第二章 南国からの傭兵 (3)
(3)
一年前の敗戦時。ダナはスリノア軍の指揮官の妻として、スリノア王宮にいた。
ワオフの武将として何度も戦場を経験していた彼女には、皮肉にも、遠く離れた故郷がどのような姿になるか、詳細に思い浮かべることができた。自分が指揮をとるならば、どこからどのように攻め入るか。自軍の被害を最小限に、効率よく目的を達するため、何を犠牲とするか。選ばれるのは、街道を挟んで東側、民衆の生活の場であろう。湖を背後にそびえるワオフ城を落とすには、どのみち、その手前の街に踏み込まざるを得ない。
その頃の彼女は、感性を放棄していた。全ては、一時の夢、幻。己が何を喜ぼうと叫ぼうと、運命の濁流はとどまることを知らない。ならば、目を閉じて流れに任せ、この身が朽ちるのを待つだけでいい。ワオフが滅びるのは、運命。大切なものを守れぬこの身も、そう定められたもの。王女の地位も、勇士の名誉も、彼女と故郷を救ってはくれなかった。全てを諦めてしまえば、楽になれる。
そうして、彼女は差し伸べられた数々の優しい手を、頑なに振り払ってきた。
それはとても楽なことだった。彼女の世界には誰もいなくなり、それは途方もない静寂をもたらした。恐ろしくて、心地よかった。そのまま眠りにつくことが、彼女の最後の願いだった。
それを最後まで阻もうとした男は、元より彼女の敵であった。故に、ただ憎んでさえいればよかった。それはとても楽なことだった。彼がどんなに彼女を救いたがろうとも、あまりの悲しみに心を失いかけようとも、ただ憎んでさえいればよかった。彼がどんなに彼女に愛を捧げようとも、かと思えば別の女に癒しを求めようとも、彼女はただ、彼を憎んでさえいればよかった。それはとても、楽なことだった。
そう、とても。とても、楽だった。
ダナは離婚後、強制的に故郷へ帰された。それも運命の流れのひとつであると、彼女は身を任せた。しかし、帰郷してすぐに、彼女は激しい後悔に襲われた。
なぜなら、敗戦の傷跡に暮れているはずの城下が、ほぼ無傷のまま、彼女の目前に現れたからであった。彼女が想像した最小限の被害からもほど遠い、ひとつの国の政権が滅ぼされたとはとても考えられぬほどの小さな傷跡であった。そして、敗戦の屈辱に打ちひしがれているはずの民衆は、すでに復興を始めていた。宿敵の傘下に入ったばかりだというのに、絶望的な雰囲気の蔓延はなかった。
やめて。
ダナは逃げるように城へ引きこもった。その城さえも、ほぼ無傷で彼女を迎えた。
失ったはずの故郷がほぼそのままの形で残されていたことは、彼女の心を揺さぶる障害となった。彼女は静寂を求め、長い間、外へ出なかった。城下を見るのは、恐ろしかった。街や民衆の繁華は、彼女が憎まねばならぬ男の愛情と有能さを、余すところなく証明してみせていたのだから。
やめて。もう、構わないで。
彼女は一層、心を閉ざそうとした。もう一度楽になりたくて、憎む対象を探そうとした。見つかるはずもなく、曖昧で中身のない一年が過ぎた。
その間に、彼女は「普通」に振舞うことを覚えた。しかるべきときに微笑み、しかるべきときに顔をしかめる。そうしているのが、一番、面倒がない。そのうち皆、彼女を諦めてくれるだろう。それまで、耐えるだけだ。
身を焦がすような愛情も憎悪も、もう二度と体験することなどない。それほどに彼女を強く揺さぶる存在など、もうなかった。まだ若く美しい彼女へ熱心に愛を語る男は山ほどいたが、どの男もくだらなく、小さく見えた。彼女が秘める激しさや情熱を彼らが受け止められるとは、とても思えなかった。初恋の彼でさえ、距離をうまく計って彼女に接していたのだ。
ダナは、城下へ降りる丘の中腹で、歩みを止めた。
眼下に広がる、ワオフの街。すっかり立ち直って、賑わいを取り戻している。
こうしてそれを直視し、穏やかな心を保てるときが来るなど、昨日まで想像もしていなかった。
「ありがとう」
自然と、そんな言葉が口を突いて出た。暖かい何かが、体中に広がった。
ダナはステップを踏むように、健やかに振り返った。ワオフの城を背景に、盲目の傭兵が佇んでいる。ダナは、この男が意外と若そうであることに気づいていた。30代前半であろうか。
「ここで、よくクリスとワオフの未来について語り合ったわ」
彼女は傭兵が無口なのをいいことに、昨夜急激に押し寄せた思い出の波を吐き出してしまおうと考えていた。
「スリノアの圧政の下で、誰もが日々を暮らすのに精一杯だった。でもクリスは、5年先や10年先の話をするのが好きだった。彼の話し相手になりたくて、必死で本を読んだわ。ここから城下を眺める彼の横顔を、独り占めしたかったの」
彼女はこうして初恋を語ることで、胸に灯りがともることを期待していた。しかし、なぜかそうはならなかった。むしろ、語れば語るほどに、クリストファー=ローランドという男の存在が、彼女の中から抜け落ちていくかのような恐れに苛まれた。
先ほどの穏やかな気持ちを取り戻すため、彼女はもう一度、城下へ向き直った。そうしてみると、口を突いて出た感謝の言葉が、一体誰に向けられたものだったのか、ようやく分かった。
「ありがとう」
彼女は笑顔で傭兵を振り返った後、命じるように言った。
「さあ、行くわよ」
ダナは一気に丘を駆け下りた。ワオフの埃っぽい乾いた風が、彼女の褐色の痩身を包んだ。丘の麓から、ぽつぽつと家や店が現れる。そこには、街の中心部の熱気の欠片が散在していた。
生き生きとした律動。王女は子供の頃から、街へ降りて民衆に紛れることを好んだ。少女のように、市場への広い街道を駆け抜ける。仲間達と鬼ごっこをして大騒ぎした町並み。
ダナは、はずんだ息で立ち止まった。振り返ると、傭兵がいる。息も乱さず、平然と。こんなにすごい人だったのね、とダナは悔しさを通り越して、笑い出してしまった。
「いつも、こうしていたの」
ダナは立ち止まった目の前の怪しげな露店で、大きなスカーフを購入した。頭と耳を覆い、あごの下で軽く結ぶ。
「どう?」
ロックは応えない。それで良かった。彼女は身軽にはしゃぎ、賑やかな市場を歩いた。
「お嬢さん、うちの自慢のりんごはどうだい!」
粋の良い掛け声に、ダナはその店で足を止めた。目の合った壮年の果物屋は、「おお」と嬉しそうに目を丸くした。
「お嬢さん、えらく美人だねえ。しかも、我らが王女様によく似てらっしゃる!」
ダナは思わず含み笑いし、問うてみた。
「お上手ね。王女に会ったことがあるの?」
「もちろんさあ!」
果物屋は家宝でも自慢するかのように、目を輝かせた。
「王女様がまだちっちゃな頃は、よくこの辺を走り回ってらっしゃったもんだ。かくれんぼだってんで、うちの果物ん中に埋めてさしあげたこともあったよ!」
愉快そうに笑う果物屋へ、ダナは目を細めてみせた。そして、自慢の大きなりんごをひとつ、購入した。
王女に似ているという理由で半値になった上等のりんごを、ダナは傭兵の胸に押し当てた。ロックは固い感触に黒い眉をぴくりと動かしたが、すぐに受け取った。
「お昼、食べていないでしょう」
後ろ向きに歩きながら、ダナは男を観察した。それを知ってか知らずか、ロックは肩をすくめ、服で軽くりんごをぬぐってから、慣れない様子でかじった。
「もっと大きく、一気にかじらないと、汁でベタベタになるわよ」
ダナは口元に笑みを乗せ、半眼になる。
「それとも、りんごをこんなふうに食べたのは初めて? お上品な傭兵さんね」
言いたいだけ言い、彼女はまた前を向いて歩き出す。後ろからは、りんごと格闘する音がついてくる。
何が楽しいのかわからないが、ダナは笑いをこらえ切れなかった。はずむように、思い出の場所を目指した。
「ねえ。クリスのことでなく、あなたのことなら聞いていいでしょう?」
再び後ろ向きに歩きながら、彼女は悪戯っぽく笑んだ。
「あなたのことを、教えて」
ロックは答えず、りんごの芯を手の中で持て余している。
「歳はいくつ?」
「忘れた」
「生まれは?」
「忘れた」
「好きな色は?」
「ない」
「好きな音は?」
街の中心から、二人は離れつつあった。街道は形をなくし、土が剥き出しになる。ロックはその道端へ、芯を投げ捨てた。
「ねえ、ひとつくらい答えてよ。好きな食べ物は?」
「そんなことより、どこへ向かっている」
「着いてから話すわ」
ロックはしきりに、口元を拭う。髭が甘い汁にまみれているのが、気になって仕方がないようだ。ダナはそれが可笑しくて吹き出す。彼女は子供のように、はしゃぎ続けた。
「あなたは、南から来たのよね?」
「さあ」
「契約書の書体で分かるわ。メルー国はどんなところ?」
「さあ」
「クリスは、メルーにある古代の遺跡群へ向かったきり、戻らなかった。私が十五の時よ」
小さな林が見えてきた。湖のほとりの、貴重な林である。昼下がりの太陽が、僅かに、木々の間をぬう獣道を照らしていた。
「私には、血のつながらない人たちの方が大切だった。幼い頃から、たくさんの兄弟のような人たちに囲まれてきたわ。その中でも、クリスは特別だった。兄のような、恋人のような、そんな人」
ロックは聞いているのか分からない。それで良かった。
「自由奔放な人だった。だから、帰ってこないかもしれないと、どこかで覚悟していたわ。でも、それでも、辛かった。私のために、帰って来てはくれないんだって思うと。私は彼にとって、その程度の存在でしかなかったんだわ」
獣道を抜けた先、湖の手前には、草原が広がっていた。緑に白が多く入り混じっているのは、白つめ草が咲き誇っているせいだった。
ダナは野原の前で立ち止まり、痛みを含んだ笑顔を浮かべた。
「必死に、忘れようとした。この場所にも、今日まで十年以上、来なかった。彼は死んでしまったのだと、遺跡で行き倒れてしまったのだと、思い込もうとしたの。やっと、顔も声も忘れかけたのに」
一陣の風と共に、彼女は傭兵を振り返る。
「あなたが、現れた」
ロックは、白く小さな花が咲く野原へと、顔を向けている。
「クリスも、ひどい男よね。なぜ今さら、私を気にかけていると知らせるのかしら。それも、自分は現れもせずに」
ダナは、ロックの顔の向く方へと、軽い足取りで移動した。咲き乱れる白つめ草をひとつ手折り、胸の前でくるくると回す。
「白つめ草で、冠を作れる?」
首を傾げて微笑む様は、まるで少女のようだ。しかし表情は、悲哀を知る、大人の女のそれである。
「まだ十にもならない頃に、クリスは私にここで、冠をくれたの。どうか姫様、ぼくのものになってください……そんなことを言いながら」
ふふ、とうつむいて笑う。
「私は答えようとして、思いっきり、くしゃみをしたの! 冠が飛んで、二人で笑い転げたわ。涙が出るくらい、大笑いした!」
彼との、一番大切な思い出。惜しげもなく言葉にできたのは、きっと。
野原へ向き直り、彼女は深呼吸をした。
不思議だった。
それしか道がないかのように、戦いに明け暮れた日々。どうにもならない運命の理不尽さを、激しく憎んだ日々。
その憎しみすらなくなり、あとは身が朽ちるのを待つだけだったというのに。
今頃になって、この思い出が、野原で笑っていた少年と少女が、この上なく、愛しい。