14. 自分のことを許してあげたら
フランシスにマフラーを渡してからしばらく経ち、寒い日が続くようになってきた。
昼間は放牧していた羊たちも、雪が降るようになったら厩舎の中で過ごすようになるらしい。
それまではたくさん外で運動させるということで、アデルとルネは管理されている農場に定期的に羊を見に行っていた。
もこもこした体で草を食んだり、じゃれあっている羊たちはとても可愛い。
寒いのか、ルネも羊と同じくらいもこもこに着込んでいた。
「聞いていた通り、随分と寒くなりましたね。春になったら毛刈り出来るでしょうか、ルネさん」
「出来ると思いますよ。ただ、私は直接お教え出来ないかもしれないです」
「?」
「実は妊娠しまして」
にっこりと微笑んで言うルネに、アデルは「まあ!」と感嘆の声を上げた。
「そうなんですか! おめでとうございます!! それでそんなにもこもこなんですね!」
「夫が体を冷やしてはいけないと心配しまして。元気なのに……」
でも確かに寒い中、羊を眺めているというのも体に悪くないか心配になる。そう言うと、ルネは「家にいても退屈ですし、少しは動きたいので」と笑った。
「赤ちゃんですか、おめでたいですね……! 楽しみですね!」
「ふふ、ありがとうございます、アデル様」
ルネはお腹に手をやり、悪戯っぽい顔でアデルを見た。
「アデル様はどうなのですか? まだ婚約者なのですよね?」
どう、というのはフランシスとの関係を指している。
ルネの夫であるロランはフランシスの補佐としてやって来たので、アデルが婚約者という体で連れて来られたことを知っているのだ。
アデルはうーんと口元に手を当てた。
フランシスとの関係は、特に大きな変化なく過ごしている。
アデルは自分の気持ちに気付いたものの、今の関係以上を具体的に想像できない。
フランシスはアデルのことをどう思っているのかはっきり分からないが、アデルとしてはどのように思われていても構わないと思う。
彼にどう思われていようと、自分の気持ちに変わりはないからだ。
王都にいた頃のように、他人からどう思われるかばかりを気にしていた頃からしたら、大きな変化である。
突然『落ち着いたから婚約破棄ね』と言われたら困ってしまうだろうけど、今のところそんな予兆もない。いや、彼のことだから大体予告なしで大事なことを伝えてくるのだけれど。
ただ、今の穏やかな生活をアデルは愛おしく思っている。
「……今はまだよく分かりません。でもここの生活は好きです」
「そうですか、私もこの土地が好きです」
ルネはそれ以上言及せず、視線を羊たちに戻した。
季節が巡れば、いずれ関係性が変わるのかもしれない。
でも今はまだ、この落ち着いた生活に浸っていたいと思った。
その日の夜である。
フランシスの帰りが遅くなり、アデルは先に一人で食事を摂った後、急に家の扉が叩かれた。
夜に訪問者は珍しい。
恐る恐る出ると、家畜の管理を任せているカルロスという近所の酪農家であった。
「こんばんは、カルロスさん。なにかありましたか」
「ああ、奥さん、夜分にすみません。実は羊が一匹帰ってこなくなっちまいましてね」
「まあ!」
「体の小さいやつなんで外で夜を越すのは厳しいかと思ってこれから探しに行くんですが、万が一なにかあったらと先にご報告を」
「待って、わたしも行きます」
慌てて外套とランプを持ってくると、カルロスがそれを止めようとした。
「いけません、夜は危ないですよ」
「ランプがあるから大丈夫です、もうかなり土地勘もありますし。人手は多い方がいいでしょう」
外に出ると、辺りにはほとんど灯りが無い。
カルロスの後をついて羊小屋に行く。やはり羊が一匹戻っていなかった。
「どこかで怪我でもしたか、迷っちまったかですかね。奥さま、他に応援を呼びますか?」
「……いえ、まずは私たちだけで探しましょう」
フランシスはまだ仕事中だし、近くに住むロランも同じだ。ルネも身重で呼ぶことは出来ない。
カルロスの家族たちも協力してくれるといい、手分けして探しに行くことにした。
「獣は出ませんがね、お気をつけてください」
「分かりました」
明るい時間帯なら、ルネと一緒に森に何度も入ったこともある。
そのため一人でもランプさえ持っていれば大丈夫だろうと思っていたアデルだが、真っ暗の森は予想以上に不安になった。
風が木々を揺らし、冷たい空気が肌を撫でる。心細い。
森の中は人が通れるように草木が分けられて一本道になっている。その道を、アデルは耳をすませながらゆっくり進んだ。
きっと王都の伯爵家にいた頃だったら、自ら夜の森に入って家畜を探すというようなことはなかっただろうなとアデルは思った。
何かトラブルがあったとしても、自分は責任者として屋敷に待機し、実際には他の人に動いてもらっているはずだ。自分以外の誰かに。
しかし、いまは自分もこの土地に住む一人として、それに家畜の管理を任せている責任からも、自分も探さなければならないと感じていた。当事者意識が昔とは変わってきている。
状況も立場も違うから、過去の自分であればしたであろう判断が間違っているとは思わない。
けれど、今の自分の方が好きだなと思った。
音に気を払いながら注意して進んでいると、森の中からかすかに鳴き声が聞こえた。
声のした方にランプをかざしてみるが、羊の姿までは見えない。そちらに入っていくには道を外れるしかない。
アデルは左手首に着けていた、金色の鎖を外した。
お守り代わりに着けていた、フランシスからもらった懐中時計の鎖だ。
それを目線の高さの枝に引っ掛け、ランプをかざしながら森に入って行った。
羊はすぐに見つかった。
木々の間のくぼみで座っており、確かにカルロスの言ったように体の小さい羊だ。アデルの姿を見つけ、より大きな鳴き声を上げた。
「よしよし、大丈夫? 迷ってしまったの?」
返事をするようにメェと鳴いた羊の顔を撫でる。
見たところ、大きな怪我はなさそうだが、動こうとはしない。
「抱えて戻れるかしら。ちょっとごめんね」
羊の体の下に手を入れて持ち上げて少し進もうとし、よろめいてすぐに下ろした。
想像以上に重たい。それに羊が暴れてしまう。体が大きくない羊とはいえ、抱えて帰るのは難しそうだ。
「きっとすぐに灯りに気付いて、誰かが来てくれるわ。一緒に待ちましょう」
羊の隣に座り、体を撫でる。
先ほど一人で森に入った時は非常に心細かったのに、羊と一緒だというだけで、不安は薄れた。言葉も通じないのに。
しかしアデルに反して、羊は不安そうに見えた。落ち着きなく首を振って周りを見回している。
「わたしじゃダメだというの? ま、カルロスさんじゃないものね。分かってるわよ」
アデルは羊の体を撫でながら、歌を歌った。
子どもの頃、母が歌ってくれた子守唄。自分も母に同じように撫でてもらった。
──家族は元気だろうか。
家を出てきてしまってから、初めて思い至った。これまではあえて思い出さないようにしていた気がする。
両親にも、弟にもきっと心配をかけた。
いつか、ちゃんと話ができたらいい。
許してもらえないかもしれないけれど。
「あー、いたー!」
ガサガサと草木を分け、フランシスとカルロスが顔を覗かせた。
見つけてくれるとしたらカルロスの家族だと思っていたので、アデルは驚いて目を丸くした。
「フランシス様、お仕事は?」
「終わったよ。帰ったらアデルがいないから、びっくりして出てきたの。そしたらみんなで羊探してるっていうからさ」
カルロスが羊の様子を見て、「足を挫いたようですね」と言う。それからひょいと羊を抱えた。
「奥様、ありがとうございます。それから申し訳ありませんでした」
「いいえ、こちらこそ、いつも世話を任せきりでごめんなさい。助かっています」
「アデルは怪我ない?」
フランシスに問われ、手を借りて立ち上がると、手に金色の鎖を落とされた。
目印になるよう、枝に引っ掛けたものだ。
「これのおかげでいる場所が分かったよ」
「それはよかったです」
鎖を受け取って手首に着け直す。
すると、手を取られたまま、フランシスにじっと見つめられた。
「フランシス様?」
「……それ、まだ持ってくれていたんだね」
「あ、お守りみたいになってしまって」
「…………」
アデルが手首に着け直した鎖をフランシスはしばらく見つめた。繋がれている手の力が強くなる。
「……フランシス様?」
「帰ろう」
森を出て、迷っていた羊を小屋に戻す。羊の怪我の具合は軽いらしく、みんなでほっとした。
カルロスと彼らの家族に礼を言い、暗い道を帰った。
フランシスと、手を繋いだまま。
会話はない。
いつもは賑やかなくらい饒舌なフランシスが、一言も話さず、アデルの手を引く。
どうしたんだろう。顔は見えないけれど、怒っている様子とも違う。
普段と違う雰囲気に、アデルは口を開けなかった。
「あの、フランシス様……」
家に着いて扉を閉めて直後──。
扉に押しつけられるように抱きしめられ、アデルは息が止まった。
背中に回っている彼の手が、髪を撫で、頬を撫で。
唇に触れたかと思ったらそれを唇で塞がれて。
アデルはそっと目を閉じた。




