記憶
琴遥の失われた記憶とはどんなものなのでしょうか?
私の目の前にはあの髪の長い白髪の美しい女性がいた。昔ながらの着物を着ていて迷子になった私の目の前に突如現れた。
「…琴遥。そういうのか。」
そうその女性は尋ねて来た。幼い私はこくりと頷く。
「迷子になったと…残念だが私も君の両親の事はよく知らない。」
「…もうママとパパに会えないの…?」
その女性はそれを聞くと軽快に笑う。
「そんな訳ないだろう。君の両親が来るまでは私がそばにいてやろう。」
優しい微笑み。私の心臓はぎゅっと締め付けられる。
「あぁ…そうだ。私の家においで。そこなら君の両親も見つけられるだろう。」
私の手を引いてその女性はある小さな木製の祠の前に立つ。
「これがお家?」
女性を見上げて首を傾げる。まるでおもちゃのお家だ。
「そうだ。これが私の家だ。」
彼女は笑みを浮かべて、そう言う。女性に腕を引かれたかと思ったら、そこは温かみのある素朴だが、上品な部屋であった。部屋には天井まで繋がった大量の本棚が左右に並んであり、真ん中が通路になっている。間接照明のような暖かな光が部屋中を照らしていた。そして、通路の先には大きな茶色の長椅子があった。気持ちよさそうなクッションが置いてある。その脇には読みかけの本と思わしき本と、湯呑みに入った湯気が出ているお茶が置いてあった。
長椅子に並んで腰掛け、ジュースを飲む。
「お姉さんのお名前は?」
彼女を見上げてそう尋ねる。
彼女は少し考えて、微笑んだ。
「私の名前は…確か桜雲というのがあったな。でも難しいか、じゃあリュウだな。」
「りゅう?りゅうさんって言うの?」
りゅうはあぁとニカッと元気よく笑って頷く。しばらく私達は話をしていた。まるで夢の中にいるみたいに話の内容はわからないが、話している。しばらくして、私は眠くなり目を擦り始める。りゅうが子守唄を歌ってくれると言うので、りゅうの脚を枕にして私は目を閉じた。ポンポンと背を優しく叩かれる。だんだんと瞼が落ちて来た。
気づいたらそこはあの祠の前であり、目の前には父と母の顔があった。私はそんな彼らに満面の笑みを浮かべて、先ほどの話をした。
「そうなの…りゅうさんって方がね。」
と母は楽しそうに言う私の方を見て笑みを浮かべて言った。
それからというもの、祖父母の家に帰省する度、そのりゅうさんと会っていた。一緒にスイカを食べたり、流しそうめんを食べたり花火もした。祖父母には見えるらしく、一緒に縁側でごろ寝をしたりして一緒に遊んだ。
難しい本を沢山読んでいて、ところどころ教えてくれた。だが、時にとても悲しそうな顔をして空を見上げる。
彼女との関係が変わったのは、ある夏の事。私が小学二年生の夏。難しい顔をして私を見つめるりゅうを見て、私は首を傾げて笑った。
「どうしたの?りゅうさん。」
「何でもないよ。」
そう言うりゅうの顔はやはりどこか厳しいところがあった。
その夏、私が帰省するときにりゅうは唐突に言った。
「琴遥…聞いておいて欲しいことがある。」
「なあに?りゅうさん。」
「もう琴遥とは二度と会えない。」
少し寂しげな表情を浮かべて彼女はそう言う。それを聞いて私は背筋が凍った。
「何で…?」
「私が私でなくなる…そして、何より…琴遥。君は私を忘れなきゃならない。」
「え?どう言うこと…ねぇ…」
突如、目を覆われ、私はずわっと意識が沈んでいく。沈んで行くときに頭が軽くなるように何か大事なものが失われていく気がしていた。忘れてはならない。そうは思っていても何が何だか分からなかった。
そして、小学五年生の夏休み。白髪のおかっぱの女の子がいた。
口調は生意気で、自分よりも年下に見えるのに、年相応に見えないその口調や態度。全てが異質だった。だが、私は怖くなかった。
「…琴遥!これをのめ!」
「なに…これ。飲んで大丈夫なの?」
「あぁ。それより飲まないと大変なことになるぞぉ」
ニヤニヤとイタズラめいた笑みを少女は浮かべる。少女は酒器を渡し、自信満々に胸を張った。
それを受け取り、私はごくんと飲み込む。どろっとした銀色の液体。喉に絡みつき、体内がカッと熱くなる。びっくりして目を見開いていた私を少女は寂しそうに見つめていた。
少女の体が蜃気楼のように消えていく。その記憶も失われていた。
記憶を元に戻されてから初めて、私はあの地方について調べた。
あの地方に古くから伝わる山神信仰があった。山のように大きい美しい龍がかつて彼処にはいたのだという。だがしかし、あの地方の過疎化が進むに連れて社は小さく、そして廃れていった。未だあの地方で綺麗にされているあの祠が彼女の、山神の祠であった。
祖父母にも確認したところ、二人の分の記憶も全てごっそりと抜け落ちていた。
では何故、あの夏。私にあの酒器を渡してこの力を渡したのだ?彼女が消えたところを見ると、私はあの日、彼女自体を飲み込んでしまったような気がする。私の力はどういうものかはわからない、だけど、飲み込んでしまったのはまぎれも無い事実だった。
元々私は見える体質で、りゅうには霊力が高いなぁとよく言われていた。
霊力が高いことは、他の怪異を呼び寄せる。だからと言って、りゅうにはよく呪いのようなものをかけてもらった気がする。
山神は御神体が大きく、その他の八百万の神を纏める存在だった。
その偉大な存在が何故、人間である私に直接干渉していたのか。
彼女の優しい眼差し。
優しい手。
そして、最後にあったあの5歳くらいの少女の姿。
胸が苦しく、重く、締め付けられる。
私は大きくため息をついた。そして、目の前に並べた幾つかの手作りのお札と手作りのお守りを見た。徹夜してりゅうのことを悶々と思い出しながら作っていた。
彼女は自分のことを桜雲と呼んでいた。彼女の事を桜雲と呼ぶ方がいいだろう。
私は御守りを眺める。
これを母と父に渡す。そうすれば変な怪異が二人に憑りつくことはない。家の四方にお札を貼る。すると、この家の中に怪異が入って来ることはない。…あの悪夢を思い出さないように首を振った。
「…これでいいか。」
ぐっと伸びをして私は下に降りた。まだ肌寒いので上着を羽織っている。暖かいココアでも飲もうとしてお湯を沸かし始めた。するとその音で起きてきたのか寝間着姿の母がやってきた。
「おはよう…琴遥。」
「おはよう。お母さん。これはい。」そういって私は母に一つの首かけ守りを渡した。
母は首を傾げた。
「これは?」
「お母さんを守ってもらえるように私が用意したの。お父さんの分もあるんの。…後はこれお札ね。部屋の四隅に貼ると中に変なものが入って来ることがないから。」
そう私が母に言うと母は眉を下げて私の方を見た。そして腕を広げて私を抱きしめる。私も結構身長は大きい方なのに、お母さんは百七十センチも身長がある。負けてはいられないのだ。
「ありがとうね琴遥。」
私はじわりと暖かくなっていく体を感じた。心と体は連動していると言う。きっと心があったかくなってきたからだ。
この前私は菖蒲達に全面的に協力した。何故なら、そちらの方が効率が良いと判断したからだ。菖蒲を励ますような言葉も私がどうやって楽をするか考えた末のものである。
だがそれからというもの菖蒲から懐かれてしまった。
私はパソコンから顔を上げて桐の方を見た。何かを執筆している。
「そういえば私のいない間に誰か帰ってきたの?」
「えぇそうです。」
「…そう。」
私はすぐに興味を失いパソコンの方を向いた。
早く私は対魔隊の中枢に入り込まなくてはいけない。そして、私はここを何の不自由なくやめられるようにする。睨まれることもなく穏便に。その為には効率よく仕事を行わなければならないのだ。
すでにここ以外でも対魔隊の隊員が行う仕事も一部引き受けている。絶対に私は他の同級生よりも酷い生活をしていると思う。
ふと私は菖蒲の事で『あの時』を思い出した。
と、菖蒲が真っ青な顔。私は菖蒲のその顔を見て勝手に体が動いていた。
気づいたら明久という怪異を助けていた。果たして私が怪異を助ける必要があったのだろうか。何故助けたのだろう。不服だが私はその菖蒲に突き動かされたというのは確かであった。
菖蒲は少し…桜雲に似ている。…白髪に白い肌。中性的な顔立ち…
私はどうやら菖蒲を桜雲に無意識的に重ねていたらしい。だから菖蒲に対しては弱いのかもしれない。
……そう思っていた。
「ねぇ琴遥。その本は?その本は何?なんていう本なの?」
これはまだいい。
「あ…琴遥の誕生日は六月十二日なのね。その時はここにいるの?」
どこで私の誕生日を知った?
「……琴遥のお母さんとお父さんはどういう人なの?あぁ…そうね。確か宇草美遥と宇草慎琴さんだったわね。」
私はそう『はっきりと』口にした菖蒲の顔を見てさぁと血の気が引いていった。そして、その場にいた清と善彦の方を見る。
「おい。菖蒲。本性がダダ漏れだ。」
と興味なさそうに清が。そして申し訳なさそうな、同情されているような顔で善彦が私に言った。
「菖蒲はいつもこうなんですよ…えぇと…詮索が好きっていうか…僕も色々いつの間にか知られてました。」
私はピキッと固まって目の前にいる菖蒲に目を戻した。菖蒲の笑みは普通じゃない。その目には不穏な色がうつっている。やはり怪異にはまともな奴はない。
と、いうことで私は菖蒲と心の距離を置くことにした。本当に最悪。
私は息を吐いてググッと伸びをした。明久が元の世に帰ってから一週間が経つ。明日は李空が帰ってくる日らしい。聞きたくなくとも毎日の報告で知らされる。別にそれはどうでもいいのだ。
早くここを辞めることだけを考えれば。
私はそう思って作業をまた始めた。
これで序章がおしまいになります。長く読んでいただきありがとうございました!まだまだ続くので、お楽しみに。