15. 自由であること
触れた唇は熱く、情熱的に繰り返される口付けに、脳が痺れる。
行き場のない手で、フランシスの服を握る。浮遊感に足元がふらつきそうになったからだ。
永遠とも思える時間。
この世界、二人だけしかいないような。
「好きだよ、アデル」
ゆっくりと唇が離れて初めて、自分の息が上がっていることに気付いた。
視線を上げると、フランシスは見たことのない表情をしていた。
笑っているような、泣いているような。
「おかしいよね。君を自由にしてあげたいと思うのに、僕のあげた鎖が君の足枷になっているのを、僕は喜んでいる」
「フランシス様……?」
フランシスの指が、アデルの唇を拭う。
「……初めて城の庭で会った時のことを覚えてる? 君は今にも倒れそうな真っ青な顔をしててさ、生きづらそうな子だなと思ったんだよね」
懐かしむような目をしてフランシスが言った。
当然、覚えている。手首に着けている鎖は彼と初めて会ったときにもらった、友だちの印だ。
「話を聞いたら、昔の僕みたいだなって」
「フランシス様ですか?」
「そうそう。僕は責任ある家に生まれたでしょう。でも絶対に敵わない優秀な兄がいて、自分は周りから全く期待されていないっていうのは、幼い自分にはなかなか精神的にきた」
初めて聞く話だ。
フランシスの兄である国王は、昔から非常に優秀であったというのは皆が知っている話である。
国王に弟がいることももちろん知られているけれども、若い頃からずっと留学していたので、社交界でその人柄が話題になることはほとんどなかった。
「子どもの頃は全く兄に追いつけなくて。兄がいるから僕は何しててもいいって空気みたいに扱われるんだけど、それも悔しくてさ。しんどかったなー」
アデルは黙って話を聞いていた。
気持ちが理解出来た。決して超えられない存在が近くにいて、誰にも期待されてないという虚しさ。
アデルの場合は弟と競っていたわけではないけれども、親の決定が絶対だった。
それに逆らえなかった自分自身への不甲斐なさもあった。
「何しててもいいっていうのは自由ではあるんだけどさ、でも本当の自由ではないんだ。突出した優秀さは求められないけど、周囲が考える範囲を超えた行動はしてはならないって見張られている。目には見えない檻があって……」
フランシスの服を掴んだまま、話の続きを待つ。
「でも留学して周りの人や環境が変わってから、もう誰に見られているわけじゃないって気付いたらすごく楽しくなってさ」
「ええ」
「アデルに会った時、君にも教えてあげたいと思ったんだ。自分の周囲だけが世界のすべてじゃないって」
そのおかげでアデルは救われた。
フランシスが手を差し伸べてくれなければ、自分の心を殺して誰かに嫁ぎ、世界を呪って生きていただろう。
「きっとあの時、フランシス様に声をかけて頂かなかったら、わたしは一生変われませんでした」
「そんなことない」
フランシスが首を横に振る。
「君は自分の現状を改善したいともがいていた。複雑な気持ちに折り合いをつけようと努力していた。自分の誇りを保ちたいと葛藤するのは悪いことじゃない」
今度はアデルが大きく首を横に振った。
そんなことない。フランシスに会わなければ、自分はきっと──。
だが、言いかけた言葉を彼が遮る。
「きっと、君は僕と会わずとも、一人でも立ち直れていた。だから君が一人で夜中に来たとき、僕は後悔した。僕が関わってしまったことで、君が自ら立ち直る妨げになってしまったのかもって」
「あ……」
「といっても、あの夜、もう僕のものにしちゃおうかなってよっぽど思ったんだけどねー」
軽い声で笑い、体を離した彼の瞳は、いつものように晴れた空のような色をしていた。
「ずっと言わなきゃと思ってた。でも君との生活が楽しくて先延ばしにしてた」
手首に巻いた鎖を、長い指が撫でる。
「この鎖は捨てていい。アデル、君は自由だ」
「フランシス様」
「放っておけなくてここまで強引に連れてきてしまったけど、王都に帰ったっていい。実家が嫌ならどこか新しい場所へ行ったっていい。自分で選べるんだ。でもね、」
フランシスが言葉を切って、ほんの少し寂しそうに笑う。
「僕は君に、ここにいて欲しい。君が僕を選んでくれたらいいなと思っている」
──そんな顔をしないで欲しい。
ずっと付きまとってきたくせに。
こちらの予定も意志も外聞も全然配慮してくれなかったくせに。
文字通り、強引に連れてきたくせに。
今まで選択肢を与えてくれなかったくせに、最後に選ばせるようなことを言うなんて、なんてずるい人なのだろう。
──これまで通り、こちらの意見など無視して、わたしの人生を奪ってくれたらいいのに。
そう思ったけれど、それではきっと、意味が無いのだ。
目をぎゅうとつむって、あふれてきそうな涙を逃がしてから真っすぐにフランシスを見た。
「わたしはこのままフランシス様と一緒にいたいです」
きっぱりと、アデルは言った。
「わたしが、自分で選びました。フランシス様が、わたしを自由にしてくれたから」
アデルは自信を持って言えた。
つらいこともあったけれど、自分のことが大嫌いなこともあったけれど、でも自分を取り戻すことが出来たのはやっぱり彼のおかげだ。
いままであったことは、決して無駄ではない。
アデルは、今の自分が好きだ。
フランシスがアデルの意思を確かめるように空色の瞳で覗き込んできたので、アデルもしっかりと見つめ返す。それから柔らかく微笑んで、アデルの頬に唇を落としてきた。
そのまま猫のようにすり寄って来たので、くすぐったくて笑い声が漏れた。
「本当に?」
「本当です」
「よかった、ありがとう。嬉しいよ、アデル」
「わたしもです、フランシス様」
温かい手が首を撫で、頬を撫で、耳を撫で、同じ場所を唇が辿るので身じろぎする。
仕返しに、同じ場所にアデルも唇を寄せた。
最後に、互いに相手の唇に触れようとした時。
フランシスのお腹が、ぐぅと鳴った。
「……お腹空いてるんですか?」
「……帰ったらアデルがいなかったからさ、急いで探しに出て、何も食べてないんだよ」
「食べましょう」
名残惜しそうにしたフランシスにくすくすと笑って、アデルは体を離した。
だが、その手をフランシスが引き止める。
「君に見せなきゃいけないものがある」
連れられるままに入ったのは、フランシスの部屋だ。
初めて入る彼の部屋は、城でも見た通り、調度品など何もないシンプルな部屋だった。壁には小ぶりの姿見がかけられているが、それだけ。
フランシスは筆記具が並ぶ執務机の引き出しから、束ねられた手紙を取り出してアデルに渡した。
宛先はアデルだったり、フランシスだったりとまちまちだ。
誰からだろう、とひっくり返して驚いた。
裏面に弟ジェフの名前が記載されていた。
「これは……、読んでも?」
「どうぞ」
弟からの手紙は近況報告を中心としたものだった。
アデルが家を出たことに対してはほとんど触れられていない。
ジェフはもうほぼ伯爵当主としての仕事を始めているようで、領地を行き来をしていること、関係する他家とのことなどが記されていた。
両親のことは記されていない、不自然なほど。
「アデル、君が伯爵家を出た後さ、弟君がご両親にひどく怒ったそうだよ」
「ジェフが……」
「君が家を出たのは両親の判断のせいだって。君のご両親は後悔している。君に手紙を出したいと言っているようだけれどね、弟君は今はそれを止めているってさ」
少しだけ、複雑な気持ちになった。
両親はどう思っているのだろう、なんと言われるのだろう。
今はまだ、素直に気持ちを受け取れないかもしれない。それに自分自身も言葉にするのは難しいかも。
でも、出奔して心配や迷惑をかけたことは事実だ。いずれ、話が出来たらいい。
手紙を手にしたまま黙り込んだアデルを、フランシスは悪戯っぽく覗き込んだ。
「いつか、親を殴りに行かないとね」
「……わたしの方が殴られるかもしれません」
「いいね、鍛えなきゃじゃん。僕がジャッジしてあげる」
想像して、笑ってしまった。
伯爵夫妻と家出娘で殴り合いをする、立ち合いは王弟で? 一気に社交界の噂になってしまいそうだ。
「それもいいかもしれませんね」
「そうでしょう。ま、楽勝だよ。君には味方が多いから」
「参戦する気じゃないですか!」
ふざけてフランシスを叩こうとしたら、手に持った手紙の束からひらりと紙が落ちた。
拾って開くと、見覚えのある書類。
「…………!?」
アデルは目を見張った。
それは父伯爵のサインの入った、婚約証明書だった。
「な……、なぜこれがここに……?」
フランシスが屋敷から連れ出す際に「じゃーん!」と見せてきたものだ。
婚約証明書は貴族同士での婚約の際に署名の上、城に提出する書類である。それがなぜ。
「あー、それ、出してないんだよね」
「えっ!?」
フランシスがこともなげに言う。
「だって、連れてきたはいいけど、アデルがすぐ帰るって言うかもしれないと思ったからさ」
「なっ、そ、そんな……!!」
「家から連れ出す方法を他に思いつかなかったんだよー」
アデルはぶるぶると震えた。
手に持った婚約証明書がぐしゃりと歪む。
「……ということは、わたしは先ほど、婚約者でもない人とあんなみだらなことを……!?」
「えっ、そこ?」
混乱したアデルの手から婚約証明書を抜き取って、フランシスが朗らかに笑う。
「いいじゃん、いいじゃん。僕たちが婚約もしてないなんて、誰も気付いてないって」
「お城には知られてます!」
「すぐ提出するからさ。それに僕たちがここで何したって、誰にも見られてないんだから」
抜き取られた書類が雑に放り投げられて、フランシスの腕がアデルの腰に回る。
「フランシス様って本当に……!!」
「大好きだよ、アデル」
罵ろうとしたら甘い声で返され、アデルはそれ以上言えなくなった。
睨むように見上げれば、美しい空色の瞳に見つめ返され、恥ずかしくなって目を逸らす。
その視線の先に姿見があり、アデルは鏡に映った自分を見て、はっとした。
──いつだったか、ひとりぼっちで青い顔をしていた自分は、そこにはもういない。
「……よかった」
「え、なに、アデル?」
「なんでもありません」
アデルは肩の力を抜いて、フランシスの背に腕を回した。
《 おしまい 》




