう来なくていいって言われてたじゃん」
「そうですよ! って、はっきり言わないでください……」
珍しく大声を出して酸欠になったのと、先ほどサロンで王太后に言われたことを思い出す。アデルはめまいがして頭を抱えた。
それを見てフランシスが朗らかに笑うものだから、さらに腹が立つ。
「母のところにいて楽しいの?」
「……楽しいですよ、王太后さまにお声をかけて頂けることは光栄なことですし」
「つまりあの場は、君にとって自らのステータスってことだね?」
頭を抱えたまま、フランシスに青い瞳で顔を覗き込まれた。
声色よりも真剣な瞳が、心の中を探るかのように射抜いてくる。
「…………」
痛いところを突かれたような気がした。
『編み物の会』に呼ばれるのは一部の淑女だけだ。
それを誇りと思っていたのは事実。だから休むように言われて焦ったのだから。
自分の気持ちとして、『編み物の会』が楽しいかどうかは正直分からない。
あの場に出れば様々な情報に触れることができるし、上位貴族と交流することができる。
一方で、気疲れするのも確かだ。今日、王太后の前で発作を起こしたように。
「……おっしゃる通りです」
「ありゃ、怒り出すかと思ったのに」
「社交とはそういうものではないですか。誰にどう見られ、どう振る舞うかで人の価値が決まるでしょう」
暗い顔で言うと、対照的にフランシスはにっこりと笑った。
「人の価値を決めるのは誰なの? 誰にどう思われたって別にいいじゃん」
突飛な彼には貴族の生き方が分からないらしい。とてもフランシスらしい考え方だけれども。
アデルは呆れて苦笑し、肩の力を抜いた。
「フランシス様は自由でいいですね」
「アデルも自由なんだよ」
意味がわからず眉を顰めたが、続きを説明するつもりはないらしい。
そのまま「やろうやろう」とチェス駒を並べ始めたので、アデルも仕方なく参加した。
予想外にフランシスは非常に強く、アデルは一度も勝てなかった。