1. うまくいかない
アデルは出来る限り会話の内容から意識を逸らそうと、握り込んだ手のひらに爪を立てた。
しかし新調したレースの手袋が爪を遮り、痛みを与えるほどにはならない。
目の前の男が得意げに話す。
「果樹園の事業を輸出につなげたのは正直、自分でもよく思いついたなと思っているんですよ」
「流石でございますね。きっかけは何だったのですか?」
「保蔵技術の視察ですね。今、かの国では王侯貴族も食しているそうですよ」
「まあ……、知りませんでしたわ」
「ここだけの話ですがね……、昨年だけでこれほどの売り上げで」
「そんなに! すごいですわね!」
男が金額を示した指になんとか焦点を合わせ、大きく頷いて見せる。すごいと口では言ったものの、桁も分からないし頭の中はそれどころではない。
頷いている間にも動悸が激しく、息苦しくなってきた。黒髪を結い上げた頭が重い。
口の内側を噛むが、相槌のためにずっとそうもしていられない。
荒い息をいよいよ誤魔化せなくなってきて、アデルは視線を外した。
「申し訳ありません、ちょっと失礼しますわ。お話楽しかったです」
不自然じゃなかっただろうか。
男の反応を確かめる余裕もなく背を向け、外へ続く扉へと早足で向かった。
人気のない場所まで隠れるようにやって来て、ようやく詰めていた息を吐く。
「はっ、はっ、はっ……、うぐ……」
気管が詰まって、あえぐように息を吸う。
大丈夫、ここにはもう誰もいない。落ち着いて。
自分に言い聞かせて、柱に身体をもたれる。コルセットが苦しい、外したい。
けれど体調不良で休憩室を使わせてもらったりしたら、どこか体が悪いのではないかと噂になってしまうかも。
そうしてしばらく呼吸することに集中していたら、ようやく落ち着いてきた。
アデルは近くにあったベンチによろよろと腰を下ろし、脱力した。
「はあ、はあ、はあ……、ふう……」
情けなくて涙が出た。
♦
アデルは元々、実家のシャグラン伯爵家を継いで、女伯爵になる予定であった。
継承権が優先される弟がいるものの、この弟が幼い頃から武術に大層秀でていた。
あまりにも心身が強く優秀なことから、いち貴族として終えるのは惜しい、国のために働いた方が良いと王族からも請われ、弟は騎士になっていた。
そのため、アデルは弟の代わりに家を継ぐことが早い段階から決まっており、勤勉に生きてきた。
領地の経営を学び、父の仕事を見て、アデルでも出来る仕事は積極的に行ってきた。
次期伯爵としてそれなりに忙しい日々を送っていた。
それが予定変更となったのは数ヶ月前のこと。
弟が勤務中の事故によって片目を失い、騎士として勤めることが出来なくなったため、家に帰ってくることになったのだ。
両親だけでなく、騎士、王族たちまでもが非常に残念に、そして弟を不憫に思った。
弟自身も輝かしい未来が閉ざされてしまったことに消沈していた。
父伯爵は悩み、伯爵家の将来展望について検討した。
結果、傷ついて帰ってきた弟を次期伯爵とし、姉であるアデルはどこかに嫁ぐことになったのである。
父伯爵には一度だけ、謝られた。
「アデル、ジェフに継がせることにした。今までやってきてもらって悪いが、仕事はジェフに引き継いでほしい。嫁ぎ先はいいところを探そう」
いずれは婿を取る予定だったが、それよりも女伯爵となる勉強や執務を行ってきたアデルにはまだ婚約者はいなかった。
急きょ、結婚相手を探すことになり、あちこちの夜会に出始めたのが最近のこと。
それが結婚相手を探す前の段階で、こんなに苦労することになるとは。
アデルは、すぐに結婚相手が見つかるだろうと考えていた。
艶やかでまっすぐな黒髪と、落ち着いた色の蒼い瞳。顔立ちも綺麗だと言われることが多い。
婚姻相手を探すための夜会にはあまり出ていなかったものの、社交は行っていた。
将来女伯爵になるということもあり、国王の母である王太后からも目をかけてもらっている。
知識を元とした対話コミュニケーションは得意な方だ。
だから、二十四歳という半ば行き遅れの年齢であっても、すぐに相手が見つかるであろうと。
しかし、である。
得意だと思っていた他者との会話がままならない。
相手の話に耳を傾け、適切な返答をしているはずなのに、最中、突然喉が詰まったかのようになってしまう。
耳の後ろまで響くような動悸と息苦しさ。倒れてしまうのではないかと。
始めは心臓の病気なのではないかと考えた。
だが、一人の時には平気なのだ。誰かと会話──特に世間話している時にその症状が起こる。
つまり、精神的なものなのだろう。
ベンチに腰掛けたまま、アデルは天を仰いだ。
何事も無難に、上手に、失敗なくこなしてきたつもりであった。
アデルは賢くてお利口ね。そう言われて育ってきたのに。
女伯爵にならないことになってしまったので、どこかに嫁ぐことは既定路線である。
だが、人とまともに話も出来なくなってしまい、アデルはもはやこれから先の人生に希望が見出せずにいた。