忘れたい記憶
宇草琴遥。女。十三歳。中学一年時の事であった。父の転勤で引っ越した彼女は受験制度を用いて私立の中学へ通っていた。
そのため電車通学であり、琴遥の部活上、帰宅が七時を越してしまった時である。
がたんごとんと揺れる電車の中には乗客は少なく、暗くなった外は建物の光が少ないここでは窓からぼんやりとしか風景が見えない。すぐに暗くなったのは秋であるためである。長袖を着た乗客が多く、琴遥のセーラーの制服も長袖のものとなっていた。
琴遥は英語の単語が流れるイヤホンをつけ、ぼんやりと窓の外を眺めていた。母の勧めで新体操とかいう部活に入ったのだが毎日練習漬けですでにぐったりとしていた琴遥は急に強い睡魔に襲われたのだった。
一方同じ電車に乗っていた乗客には会社帰りの社会人などもちらほら乗り始めた。栗原実もその中の一人であった。
「……眠いな。」
そう栗原は呟くと大きくあくびをして目頭を押さえた。
気づくと居眠りをこいており、時計そして現在地を確認すると頭が痛くなった。ヒリヒリする腹をさすってあたり
を見渡すと、自分ともう一人制服の少女が眠っているのに気づいた。
そろそろ終電も近く、そして最終駅に近い。彼女がここら辺に住んでいたら特に問題はないのだろうが、心の広い栗原は見ぬふりはできなかった。立ち上がって制服の少女を揺り起こしにいく。痴漢と間違われたら困るのでしっかりと声をかけながら起こすと少女は目を開けた。
「……ここは…」
栗原はあぁーと声を出した後、頭を掻いて息を吐いた。
「どうやら最終駅みたいだ。君はここで降りるの?」
少女はスマホを起動させてみるみる目を見開いた。
「……」
言葉を失っているらしい。
「少し電話いいですか?」
そう少女は栗原を見上げて尋ねた。栗原はその言葉の意味が分からなくて首をかしげる。
「あ、あぁ…ここが電車の中だからか…いいよ。気にしない。」
彼女は迎えに来てくれる人がいるのかもしれないが、自分は虚しい一人暮らしで警察署に行こうとも自力で帰れる手段があるため、取り合ってくれないかもしれない。
ため息をつきながらどさりと少女から離れた場所に腰を下ろした。
少女が話している相手は女性だと分かった。母親に状況説明をしているらしい。幼いわりにしっかりと話すんだなぁとぼんやり栗原は思った。
最終駅に到着したらしい。電車が減速していくのが分かる。車掌を見つけてことの次第を話そうともしたが、やはりいい大人が寝過ごすなんて格好が悪いだろうか。
そう思っていると、少女はすっと立ち上がってスタスタと前の両車に向かっていく。
「あぁちょっと!」
「はい?なんですか?」
少女は面倒臭そうな顔を隠そうともせず栗原を見て来た。栗原は少しだけムッとする。起こしたのは自分なのに。
「……車掌さんに話に行くの?」
「当たり前じゃないですか。」
そう少女は眉をひそめながら言うとまた歩き始めた。栗原がしばらく待っていると、電車は動きを止めある駅に到着した。見るからに古く、誰もいない。
その時、電車の扉が開いた。アナウンスがなくどこの駅だが検討もつかない。栗原は少女を待っていたが来そうにないので自ら向かおうと思った途端、パシッと手を取られて電車を降りていた。呆気にとられて少女の方を見ると少女が電車の方を指差しながら不機嫌に言う。
「ほら。見て。」
そう命令口調で言われつつも今しがた乗っていた電車の方を振り返るとそこには老朽化したレールから外れた廃電車と化したものが存在していた。
「……は?」
意味が分からなくて少女に聞こうとしたが少女も肩をすくめる。
「私が分かるわけないでしょ。気づいたらこうだったの。」
「しゃ…車掌さんは?」
少女はしばらく何かを考えた後呟く。
「…いなかった。」
だんだんと冷や汗がではじめた。
「離してよ。」
そう言われて初めて気がつく。少女の手を握ったままだった。
「あ…あぁごめん。」
手を離してハッと気づく。スマホがあるんだった。そう思った栗原はスマホを取り出した。一瞬明かりがついたかと思ったら次の瞬間プツンと消えた。
営業で今日は自分のスマホの充電を消耗していたのである。あぁそうだと思い少女の方を見た。
「スマホ貸してくれないかな?」
「いいけど…圏外。」
少女に目の前にスマホをかざされて呆然とする。ますます気味悪くなってきた。
どうやらここは無人駅らしく人気がなかった。それどころか老朽化した点滅する電灯しかない。ガクッと腰を下ろすと栗原はぼんやりとした。
少女は辺りを見て回っている。よくあんな元気があるものだ。だが怖がっているだろう。
少女が戻ってきたので何か弾む会話でもしようとした。
「…えぇと、君の名前は?」
そう聞いた途端、彼女は嫌悪感を露わにして栗原を見下ろした。なぜそんな顔で見るんだ…
「宇草琴遥。」
答えてはくれるんだね。
「…僕は栗原実だよ。」
「無理に話題を探そうとしなくてもいいよ。」
「だって…」
「ここは拝島駅。先ほど私は母に電話したからここら辺に来ると思うし、電車のレーンをたどって帰ればどちらにせよ帰れるの。帰れるように努力したら?」
「はぁ…」
「興味ないけどずっとそこでぼんやりしていたいんだったらそこにいれば?その代わり私はすぐ帰るけど。」
ひゅっと喉がなる。
「一人にしないで!」
ぐっと琴遥の腕を握った栗原は必死にそう叫んだ。
栗原の横に腰を下ろした琴遥は隣に寄り添ってきた。いつの間にか彼女はバッグの中からひざ掛けやら上着やらを取り出してぬくぬくと温まっていた。湯気の出ているポッドから何かを飲んでいるし、どこからともなくイヤフォンとアイポットを取り出し懐中電灯を出して何かを読んでいる。
「…なんか色々準備万端だね。」
そう栗原が呟くと琴遥は肩をすくめた。
「まぁね。」
琴遥の温もりで栗原まで暖かい。
「…暖かい。」
「……」
話しかけてももう琴遥は無言である。やることもなく疲れと、ホッとした安堵と琴遥の温もりでだんだんと睡魔が襲いかかってきた。
……誰だろう。
栗原は揺り起こされて目を覚ます。
「あれ?寝てた?」
「寝ていた。…すでに三時間は経っているから、自力でレーンを歩くよ。」
栗原はギョッとする。
「三時間も経ったのに?」
「……」
また無視される。
「答えてよ…」
「…少しくらいは自分で考えたらどう?貴方には考える脳みそというものがあるでしょ。それとも何?それはカニミソみたいに役立たずなの?」
栗原は目を見開く。
「そ…」
栗原は琴遥を睨む。
「そこまで言わなくてもいいだろ。」
琴遥はニコッと笑ってすぐにぶっきらぼうな表情になった。
「……じゃあ自分で考えてくれる?」
……自分で考えろと言ったって検討もつかない。あぁ…それはこの子も一緒なのか。
「……ごめん。」
琴遥はため息をついて栗原を見た。
「私の経験上、これは別の場所に飛ばされた可能性が高い。」
「経験?上?」
琴遥は栗原の耳を引っ張った。
「今大事なのは別の場所に飛ばされたってことでしょ。」
「いやいや…違うよ。何か…こんな摩訶不思議なことを経験したりしてるの?」
「どうでもいいでしょ。」
「………君は人間なんだよね?」
「もちろん。私が化け物にでも見えるの?」
「…幽霊だったらありえるかなぁって。」
「あっそ。ともかくここのレーンを帰るしかない。」
「……真っ暗だよ?」
呆れたように見られて栗原は唇を噛んだ。
「怖いんだよ…」
琴遥は手をすっと出した。
「え?」
「握れば?あぁあとこの懐中電灯をつけといてね。」
琴遥はスマホの懐中電灯をつけて歩き出した。
「充電切れちゃうかもよ。」
「このケース充電器付きなの。三台分は持つ。」
「じゃあ僕のも…」
「種類が違うでしょうが。」
不気味な線路を手を繋いで歩きながら二人は辺りを見渡していた。
「不気味な雰囲気だね。」
「……」
また無視された。
「無視しないでよぉ。」
「うるさい。」
大学を卒業したばかりで慣れない仕事の日々、クタクタに疲れた中でこんなことに巻き込まれるなんて本当についてない。しかも、一緒にいる子はこんなに酷い子である。見た目からは分からなかったが先ほど学生証を見たとき、高校生の妹よりも年下だということが分かった。小学生とそう変わらない年の子に甘えていることは分かっているが、どうしてもしっかりしている琴遥といると頼ってしまう。
「………しっかりするよ。」
妹には常にカッコいい姿を見せているのに、それよりも年下の子供に甘えてばかりじゃいられない。
「そういうのいらない。」
「あ…はい。」
しばらく線路を歩いていると周りが鬱蒼とした森になって来た。ガサガサと何かが走る音がしてビクッと震えた。
「…何あれ。」
そう囁くとしっと口に手を当てられた。
気づくと周りにはたくさんの光る目があった。老朽化したフェンスしかないここにすぐにでも入って来そうな距離である。
その時、その茂みの中から、変なシルエットのものが出て来た。もじゃもじゃとした毛むくじゃらの体にぎょろりとした大きな一つの瞳、そこから生える人間の手足。
「気づかないふりが一番。」
そう琴遥がスマホのワードで打ち栗原はコクコクとなんども頷いた。
じっとりと手に汗がかいてくる。だが琴遥は手を離さないでいてくれる。
震えたらぐっと腕に腕が絡ませられ更に密着された。あったかいはあったかいけどさっきからボディータッチが多い気がする。
「寒いんだからしょうがないでしょ。」
…正直すぎる。
上着を着ていても毛布を栗原に貸しているのでさらけ出された生足がとても寒そうになっている。
「……大丈夫?」
「大丈夫だ……あ…」
魚の眼のようにぎょろっとした大きな目をしたボサボサの毛が全身に生えた生ゴミのような匂いが漂ってくる人間とはかけ離れた存在が二人の目の前にやって来た。
ゴクリと琴遥が喉を鳴らす音が聞こえた栗原は腹を決めた。吐き出す息は途切れ途切れ、顎はガタガタ言っている。だがゆっくりと琴遥を後ろに庇うように前に立った。
沈黙が続く。
ギョロ目はそれぞれの目をあちこちに動かしながら栗原に近づいて来た。
「っ……」
ブルブル震える栗原は琴遥の手を離した。
その日は満月だった。ひんやりとした風がとても心地よく、そして星が綺麗であった。しかし、その空の下静寂な空気が漂っていた。