12. 変化
「人手が足りなくてさ! アデル、役場に一緒に来てよ」
フランシスにそう言われたのは、引っ越してきて一ヶ月が経った頃だ。
生活にもだいぶ慣れ、住み込みだった家政婦は通いになった。
アデルは家政婦に頼まれたおつかいや簡単な家事をしたり、ルネと会ったりしてのんびり過ごしている。
フランシスは相変わらず決まった時間に家を出ていく。
そんな中、突然役場に来るよう頼まれたのは天気の良い朝だった。
「今日は新しく来た羊をルネさんと見にいく予定なんですが……」
「羊は逃げないでしょ!」
「逃げちゃうかもしれないじゃないですか」
「逃げないから! ちゃんと柵があるから! ね、忙しいんだよ、手伝ってよ」
懇願してくるフランシスに、ここに来る前にも「人手が足りない」と言っていたことを思い出した。
そういえば自分が連れてこられたのは、人員補填の意味もあったのではなかっただろうか。
「……そんなことも仰ってましたね」
「ね、そうそう! 服はそのままでいいから今日は一緒に行こう!」
毎度そうなのだが、なにかを提案する際には事前に知らせてほしい。
いや、彼に対しては言っても無駄か──といういつもの感想を胸にしまい、アデルはフランシスと馬車に乗り込んだ。
フランシスが通っている役場は街の中心にあった。
街には買い物に来ることはあったが、商店のあるエリア以外には出入りしたことはない。
この街は家も路も明るい色で塗られているのに、役場は殺風景な外観だった。
そして中に入ると、その印象がより増した。
フランシスは調度品に興味がないようだが、職場でもそうらしい。
絵画も飾られていない廊下を抜け、フランシスの名が書かれた領主の部屋らしき扉の前も通り過ぎる。
「このお部屋では仕事しないのですか?」
「移動時間が惜しいからね」
フランシスがそう言って、廊下の突き当たりの大きな扉を開けた瞬間、アデルは圧倒された。
王太后のサロンの三倍はあろうか。
だだっ広い部屋に長机をいくつもくっつけて二列。ざっと見ても三十人以上もの人たちが仕事をしていた。
フランシスが「おはよー」と言うと、あちこちから元気な挨拶が返ってくる。領地は赤字と言っていたけれど、ずいぶんと活気のある役場だなとアデルは感じた。
働いている人たちの中にはロランがいて、アデルに気付いて駆け寄ってきた。
「アデル嬢、ご無沙汰してます」
「ロランさん、お久しぶりです。いつもルネさんにはお世話になっています」
「今日は? 連れてこられてしまったんですか?」
「ええ、人手が足りないだとかで」
「雑用させられますよ」と苦笑してロランが席に戻る。
フランシスは一つの島の一番端の机に向かい、『未決裁』の書類の山を見て、うんざりという顔をした。
「アデル、僕はこれからこの書類を片付けていくからね、終わったやつを分類して担当に戻していってくれる」
「分かりました」
フランシスが目を通して捺印していった書類を分類して、ある程度溜まったら同室で仕事している担当者に戻していく。
しばらくそんなことを繰り返していたら、フランシスが「打ち合わせ行ってくる」と言うので、役人たちの邪魔にならないように広い部屋の掃除をした。
その間にも『未決裁』書類が溜まっていくので、見やすいように分野ごとに分けた。
するとその中の書類で計算間違いを見つけたので、おそるおそる担当者の元に持っていく。
「あのこれ、差し出がましいかもしれませんが計算を確かめられた方が良いかと……」
「えっ…………、本当だ! ありがとうございます!」
担当者が頭をぺこぺこと下げるものだから恐縮したものの、直すのを待ってからまた書類を受け取る。
他にも、たくさんの書類をあたふたと一人で冊子にしている人を手伝ったり、資料運びに手を貸したり。
そんなことをしていたら、あっという間に一日が終わった。
フランシスが「明日からも一緒に来てね」と言うので、アデルはそれからなし崩し的に役場に通うようになった。
基本的にはフランシスのそばにいて、彼の仕事の雑用をこなしたり、部屋の片付けをしたりすることが主だ。
そうしているうちに役人たちから「間違いがないか確認してもらえないか」「重要書類なので清書してもらえないか」などというお願いを受けるようになった。
時にはフランシスの打ち合わせに同行したり、そこで議事録を取ったりすることも。
完全に雑用係ではあるが、それでもただ居候でいるよりかはいいはずだ。
アデルはそう思い、日々仕事をこなしていった。
フランシスの仕事ぶりを身近で見るようになり、気付いたことがある。
彼は悪くない、いや、かなり良い領主だということだ。
王族だというのに気取ったところはなく、金銭感覚も庶民に近い。
華美な服は着ないし、調度品にも興味はない。家政婦の作る家庭料理を美味しい美味しいと喜んで食べる。
貴族の暮らしに比べたら貧乏生活といってもいいくらいなのに、それを楽しんでいる様子でもある。
この領地は城の管理費が膨大で赤字だったと言っていた。
その城に領主が住まなくなって、いまは財源をどのように分配して赤字を解消するか、役人たちと苦心しているようだ。
休みの日には護衛もつけず街をふらふらし、領民とおしゃべりし、近所の酪農家に管理してもらっている牛と羊を見に行っている。
アデルは役場での仕事を手伝うようになってそれなりに忙しくはなったものの、それでも基本的にはのんびり過ごしていた。
役場に行く日はフランシスと一緒だが、休みの日にアデルが何をしているか、彼は相変わらず興味なさそうである。
アデルは街に出ると「奥さん」と言われるようになった。
まだ婚約者であるわけだが、特に否定はしなかった。一緒に住んでいるのだし、妻に見えて当然だ。
ただ、少し前だったら嫌な気分になってたかもしれないなと思う。自分のことを決めつけられるのが嫌だったからだ。
いま、そのように思わないことで、アデルは自分の中の変化を感じていた。
自分や他人がどうあれ、小さなことはあまり気にならなくなったのだ。
影響していることは二つある。
一つは、貴族の生活と比べて、極端に他者との交流・社交が少なくなったことだろう。
ここではお茶会もないし、パーティも開いていない。他人の噂話が耳に入ることは少ないし、そもそも皆自分の生活に忙しくて、他者を気にしていないように見える。
アデルが女伯爵を外された出来損ないの娘であることなんて誰も知らないし、知ったとてさほど興味を示されないだろう。
二つ目は、自分も含め、完璧な人間なんていないということがだんだん分かってきたことだ。
この街の人々は、一人では生活出来ないことが分かっている。だから隣近所と協力して生活している。
役場の人たちだって仕事で間違いをすることもあるし、それらの失敗を互いにフォローし合っていた。
思い返せば、貴族である人々だってそうなのだ。
彼らは隙がない完璧な人格のように見えるけど、けして一人では自活できない。
アデルの両親だって、よく考えたら完璧な人物ではなかった。だって両親に生活能力はないし、娘との関係構築には失敗したのだから。
貧乏領地で平民とほぼ同じ生活をしている中、この生活は意外と自分に合っているのかもしれないとアデルは思った。
今は、自分の態度や言葉がどのように受け取られるかさほど神経質にならないし、以前ほど人の目が気にならない。
もう、一ヶ月以上も発作を起こしていないのだ。
♦︎
社交シーズン終わりかけに引っ越してきてしばらく経ち、寒い季節になってきた。
特にこの地域は冬は雪が降って王都よりずっと寒くなるらしいとルネが言う。
「私たちも冬を越すのは初めてですが、かなり寒いようですよ。防寒着お持ちになりました?」
「一応持ってきたのですが、マフラーでも編みたいなと思っていて。羊は毛をもう刈れますか?」
越してきた頃に、羊を飼い始めたら毛刈りしようと約束していたのだ。
だが、ルネはうーんと首を傾げた。
「羊の毛刈りは春先なんですよ。だから今年はまだ無理ですね」
「あ、そうですよね。いま刈ったら羊も冬が寒いですもんね」
「ふふ、そうですね。でも街に毛糸は売ってるので買えますよ」
アデルは街の日用品店に行き、白とグレーの毛糸を買った。
それから、寝る前に少しずつ編んでいった。
しばらく編み物はやっていなかったが、元々得意だ。指が覚えていて、さほど凝っていない柄のマフラーは本格的に寒くなる前には出来上がった。
同じ柄で二本。アデルと、それからフランシスの分も。
夜、食事を終えて部屋に戻ろうとするフランシスを呼び止め、アデルは出来上がったマフラーを廊下の真ん中で渡した。
フランシスはマフラーを手に取ったまま、きょとんと目を丸くした。
「なにこれ?」
「マフラーです。寒くなると聞いたので」
「…………」
「…………」
フランシスが手に持ったものに視線を落としたまま、固まってしまった。
どうしよう。嫌がられてしまっただろうか。
知り合いの手作り品を忌避するタイプだったのだろうか? それとも色合いが白とグレーで地味だったとか?
「あの、すみません。必要なかったら」
「これ! 僕のためにアデルが編んだの!?」
「そうですが……」
「うわーーーー!!!! 嬉しい!!!!」
歓喜の声を上げたフランシスががばりと抱きついてきたので、アデルは息が止まった。
強い力でぎゅうぎゅうと抱きしめてくる。
初めて会った、発作を起こした時もそうだったが、彼は力加減に遠慮がない。あの時は背中をさすってくれたが、それもずいぶんと力が強いと感じたのを思い出した。
「あ、あの」
「すごい、嬉しい! ありがとう!! 嬉しい!」
「むむむ……」
アデルが目を白黒させながらフランシスの腕を叩くと、ようやく腕が緩んで解放された。
「わー、すごいね、こんなに綺麗に編めるなんて!」
「大したものではないんですが……」
「いやー、上手だよ!」
フランシスが手にしたマフラーをにこにこと撫でている。
たかが簡単なマフラーをちょっと編んだだけでこんなに喜ばれるとは。
王太后のサロンに出入りしていたのを見ているのに、手芸が得意なことを知らなかったのだろうか。
「一体フランシス様ってわたしのことをどう思ってるんですか……」
「え? 好きだよー!」
「はっ…………!?」
もしかして全く手芸など出来ないと思われていたのでは、と思っての発言だったが、予想外の回答が飛び出て、アデルは目を剥いた。
「嬉しいー、大切にするね!」
硬直したアデルに気にせず、フランシスはマフラーをぎゅうと抱きしめたまま自室に向かっていった。
スキップでもしそうなほど、その背中は確かに嬉しそうに見えた。
「……………………戻ろう」
アデルも混乱したまま、くるりと振り向いて自分の部屋へ向かう。
自室へ入って扉を閉めて、一歩。
立ち尽くしたまま、頭を抱えた。
──いまあの人、わたしのこと好きって言った??




