第二章 南国からの傭兵 (1)
第二章
(1)
「ヴァルキリー王女。ご足労いただき、恐縮です」
礼儀正しく迎えるスリノア提督ウェッジ=ストーラムへ、ダナは憮然とした表情をしてみせた。彼女の背後には、提督の妻、スリノア騎士のソフィアが控えている。この夫婦がもたらした数日間の大げさな窮屈に、ダナはうんざりしていた。付きまとわれたり部屋に閉じ込められたりするよりも、危険に身を晒す緊張の方が、望むところだというのに。
「ウェッジ。もっと楽にしていいわ。それよりも、早く訳を聞かせて」
ダナが呼び出されたのは、ワオフ城にあるウェッジの執務室である。普段の細かな取り決めや打ち合わせなどは、会議室で行っている。王女と提督がこの部屋で顔を合わせたのは初めてのことであり、何事かと問いたくなるのが自然であった。
「はい。実は、王女にお目通りを願う人物がおりまして」
ウェッジは眉間を寄せた。ダナとそう年の変わらぬ提督であったが、この一年で、大きな苦労と焦燥の影を背負う男へ変わったように、ダナには思えた。
「その男は身なりが怪しく、どうにも信用できないのです。身分を証明しろと再三要求しましたが、ただ黙って居座るばかりでして。昨夜からずっとで、部下たちも困惑しております」
「その者は、今はどこに?」
「控えの間に、待たせてあります」
「会ってみよう」
ダナはストーラム夫妻を見やり、続けた。
「スリノアの腕利きが二人もいて、私が危機に陥ることもあるまい。どうかしら、提督?」
夫婦がそろって苦笑する。そして間もなく、一人の男がソフィアに連れられ、部屋へとやってきた。
ウェッジの言葉が、ダナの胸に落ちる。
まず、その男は長身だが、猫背で足を引きずるように歩くのだった。髪は不自然なほどに真っ黒で、痛んだようにあちこちが跳ね上がっている。同じく黒い髭はだらしなく伸びており、貴族がたしなみで作る髭のような清潔感は皆無であった。日焼けしている肌は、元々白であったと伺える。そこから、この男はスリノアの民かと思われたが、その身を包むのは、くたびれたワオフの民族衣装だ。ソフィアが取り上げている、この男のものと思われる剣を遠目にチェックすると、それは南国で好まれている、緩いカーブの曲刀であった。
ここまででも、素性の知れぬ怪しい男だというのに、致命的であったのは彼の目元であった。人間性を判断するに欠かせぬその目元には、衛生的とは思えぬ薄汚れた包帯が乱雑に巻かれていた。それを注意深く観察してみると、巻き方は一見乱雑なようで、瞳の部分の包帯が薄くなるように計算されているようにも見えた。が、包帯の向こうで男が瞬きをしている様子は皆無であったし、もし盲目を偽って包帯越しに目を凝らしていたとしても、その視界は限りなくゼロに近いであろうと推測できた。
「私がダナ=ヴァルキリー=ワオフよ。あなたは?」
凛とした王女の問いに、男はくぐもった声で短く、「ロックだ」と答えた。
違和感。
その正体を探ろうとするダナに、しかしロックは間髪入れず、一枚の黄ばんだ書面を突きつけた。ウェッジが受け取り、ダナへ渡す。
「……うそよ」
王女は驚愕し、目の前の不審者を、再度凝視した。
彼女の手にあるのは、傭兵の契約書である。南の地方でよく使用される形式のものだ。契約日は五日前。内容は、一ヶ月間、ダナの身を護ること。報酬は巨額であり、それを支払う雇い主の名が、終わりに記されていた。
クリストファー=ローランド、と。
「お姫さま、どうかぼくのものになってください」
少年だった彼の言葉と、ひざまづいたその姿。
「ワオフには武が足りない。俺が古代の遺産の強力な武器を見つけてきてやる」
不敵に笑いながら旅立っていった、二十歳の彼の最後の背中。
忘れたはずであった。なのに綴られた名を見ただけで、ダナの中には悲しいほどに、その男の姿や声、一挙一動が蘇った。
豪快な顔立ちや太い首のわりに、大きな手の造りは繊細だったこと。いつでも挑戦的に光っていた黒い瞳は、ダナのあずかり知らぬ遠いどこかへ向けられていたこと。ダナの孤独をよく理解しつつも、プライドという距離を保って慈しんでくれたこと。
一度触れてみたくて、でもできなかった、少年から青年になるにつれて厚くなっていった彼の肩や腕。街で騒動を起こすたびに交わした、信頼のアイコンタクトや悪戯めいた微笑。ワオフの将来を語るときの、精悍な横顔。時折ダナを見つめる際の、視線の熱さ。
もうあれから、12年が経つというのに。彼の生存を諦めてしまうしかなく、しかしそう思うほどに引き裂かれそうになる己の心と、何年もかけて、ようやく折り合いをつけたというのに。
「うそよ」
ダナが再び、力なくつぶやく。
ロックと名乗った傭兵は、興味なさげに鼻をならし、無愛想に言った。
「仕事をしたい。許可をくれ」
「クリスに、会ったの?」
まるで少女のように、ダナは男に詰め寄った。
「彼は今、どこで何を? なぜ私を……」
「王女、冷静に」
見かねたウェッジが、割って入る。
「知人の名を語り、信頼を得る。よくある手口です」
ダナは高鳴る胸を抑え、深呼吸した。だがそれは形式でしかなかった。時が経つほどに彼女の心臓は悲鳴をあげ、頭がはちきれそうなほど熱くなるばかりであった。
ダナは、スリノア提督の視線を意識しようとした。冷静で賢い態度を求める第三者の視線は、彼女の人生にとって憎むべき対象であったはずなのだが、今は正気をつなぎとめる命綱となって、彼女を救った。
「確かに、そうね」
ようやく言えた。早鐘のような胸の音に負けぬよう、ダナはいくらか声を張った。
「ロック殿。あなたがクリストファーに会ったことを、証明することはできて?」
ロックは無反応だ。包帯に隠れた両目は、当然ながら何も語らない。
「では、お帰りいただこう」
ウェッジが動いた時である。髭にまみれた口元が、呪文のような言葉をつむいだ。
「しろつめくさとくしゃみ」
捕らわれたように、ダナは身を硬くした。
大きく長く、息を吐く。
彼女はこみ上げる涙の予感を、そうして抑え込み、冷静を装って命じた。
「この方に部屋を与え、城内で好きなように過ごさせなさい」
王女の命に、提督夫妻は何も問わなかった。
すぐに女中が呼び出され、ロックは契約書を持ち、部屋を去った。足を引きずる、気だるそうなその足取りは、どういうわけか、女中の行く方向を知っているかのように確かであった。
その猫背を完全に見送って扉を閉めてから、ウェッジが王女を振り返った。
「信頼できる人物ならば、むしろ大助かりです」
彼は複雑な心中に蓋をし、笑顔を作った。
「王女の警護を増やしたくても、かなわない状況ですので」
「でも、盲目の傭兵だわ」
ソフィアが頭を振る。
「どれだけ役にたってくれるのかしら。後ろから奇襲してみれば良かった」
ダナは二人の言葉をほとんど聞いていない。気を落ち着かせようと目を閉じ、思案にふけっていた。
「ソフィア、盲目だからといって侮ると、痛い目をみるかもしれないぞ」
「どういう意味?」
「盲目の者は、目に頼らぬ分、その他の感覚が優れるというだろう。聴覚や第六感を磨き上げた戦士は、危機に対して異常に敏感であると聞いたことがある」
「それ、すぐには信じられないわね。誰が言ってたの?」
「ベノル様だよ。どうだ、信じる気になっただろう?」
ふと、宙をにらみ、ダナは唐突に問うた。
「ところで、ウェッジ。現在、スリノア本国は、どのような状況なのかしら」
場にそぐわぬ、奇妙な質問に戸惑いながらも、ウェッジは答える。
「はい。メルー国との貿易開始により、内乱以前をしのぐ豊かさを得ています。ただ、海賊の被害がひどく、スリノア騎士団が直々に討伐へ出ている最中です」
「それは半年も前の話よ」
冷たく突き放され、提督は慌てて加える。
「それは、第一回討伐です。現在は第二回の海賊討伐で、かなり慎重を要するものだとか」
「スリノア騎士団が、一度で海賊ごときを一掃できなかったというの?」
「第一回はもちろん成功しました。しかし、今回の新たな勢力には、厄介なことに魔法使いがからんでいるのです」
ダナは顔をしかめた。魔法使い。謎に包まれながらも、確かに存在する者たち。彼らは圧倒的な殺傷能力を操るが故、いつの時代も、どの場所でも、忌み嫌われるのが常であった。
「だとしたら、もちろん騎士団は精鋭が出て、かの英雄の指揮の下で戦っているのでしょうね」
「はい。そのように聞いておりますが」
王女は再び、閉じこもるように目を閉じる。
忘れようと努めてきた二人の男と、彼女はこの日、唐突に向き合うこととなったのだった。