10. 誰のことも好きじゃない
五日、引きこもった。
部屋から一歩も出ず、家族からの呼びかけにも扉を開けなかった。
一日目は扉の外から心配した声をかけられた。
二日目は少し怒ったような声になった。
三日目の朝に強く扉を叩く音が続いたが、しばらくしたら止んだ。それから音は聞こえない。
心配した侍女が夜中に部屋の前に食事を置いておいてくれたので、水分とわずかな軽食だけ口にした。
アデルの思考はぐるぐると巡っていた。
結局のところ、自分は子どもなのだ。
母の言っていたことは正解だ。
次期伯爵から外れたことへの不満を心の奥に抱えていた。そこから体調を崩した。
言いたいことが言えなくなって、将来が見通せないことに絶望していた。
フランシスと過ごすうちに、少しずつ周囲が見えてきて、発作を起こすことなく過ごせるようになってきたことに浮かれていた。
母に詰問された夜、言いたいことはたくさんあった。
反対したかった。否定したかった。
次期伯爵として、これまで頑張ってきたこと。
出来ることもあること。侮られたくないこと。
これまでの自分を貶されたくないこと。
でも口を開けなかった。
フランシスのことも悪く言われ、傷付いた。
彼のおかげで生きていくためのヒントをたくさん得られたのに。恩人なのに。
なにより、彼を悪く言われたまま母に否定できなかった自分自身にがっかりした。
勢いのままにフランシスのところへ行ったのは、母を裏切りたかったからだ。
何も出来ないと侮られている娘でいたくない。
母に対し、何も分かっていないくせにという怒りが、フランシスの元へ向かわせた。
貴族未婚女性にとって貞淑は非常に重視される。
王弟とそのような関係になることで、アデルは母の思い通りにならないということを証明したかった。
単純なことだ。
フランシスを利用しようとした。
初めて会った時、フランシスは言い寄ってきた女性に体のみの関係を仄めかして叩かれていた。
そのため、不特定の女性と愛人関係にあることに抵抗がないのではないかと。頼めば、望みを叶えてくれるのではないかと。
「自分じゃない何者かになりたい」と言ったことで、アデルの目的をフランシスは知っただろう。
彼を利用するためにここに来たと。
それに対して、彼は傷付くと言った。
望むなら応えるけど、利用されるのは傷付くと意味していた。
それは、フランシスがアデルにきちんと向き合ってくれているという言葉に他ならない。
その言葉でアデルは気付いた。
自分は周りから決めつけられたくないのに、自分がされて嫌なことを恩人に対して何の躊躇も無く、してしまっていた。
自分が未熟で、浅はかで、とんでもない愚か者であることに気付いた。
自己嫌悪したってどこにも行く場所はなく、結局家に帰ってくるしかない。
そして一人引きこもり、時間を虚無にしているだけである。自分の思い通りにならないから拗ねている子どもと変わらない。
それでも、今後、どんな顔をして生きていけばいいのか分からない。
♦︎
五日後である。
にわかに廊下が騒がしくなって、侍女たちの慌てるような声が聞こえた。
すぐに扉を叩かれた。
始めはトントントンとノック。
次第に強くなり、ドンドンドンと拳で叩きつけるように。
「アデルー!」
聞き覚えのある声にびくりとして、横になっていたアデルは体を起こした。
まぎれもなく、フランシスの声である。
あまりにも娘が出てこないものだから、両親が彼を呼んだのだろうか。
だが、あんなことをして、顔を合わせたくはない。そのうち諦めるだろうとアデルは布団を被った。
しばらくは扉を叩く音と呼びかけが続いたが、そのうちぴたりと止んだ。諦めたのだろう。
ほっとしたのも束の間──。
ドスンという聞き慣れない音と、侍女の悲鳴。
音が続き、「おやめください!」という叫びが響く。
尋常じゃない様子に、アデルはおそるおそるベッドを出た。
一体何なのだ?
まるで、斧で木を切るような──。
はっとしたアデルは、扉へ駆け寄ってガチャリと鍵を開けた。
「おっ、開いた」
開いた扉の向こうにはふわふわ金髪で爽やかな顔のフランシスと、顔面蒼白の侍女たち。
そして扉には、斧が深々と刺さっていた。
フランシスはアデルのことを上から下まで見て、朗らかに言った。
「わあ、馬の前髪みたい」
「いま、あなたに一番会いたくないって分かりませんかね?」
五日前に部屋に逃げ込んですぐに自分で切り落とした髪は、肩より上で長さがまちまち。あちこちで段々になっており、ひどい有様だ。
もう五日も湯を浴びていないし、ずっと横になっていたので、アデルの髪は前衛的なかたちになっている。
しかしフランシスは全く気にする様子なく、「よいしょ」と扉に刺さった斧を抜いた。
「なんで? あの夜のこと気にしてるの? 僕は全然気にしてないよ」
「気遣って下さっているようなら結構です」
部屋から現れたアデルを見て、侍女たちが廊下を駆けていく。両親を呼びに行ったのだろう。
侍女たちの背中を見送って、フランシスが言った。
「別に気遣ってたわけじゃないけど、でも君を心配してる人たちもいるよ」
知っている。
両親も、弟も、王太后も、これまでの知り合いも、屋敷の使用人も、それ以外の人たちも。
しかし、心配しているのは本心だろうか?
アデルの事情を知って、興味本位で近付く人もいたのではないか?
無能で不出来な女を見て、優越感を得ようとした人は?
表面的な言葉の裏にある本心は?
アデルにはもう分からない。
「わたしに同情する人も、そうじゃない人も、わたしを評価する人すべて、誰のことも好きじゃありません」
体が震えた。
この五日間、ずっと考えていたこと。
「でも、一番嫌いなのは自分自身でした」
もう、体に力が入らない。
涙も出ない。
「…………生きている価値もない……」
少ししてフランシスが口を開いた。
「それは、修道院に行くってこと?」
ぼんやりと、それがいいかもしれないと思った。
この五日、今後どうしたいかまで考えていなかった。けれど、長かった髪も衝動的に切ってしまったし、このまま修道女になるのがいい。
そうすれば煩わしい俗世のことから解放されるし、自分自身のことを呪わず、神に祈って穏やかに生きられるかも。
「考えていませんでしたが、いまフランシス様に言われてそれがいいと感じました」
すると、フランシスがにっこりと笑った。
「じゃあさー、全部捨てて僕と北に行こうよ」
「は……?」
修道院に行くと言った矢先に、なぜ急に北に行く話に──。
怪訝な顔をしたアデルにフランシスが続ける。
「後継のない北の領地を継ぐことになったんだよね。牛と羊飼うの。ね、だから一緒に行こう」
「なぜ…………?」
「修道女になるのとだいたい同じじゃん」
「えー……?」
修道女になるのと酪農は大体同じだろうか……?
確かに修道院では鶏を飼って卵を食料の足しにしたり、菜園を管理したりしているけれども。
答えあぐねていると、フランシスは「ちょっと待ってて」と言って踵を返した。そのまま廊下を進んでいく。
よく分からないが、アデルは部屋の中に戻って荷物を詰めることにした。
修道院に行くなら早い方がいい。
いつまでも引きこもっていたら、家族にも屋敷の使用人たちにも迷惑になる。いや、すでに迷惑かけていることは自覚しているけれども。
女子修道院なら急に訪れても保護してくれるはずだ。
しばらくてきぱきと必要な荷物を詰めていると、フランシスが戻ってきた。
斧で傷付けられた開けっぱなしの扉から遠慮なく入ってくる。
「じゃーん! アデル見て、婚約したよ!」
「は……?」
振り向いたら、フランシスが一枚の紙切れをどんと掲げている。
言葉が呑み込めず、目を細めて紙を見ると、なんと婚約証明書であった。
アデルはぎょっとして、フランシスから紙をひったくった。
婚約証明書とは、貴族同士が婚約の際に城に届け出る書類である。
しかも手元の紙には、すでに父伯爵のサインが入っているではないか。
「な、な、な、な」
「君のご両親に、娘が修道女になるか僕と婚約するかどっちがいいか聞いたら、婚約の方がいいってさ」
「な、なななんてことを……!!」
紙を見つめたまま、体がぶるぶると震えた。
「いいじゃんいいじゃん、どうせ修道女になると考えたらどこ行ったって同じでしょ」
「お、おおお同じ……!?」
「大丈夫、大丈夫。なんとかなるって」
「その言葉、信用できません! フランシス様って本当に……!!」
汚い言葉で罵ろうとしたら、フランシスが手を合わせて拝んでくる。
「ね、頼むよ! 人手が足りないんだってば」
「それが理由なんじゃありませんか!」
「落ち着いたら婚約破棄してあげるからさ」
『落ち着いたら婚約破棄』という謎ワードにめまいがしてふらつく。無茶苦茶だ。
するとフランシスは「外で待ってるから早くね!」と、部屋からさっさと逃げていった。
「もう……」
流されたような気はするが、もういい。あの人は言っても聞いてくれないのだ。
それに一度決めたのだし、婚約しようが、それが破棄されようがどうでもいい。
気を取り直して荷造りしていたら、フランシスと初めて会った時にもらった、懐中時計の鎖が出てきた。
友だちになった印。
アデルは少し考えて、それも荷物の中に入れた。




