3. 救いの手(早まったかもしれない)
「しんどそうだったね、よくこうなるの?」
結局グラスに入っていた水を全て飲み干したアデルは、男にそう問われて視線を下げた。
発作を起こしたところを人に見られたのは初めてだ。他人と話しているときに発作が起きそうになったらすぐに逃げだしていた。
けれど最近はその頻度も高く、きっと周囲からも怪しまれているだろう。
元より、このような状況で社交を続けるなんて無理な話なのだ。
アデルはこのうんざりとなる最近の体質を、この知らない男に話してしまいたいと思った。
誰かに聞いて欲しいと。どうせ先ほど、実際に発作が起きたところを見られてもしまったし。
貴族の健康不安は瑕疵になることは分かっていたが、彼は医学の心得があると言った。
ということは、アデルのことを安易に他者に話したりはしないのではないか。
「誰にも言わないで頂きたいのですが……」
「うん、大丈夫、大丈夫」
「……最近、嫁ぎ先を探す必要が生じてきまして……」
アデルはぽつりぽつりと自分の現状について話した。
家を継ぐはずだったが、騎士の弟が片目を失い帰ってくることになったこと。
そのため、自分は跡継ぎから外れ、急きょ嫁ぎ先を探すことになったこと。
今までは人と話すのは得意だったのに、急に話せなくなったこと。
返す答えは頭の中に浮かんでいるのに、口から出そうとすると先ほどのように苦しくなること。
男はアデルを遮ることなく「ふんふん」と軽く相槌を打ってから、口を開いた。
「なんで弟君は騎士を辞めるの?」
「えっ、そこですか? ですから、事故で片目が見えなくなったので」
「片目使えなくても辞めない人いるよね? 隻眼の騎士なんてかっこいいじゃん。なんで辞めるの? ていうか、弟帰って来ることについてちゃんと怒った? 『私が家継ぐはずだったのに方針転換するなよ』って激怒した? 親と弟殴った?」
「なっ……!」
唖然とした。
立て続けに投げかけられた問いの、どれから答えたらいいのか。
確かに弟が辞めることについて、少し疑問に思ったことはある。
騎士が業務で障害を負っても、事務的な部分での補佐や教育係として残る人はいるからだ。
弟は優秀なので当然そういった道もあったのではないかと。
ただ、実際聞いたことはない。
ひょっとしたら怪我の経緯にアデルの知らない事情があって、両親が弟を不憫に思って呼び戻したのかもしれないという可能性を考えると聞けなかった。
また、そのことで自分が次期伯爵から外れることに複雑な気持ちには当然なったものの、それに異論を唱えたことはない。
現伯爵である父が決めることだし、ましてや殴るだなんて。
答えあぐねるアデルを無視して、男は話を続けた。
「弟、騎士なんでしょ? 思いっきりいかないとダメージを与えられないね。ちょっと油断させてからいった方がいい。利き手どっち? ここを相手の頬に当てるんだよ、強くね」
「な、殴るだなんてそんな……」
「だって、言って分からない相手は殴るしかないじゃん」
「い、いえ、そもそも、別に両親や弟に不満を言いたいわけではなくて……」
そう言いながら、実は不満を言いたかったのだろうかとアデルは自問した。
最近気付いたことは、『会話の中で求められる答えを口にしようとすると発作が起こる』ということだ。出会った人に対してだけではなく、家族に対しても。
もしそれが、いま自分が置かれた状況に対する気持ちのもやもやが起因しているとしたら。
考え込んだアデルを見て、男がにっこりと微笑む。
「別にさあ、具合悪くなるくらいなら、いい子して上辺だけの会話なんてしなくていいじゃん。言いたいことをちゃんと言わないと、本当に必要な時に何も言えなくなっちゃうよ」
ハッとして男を見る。
彼の言う通りかもしれない。言いたいことをちゃんと言わないと。
もしも運良く結婚相手を見つけられたとしても、今後もずっと相手の望む答えばかりで、発作で苦しむ将来が予想できる。そんなの絶対嫌だと強く思った。
目の前の男。
素性は分からないし酒臭いが、さすが医者である。
アデルは感謝して男との距離を詰めた。さらに強く酒精の香りがした。
「あの……、ありがとうございます。重要なヒントを頂いたような気がします」
「え、そうなの、よかったね。じゃあさ、お願いがあるんだけど」
男が自分のジャケットの内ポケットを探そうとした時、彼のシャツが真っ赤に染まっているのが見えて、アデルはぎょっとした。
一瞬、血液かと思ったが、違う。赤ワインだ。
「あの、失礼ですがお召し物が……、大丈夫ですか」
「ああこれ、ぶっかけられたの」
「え……、えっ!?」
ハンカチを探しながら二度見したら、男が「あはは」と朗らかに笑う。
その拍子に灯りに照らされて、相手の顔がしっかり見えた。
左頬が真っ赤だ。またもぎょっとして見ると、男が視線に気付く。
「ああこれ、ビンタされたの」
「ビンタ……??」
「なんかね、女の子にお庭で一緒に飲みましょって言われて、僕飲めないんだけど付いて行ったら恋人にしてって言われてさ、体の関係だけならいいよって言ったらワインぶっかけられてビンタされちゃった、あはは」
アデルは気が遠くなった。
介抱してもらって助言ももらい感動してしまったが、とんだ軽薄な男だったらしい。
本人はというと、「いいビンタだったなあ」と笑い、ジャケットから懐中時計を取り出した。
その鎖だけ外してアデルの手に落とす。
アデルは、見た目の割にしっかりと重い金色の鎖を見つめた。
「……これはなんですか」
「友だちの印ね。残りのシーズン、一緒に遊ぼうよ」
「え……、えっ!?」
目を剥けば、男は叩かれて真っ赤になっている頬をかいた。
「僕、こっちに帰ってきたばかりで最近のことがよく分かってなくてさあ。でも家族から残りのシーズンの夜会にはちゃんと出席してって言われてるんだけど、女の子が寄ってきちゃうし誰が誰だか分からないし」
「あの無理です、わたし今シーズン中に結婚相手を探してて」
「いいじゃん別に、来年になったって。どうせその調子じゃ誰と話してもダメだって」
「ひ、ひどくないですか……?」
「君、どこかのお嬢さんでしょ。僕、全然他の人たちを知らないから、一緒にいて『あれは誰々ですよ』って教えてよ」
鎖を返そうとするも、手を握り込まれて返させてくれない。
しかも全く話を聞いてくれないものだから、アデルは男の手の甲をぎゅうとつねった。
すると、男が笑いながら「いった!」と手を放す。
「なんでよ、ダメ?」
「さっき、『言っても分からないなら殴るしかない』って仰ってましたもんね」
「あはは、そうそう。でもさ、実際君もこの状態で結婚相手探すの大変じゃない? 協力してあげるって。僕が会話を回してあげるし、信用できる男かどうか見極めてあげる」
「そんな……」
言葉にぐらついた。
軽そうな男ではあるが医者のようだし、アデルの最大の心配事を話してヒントをくれた。気が軽くなったのは事実だ。
この状態で結婚相手をすぐに見つけるというのは現実的には厳しいかもしれないという焦りもある。
口は上手そうだし、ひょっとしたら彼に手助けしてもらえたら、発作を起こさず男性と知り合えるかもしれない。
現に、いま彼と話している間、全く発作の兆候もないのだ。
一緒にいることで多少噂になる可能性はあるが、友人になったと言えば、父には言い訳が付くかもしれない。
それに現状男性と進展がないことを踏まえると反対されないのではないだろうか。
アデルが小さく頷くと、男はにっこりと微笑んだ。
「よしよし、決まりね。そうだ、名前なんていうの? 聞くの忘れてた」
「シャグラン伯爵の娘、アデルです」
「アデルね。僕はフランシスだよ。よろしく」
鎖を握った手とは反対の手で友情の握手を交わす。
が、少し疑問に思った。家名を言われなかったのではないか。
「フランシス様、差し支えなければ……」
暗に家名を教えて欲しいと伝えると、フランシスが首を傾げる。
「あー、ないんだよね。みんな、フランシスって呼ぶよ」
アデルは血の気が引いた。
この国では貴族も平民も家名を持つ。
唯一の家を除いて。
「あああああの、もしかして……」
「そうそう、兄の弟」
兄の弟って表現おかしいでしょと思ったものの、認識出来てしまった。
確かに、外国へ長期留学中で社交界には顔を出していないとは聞いていたので会ったことはなかった。
家名を持たない唯一の家、現プロヴァンス王朝、現国王陛下の、弟。
「医学の心得があるって……」
「ああ、あれ? ウソ、ウソ。あはは」
全く悪びれずに笑う王弟に、アデルは失神しそうになった。