香川さんの場合編 : キモチと、きもちと、気持ちと、
「ねぇ、今日も帰りは遅くなるの?」
「ああ、ごめんね。先に寝ていてもいいから。」
私はその日もいつも通り朝6時に家を出た。玄関で私を見送るのは妻の真奈美。
さっきの春原君の話を聞いて、君と私は似ていると思ったんだ。なんと彼女も僕が大学生の頃何度もアプローチして付き合った人だったんだよ。
社会人になって一年目で私達は結婚した。子どもができたんだ。今で言うできちゃった結婚てやつなのかな。
学生から毛が生えた程度の私達だったからね。結婚当初は本当にお金がなくて。私はなんとか彼女を楽させてあげたくて必死で仕事に打ち込んだ。
毎日毎日。何年か経った時に仕事がうまく軌道に乗り出してね。それなりに楽をさせてあげられるお金を家に入れられるようになっていたんだ。
ただそれに比例して家に居られる時間はどんどん少なくなっていてね。帰りも遅くなって12時を過ぎるなんて当たり前だし、休日も仕事をするようになった。
妻は私がどんなに空けるのが遅くても起きて待っていてくれた。それが嬉しくて私は余計に頑張った。
「今度の日曜日休み?」
「仕事なんだ」
「そう…頑張ってね!」
申し訳ないように言うと、妻はいつも笑顔でそう言ってくれたなぁ。ただ笑顔の前に寂しそうな顔をしてね。それが申し訳なかったよ。そんな日が何年も何十年も続いてね。
そして最近、私が、死んだ時だね。
その日の朝もいつも通り6時に家を出ようと思ったんだ。いつもなら妻は笑顔で見送ってくれるんだけどね。その日は違ってた。泣いていたんだ。
驚いたよ、同時に怒りもこみ上げたよ。誰だ!私の大切な人を泣かせたのはぶん殴ってやる!ってね。
慌てて駆け寄ると妻はしきりにごめんなさい、ごめんなさい、って言っているんだ。いったい何のことだがさっぱりわからなくてね。
泣いている妻に駆け寄ると、お腹にドスっていう衝撃が走ったんだ。
生温かい感触が広がっているな、と思って下を見ているとお腹に包丁がささっていたんだ。
何のことだかさっぱりわからなかったよ。だってその包丁の先には妻の手があるんだから。
そのまま血を吐きながら私は倒れたんだ。
倒れた私にすがりつきながら妻はごめんなさいと繰り返している。薄れていく意識の中で私は声を絞り出したよ。
「僕…が嫌…いに…な…たの?」
妻は首を振って掠れた声で答える。
「ちが…ちがう…好き…大好き……。だからごめ…んなさい」
「ど…う……て」
「ごめんなさい、もっと…わたしの傍に居て。わたしを見て…。仕事じゃない、私を。ずーっと、ずーっと大学生の頃より、結婚した頃より、子どもが生まれた頃より、、、あなたが好き…なの、30年経った…今でも…だから…寂しいの、苦しい…の。ずっとずっと我慢してきたけどもう笑顔でいれないの。ごめんなさい、ごめんなさい」
泣きながら話すから途中が掠れかすれになるし、意識も遠ざかっていくからよく聞こえなかったんだけど、どうやら嫌われたみたいじゃなかったんだ。
そこは本当に安心したよ。それでも妻を泣かせている原因は自分にあった事だけはわかってね。
これは本当に困った、妻のために、妻のためにと思ってやってきたことが結果、苦しめることになっていたなんて。僕は自分で自分を殴らなくてはいけないみたいだ。
ダメだ。意識が遠くなっていく。妻の泣き声も遠くなってきた。自分を殴ることはできなさそうだ。ああ、泣いている。僕の胸で泣いている。何か言わなきゃ、彼女の涙を止めなくちゃ。
「気づ…なくてごめ…ん。僕も…ずっと…」
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「というわけさ。今思えば、私は彼女の笑顔を見たかったはずなんだけどね。
どうしてなんだろう。ここ数年の記憶は少し難しい顔をして笑っている妻しか
見ていないな。僕は間違ったんだろうか。」
「……。」
俺は無言で泣いていた。なんで涙が出るんだろう。何て答えたら言いかがわからない。
ご愁傷様でした以外にもっと人をいたわれる言葉はないんだろうか。
「泣いてくれてありがとう。同情でも嬉しいよ」
香川さんは優しく微笑みながらそう言った。
「同情なんかじゃないです!これはなんていうか、何だろう、寂しいのか。ああ、もうとりあえず絶対、同情ではないです。その…なんだろ、一つ聞いてもいいですか?」
どうぞ、と目で促される。
「奥さんが…憎くはないんですか?」
香川さんは目線を斜め上に上げて少し考えるしぐさをした、随分と長い間考えた後で
「それがね、全然。むしろ妻をそこまで追い込んでしまった自分が許せないくらいだよ。」
「…そうですか」
なぜだろう、寂しさと同時に温かい気持ちにもなるのは。