第二章 南国からの傭兵 (4)
(4)
どのくらいの時が過ぎたろうか。
日が傾き始めても、野原の景色は変わらなかった。
時折風に揺れる可憐な花。距離を保ったまま佇む、男と女。
ずっとこのままでいい、とダナは思う。誰か、今を絵に描いて、額に入れてくれないものか。言葉にできぬ想いを、閉じ込めて保存してほしい。そうすれば、何があっても色褪せることなく、美しいままとなる。
「……私が」
ダナは、背後の男へささやいた。
「このままどこかへ向かって歩き続けたとしたら、あなた、どうするの?」
聞こえていなければ、それで良かった。
「契約期間だけ、私を護ろうとする? それとも」
どうかしている、と彼女は自身を笑う。だが、わからないのだ。心を取り戻したきっかけが、遠くにいて姿を現さないままの男であるのか、それとも、現れた背後の男であるのか。
傭兵は、応えない。
それで良かった。
風が通り抜ける。冷たい。時の流れは、かくも残酷だ。彼女はいつまででもこうしていたいと願うのに、それを許さない。夢から覚める時が、きてしまった。
ダナは反するように、目を閉じる。暗闇の中に、美しく色づく絵画が二枚、誇らしく浮かび上がった。白つめ草の野原で無邪気に笑い転げる、少年と少女。同じ地で喪失と孤独に暮れてただ佇む王女と、盲目の傭兵。彼女はどちらも愛しく思ったが、自分でも驚くことに、二枚目の絵画をより意識した。彼女の胸に三枚目の絵画が飾られるとしたら、それはこの二枚目の続きになるのだろう。王女と、もう一人、描かれるのは、おそらく。
ふと、地鳴りを伴う耳障りな騒音が、ダナの思考を断った。
遠くからのそれは、かすかながら確実に、街からここを目指していた。複数の馬が土を蹴散らし、駆けて来る音。
ダナは身を硬くし、林を振り返った。すでに傭兵は彼女に背を向け、身構えていた。
ダナはハッとして、その猫背を凝視した。男を取り巻いていた怠慢な空気は、凄絶に冷たく激変していた。空恐ろしささえ覚え、彼女の背筋は凍った。一騎当千などという言葉があるが、誇張に過ぎぬその言葉も、この男にはそのまま当てはまると思った。
一体どのような経験が、ここまで鋭利な気迫を彼に与えたのだろうか。
彼女が傭兵の剣気に心を奪われている間に、騒音が正体を明かした。複数の従者を引き連れて登場したのは、野心の文官、アイザック=シーラであった。馬達は細い獣道を順々に飛び出し、野原へ出た。
蹄にえぐられる土。無力に舞い上がる可憐な白。
「やめて!」
ダナは悲鳴を上げていた。彼女自身も衝撃を受けるほどの甲高さになった。跳ね上げられた白つめ草が宙を舞って地に落ちるという1秒もない出来事が、彼女には何倍もの時間に感じられた。ぐにゃりと時空が曲がったかのようなこの感覚は、戦の最中に槍が戦友を貫くときのそれと似通っていた。時の流れは残酷だ。二度と取り戻せぬものを失うときには、それを見せ付けるようにゆったりと流れる。
ダナの叫びは悲痛であったが、それは彼女の耳の中でだけのことだった。喧騒と馬の嘶きが無情にもかき消し、どこへも届くことなく消えていった。
「やめて……」
届かない。
いつものこと。叫びも激情も、何ひとつ、届かない。
いつものことであった。しかし王女は、怒りと喪失に打ち震えた。拳を固め、猛々しく、馬上の男へ吐き捨てる。
「アイザック、何をしに来た!」
ダナの美しい絵画を無遠慮に踏み込み荒らした男は、彼女の激昂を理解しなかった。白々しい困り顔で馬から降り、優雅に礼をする。
「様々な目撃証言から、貴女の居場所を割り出し、こうしてお迎えに上がったのですよ。もう日が暮れます、王女様」
戯言を!
ダナは怒りに我を忘れた。離れて久しかった激情は、いとも簡単に彼女を支配した。彼女は数歩前へ出て、腰の細剣に手をかけた。アイザックの従者たちが色めき立ち、同じく剣に手をかける。
しかしその時、彼女のスカーフ頭をわしづかみにした大きな手があった。
拍子抜けして、ダナはその主を振り返る。
「こいつらは、敵か? ならば斬るが」
とぼけたような、傭兵の問い。すっかり気だるそうに、あさっての方を向いている。
「…違うわ!」
ダナは呆然とした後、そう言って吹き出した。敵か味方かで言えば、おそらく敵であろう。しかし、この場で切り捨ててよい男でもない。短い言葉で、傭兵はダナにそれを諭したのだった。彼女は「ありがとう」と明るく言い、頭に乗ったままの男の右手をやんわりと払った。
「シーラ殿。ご苦労だったわね」
戸惑い顔のアイザックへ、ダナはいつものように毅然と、挑発的に向かった。
「馬を一頭、置いて帰ってちょうだい。私はこの傭兵殿に送っていただくわ」
「王女。少々、おてんばが過ぎるのでは?」
アイザックは、不快感をあらわに非難する。
「私への返答もないまま、傭兵風情と逢瀬とは。期限は、あと三日でございますよ」
数分後、喧騒は去り、王女と傭兵、そして約束通り一頭の馬が、野原へ残された。
心地よい静寂。諦めるため、諦めてもらうための孤独な静寂ではない。彼女の心の平穏と、この地の美しさを守ったあとの、満たされた静寂だ。
吹き抜ける風は冷たくなるばかりで、斜陽も残りわずかである。しかし、彼女の隣には、共にひとつの馬で帰るであろう男が立っていた。そして、城へ戻れば、諦めずに彼女を気にかけてくれている、多くの人がいる。
感慨に浸りながら、ダナは踏み荒らされた思い出の地を、しばし眺めた。
「ねえ」
傭兵へ向き直って見上げ、彼女は不敵に笑んだ。
「これから、忙しくなるわよ。しっかり働いてね」
その夜、王女はスリノア提督に、即位の意思を伝えた。
容易い道ではない。だが、彼女は決意したのだ。
声を、想いを、響かせるために。
第三章へ続く