2. 先行き不透明
「ねえ、アデル。昔の話だけど……、あなた、私たちがジェフの試合を見に行っていた頃、どんなふうに思っていた?」
本を読んでいた母から話しかけられ、アデルは編み物をしていた手を止めた。
ジェフとは、怪我を負って帰ってきた弟のことだ。
試合は馬上試合の練習や大会のことだろう。
弟は騎馬で槍を用いた戦いに長けており、頻繁に大会に出て良い成績を上げていた。
それを誇らしく思っていた両親は、よく彼の試合を応援に行っていた。
アデルもそれに付き合うこともあったが、見ているだけでは暇なので、家にいたのと半々くらいだ。
「……どうって?」
意図が読めずに聞き返したアデルに、母が読んでいた本の表紙を撫でる。
「いえね、この本を読んでいたら、複数の子がいる時に、親が片方の子の対応に追われていたら残りの子どもは寂しい気持ちが将来も残るって」
「…………」
「ほら、うちも昔ジェフのことばかりだったでしょう? あなたに寂しい思いをさせていたかしらって」
アデルは、急に石を喉に押し込まれたような気持ちになった。
この場で、母から自分に求められている答えは分かっている。
母は本を読んで過去の自分の行いに軽い罪悪感を覚えていて、それを解消すべくアデルに質問しているのだ。
アデルがここで「そんなことないわよ、ジェフが活躍して嬉しかったじゃない」と答えるのを、母は待っている。
そうして懺悔を終えた母は満足する。
実際幼い頃、ジェフの活躍に夢中だった両親に対して、寂しいというよりも惨めだという気持ちの方が強かった。
両親は弟の応援に行く。対して、何もない自分。
家族団欒時もジェフの話が中心であった。
両親と弟は団結力の強い家族で、そこから自分があぶれているように感じてはいた。
一方で、自分は父の仕事を継ぐという誇りもあったから、完全な疎外感を感じずにいられた。
だとしても、今はもうそれもないということに気付く。
母の期待通りの返しではなく、思ったことを言えばどんな顔をするだろう?
──いまさら気付いたの、むしろ私のことどう思ってた?
と、考えたところで、アデルはいつもの症状が込み上げてくるのを感じた。
まずい。呼吸が。
慌ててにっこりと笑みを作る。
「……そんなことないわ、お母様。いま言われるまで気にしたこともないもの。ジェフの活躍は楽しかったじゃない」
なんとかそう言うと、母がおっとりと微笑んで「そうよね」と言った。
初めて母に、憎しみに似た気持ちが湧いた。
次期伯爵から外れ、嫁ぎ先を探さなければならない状況について、母はそれでよかったと思っているようなのである。
騎士でなかなか会えなかった息子は戻ってくるし、娘は普通の令嬢のように、結婚によって幸せになれると。
父の判断に全て従い、伯爵家に波風が立たねばいいと思っている表面的な無関心さに、苦い気持ちが湧き上がる。
母の視線が手元の本に戻ったのを確認し、編み物を片付けて席を立つ。
扉まではゆっくり、扉を閉めてからは早足で自室へ駆け込んでくずおれた。
「はあっ、はあっ、はあっ」
家で発作が出てしまったのは初めてで、アデルは目の前が真っ暗になった。
結婚相手も見つからない、家でもまともに話が出来ないとなってしまったら。
苦しさのあまり、自然と涙が出てくる。
呼吸が落ち着いてからもしばらくの間、涙を拭うこともせずに呆然としていた。
♦
それからもアデルの症状は改善しなかった。
夜会では数人の異性と話したら限界だった。
今までやってきていた次期伯爵としての仕事を弟に引き継ぎした時、弟から謝罪を受けた時も同様だった。
「今まで姉様が頑張ってきたのにこんなことになって悪いと思う」と、自分と同じ色の隻眼で謝られたら。
答えは一つしかないではないか。
アデルは微笑んで「私には荷が重いと思っていた部分もあったの。次期伯爵はジェフの方がきっといいわ。困ったことがあったら言ってね」と口にした。
弟が安堵の顔をした後、アデルはその場をそっと去り、部屋でシーツを握りしめながら発作に耐えた。
つらい。
とはいえ、いま自分に求められているのは速やかな婚姻である。
父伯爵は今季の社交シーズン中にはアデルの嫁ぎ先を決めてしまいたいらしい。
すでにシーズンも後半。
あらかたの貴族未婚男性には挨拶をしたように思うが、ちっともうまくいかない。
それもこれもアデルの症状のせいである。
男性と話して少ししたら気分が悪くなって逃げだしてしまうからだ。
しかし、今夜はそうもいかない。
王宮で行われる、プロヴァンス王家主催の大規模な夜会。
父はどうやら今夜の夜会でなんとか結婚相手の目星をつけたいようだ。
侍女に着せられたドレスはいつもよりも豪奢な濃紺のドレスで、スカートのレースにはパールが散りばめられている。
黒髪もきっちりと結い上げられ、スカートと同様にパールの髪飾りが美しく着けられた。
王族の席にはいつも世話になっている王太后が見えた。また、国王夫妻とその子どもたちも。
国王夫妻はアデルよりも一回り年上で、即位してから数年が経った。三人の子どもにも恵まれ、王位は安定している。
大広間での夜会には何度か出席したことがある。
アデルは父の腕に手を添えたまま、ぐるりと周りを見回した。
外への出入口は、入口の扉と大廊下への扉、それから王宮の庭へと続くガラス扉。
いざとなったら庭へ行けばいいだろう。逃げ場があることに安堵したら、腕をくいと引かれた。
「アデル、集中しなさい」
「は、はい、お父様、申し訳ありません」
父に腕を引かれ、参加者の紹介を受ける。
女伯爵になるために教育を受けてきたので、おおよその貴族男性の顔と名前は頭に入っている。
それに、これまでに会ったことのある人物も多い。
今日は規模が大きく、幅広い階級の人々が参加しているようだ。
中には爵位が無くとも、社交界では名の通った実業家なども出席している。
何人か固まっている人たちの中から、父が声をかけたのは子爵家の男性だった。
もともと知り合いだったのだろう。
挨拶が済めば、すぐに仕事の話が始まり、アデルは耳を傾けながら話を聞いていた。
時折意見を求められるのでそれに無難な答えを返す。
期待されているのは同意と尊重で、個の意見は必要とされていない。
男同士の話における女の役割は会話の中に差し込まれる彩りであって、そこに本質的なものは求められていないのだ。
出過ぎた発言をしたら白けられてしまい、そのような女であるというレッテルを貼られる。
飾りだけとしてこの狭い空間に存在していることに、自分にとって意味はあるのだろうか。
アデルは薄々感付いていた。
どうやら、相手の求める答えを言わなければと思うと、いつもの発作が起こるようなのだ。
相手の話に質問をし、相槌を重ね、褒めて、讃えて。アデルはこれまでそういった一般的な世間話が得意だった。
しかし今、頭に浮かぶスムーズな会話を口に出そうとすると、途端に息が詰まりそうになるのである。
父が他の知り合いから声をかけられ、「少し外す」とアデルの元を離れた途端、子爵家の男性は遠慮のない視線をかけてきた。
「アデル嬢、お家は弟君……、ジェフ殿が伯爵家をお継ぎになるそうですね」
「どうでしょう、父が決めることですわ」
「はぐらかさずとも、もう皆知っていることですよ。でもね、」
声をひそめて体が寄せられる。
「それでよかったと思いますよ。歴史のある家を背負うというのは並大抵のことではない。アデル嬢、きっと普通に幸せになれます、あなたは美しいし」
素肌の腕に男の手が触れ、そこから全身に温度の低い蜘蛛の巣が一気に張り巡らされたように感じた。
──ありがとうございます、そうだといいと思います。
そう答えればいいのに、喉が開かない。
普通の幸せって何?
美しいから幸せになれる?
それでよかったというのは?
並大抵のことではないことを乗り越えるために努力してきたこれまでのことは?
本人に悪意はないのだろうと分かっていても、言葉から読み取ってしまう意味に頭の中がパンクしそうになる。
表面上の言葉だけをするりと舌の上に乗せてしまえる無頓着さが羨ましい。
いや、それは自分も同じか。これまでスムーズに出来ていた他者との会話は、自分自身の脳の中を十分に経由しないで身体の外に出ていたのだ。
なんだか、これまでの自分が気持ち悪く思えてきた。
「ありがとうございます、そうだといいと思います」
相手の目も見ずになんとか口に出した。口の内側を強く噛んでいたので血の味がする。
強引に指令を与えられた脳がじんじんと痺れる気がした。
想像していた通りに息が上がってきてしまったので、「父の元に行くので失礼します」と早口で告げる。
そのまま父を探すこともなく、先ほど目を付けていたガラス扉から庭へ出た。
犬のように、はあはあと荒い息で人目の付かない場所に行く。
足にまとわりつくスカートを片手で押さえる。足首が見えてしまっているかもしれないけれど、気にしていられない。
口の中が気持ち悪い。でも唾液も出ないしカラカラだ。
気持ち悪い、気持ち悪い。
ようやく誰もいないベンチを見つけてよろよろと倒れ込んだ時には、肩で息をしても酸素が足りないように感じた。
苦しくて右手でぎゅうと胸を押さえる。
痛い、苦しい。
心臓が、呼吸が、脳が。
「大丈夫?」
ベンチに腰掛けてうずくまった背に声をかけられ、アデルはびくりと震えた。
大広間から離れ、誰もいないと思っていたのに。
なんとか顔を上げると、足元に男性が跪いていた。わずかに酒精の匂いがする。
少し長めの柔らかそうなプラチナブロンドに晴れた空のような明るい青の瞳。
着ている服は上等な生地に見えるが、どこの家の青年かアデルには分からなかった。
「はっ、はっ……、っだ、だいじ」
「具合悪そうだね、ゆっくり息して」
「は、は、あの……」
「触れてもいい? 大丈夫大丈夫、僕は医学の心得があるんだ」
首を横に振るアデルを無視して、男はアデルの手首に触れた。脈を診ているような仕草。
それから首元の太い血管も確かめてから、背中をゆっくりさすった。
その手つきは全く遠慮が無く、背中を撫でる手も強い。この人、本当に医者か何かなのかも。
そうしてしばらく背中を強めにさすられていたら、少しずつ呼吸も落ち着いてきた。
むしろ、ちょっと背中が痛い。アデルは顔を上げた。
「あ、あの……」
「あ、落ち着いた? よかったね」
「お見苦しいところを、すみません。ありがとうございます」
「いえいえ、座っていい?」
男は跪いていたところからベンチの後ろに身体を伸ばし、ワイングラスを二つ手に取った。
どうやらアデルを介抱するにあたり、持っていたグラスをベンチ後ろの石垣に置いておいたらしい。
なぜ二つあるのだろう。
片方は空っぽで、もう片方は透明の液体が半分くらい入っている。
「これ飲む? 口付けてないから」
「これは……?」
「ただの水。僕、全然飲めないんだよね、あはは」
男からは酒精の香りがするのに飲めないというのはどういうことだろう。
ただ、ここでグラスを持ってうろうろしているということは、夜会の参加者らしい。
多少謎な部分はあるが、発作で口の中がカラカラである。飲み物をもらいに行くにもまだ少し休んでいたい。
アデルは礼を言い、グラスを受け取って少量口の中を湿らせた。
口の中を噛んでいたためだろう。血の味がした。