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第一章  王不在の地 (3)

(3)


 アイザック=シーラは、ワオフの先王によって長く重用されてきた、文官であった。

 武勇に長けない彼にとって、他の能力を認めて引き立てる先王は、尊敬に余りある人物であった。そして、その斬新な文治が今の時代に求められていることを、彼は確信している。先王の下でのワオフの繁栄により、それはとうに実証されているのだから。

 だが、その娘といえば、どうであろう。忌まわしいワオフの伝統を重んじ、その存在は民の根強い武勇思想を煽ってやまない。

 所詮は、妾の子か。アイザックは思う度に舌打ちをしたくなる。剣を振るえぬ者を蔑む瞳、野蛮な戯れに嬉々と歪む口元。彼には理解できない。国を統べる力は、別のところに求められて然りのはずだ。王に必要なのは、知識に裏打ちされた先見の知と、優秀な臣下である。彼自身が剣をとらずとも、ワオフの勇猛な戦士達へしかるべき指示を出すことができれば、それで済むことなのだ。

 アイザックは、今夕の武神の間での不愉快極まりない出来事を、頭から追いやった。そして、すっかり日の落ちた暗闇の中、計画のうちのひとつを実行せんと、ある屋敷の前へ従者と共に立つ。それは、ワオフ城からほど近くにある、有力貴族ドグハート家の屋敷であった。

 人目につかぬよう一人の従者だけを連れて、アイザックは門をくぐる。事前に話をつけてあるため、すんなりと応接間まで抜けた。

 「さて、ドグハート殿。お返事をお聞かせ願いましょうか」

 この家の当主は、まだ若き青年である。二十代後半であろうか。この青年もまた、アイザックと同じ運命をたどりつつあった。武を敬遠し、物静かに知識を蓄えてきた不遇の当主は、頭脳をかわれて先王に取り立てられていたのである。

 「シーラ殿」

 数日前に、同じ劣等と野望を共有した青年は、しかし、苦い顔で告げた。

 「結論から申し上げますと、私はあなたの計画に賛同することはできません」

 想定内の返答であった。アイザックは、軽く驚いてみせた。

 「なぜです。あなたは先王のやり方に惹かれているはず」

 「はい。確かに、スリノアの思惑通りに王女が即位したならば、私の存在は全く日の目を見ることがなくなるでしょう。王女は、武を重んじるお方です」

 青年は小さく笑んだ。しかし、それは自嘲ではない。

 アイザックの胸を、いよいよ不安がよぎった。残された手札を、胸の中で揃え直す。だが、まるでそれを見越したかのように、若き当主は、至極穏やかに告げた。

 「私は、剣を振るえぬ己に失望し、そこからくる憎しみに囚われて生きてきました。言うならば、シーラ殿、私はあなたに近いように思います。ですが」

 アイザックの手に、汗が滲む。まさか、この青二才は悟ったようなことを言い、王女側につくつもりなのか。多くの手札が効力を失って急速に消えていく中、次の青年の言葉は止めに近かった。

 「私には、今が幸せなのです」

 すぐにはその意味を認識できず、アイザックはおうむ返しに問い返した。

 「今が、幸せ?」

 「はい」

 青年は、腹立たしいほどに穏やかに微笑み、続けた。

 「国務に携わることは、生きがいと感じるほどに喜ばしいことでした。しかし、今の私には、その地位や仕事は魅力的ではないのです。先王に取り立てていただいていた頃よりも」

 迷いなく、彼は言い切った。

 「今が、私には大切なのです」

 アイザックは、一呼吸置いた。噴き上げる怒りや苦悶を堪えるために。

 しかし数秒堪えた後には、彼はその激しい感情の正体を知るに至る。そうなると、逃れることのできぬその宿敵に対し、彼は呆然と、諦めにも似た視線を送るだけとなるのだった。

 この酷な運命は、一体いつから己に強いられてきたものなのだろうか。神が与えた試練だというのならば、今目の前にいる青年は、アイザックと同じように苦しむはずであった。なぜ青年は、いとも簡単に先を行ってしまったのだろうか。この若者と己と、何が違ったというのか。

 長い沈黙の間、青年は決意の姿勢を微塵も崩すことはなかった。

 アイザックは無駄なあがきと悟りながらも、最後の一枚の手札を、静かに裏返した。

 「あなたは、妻のアニタ殿の心中に配慮されているだけなのでは?」

 青年はやはり、全く動じない。

 「アニタはこの件について、私に何も強要していません。彼女はただ、王女の幸せを案じているだけです」

 「それですよ。王女は、私の計画が成功したならば」

 血なまぐさい話には、慣れていない。言いよどむアイザックを、優しき青年が助けた。

 「わかっています。ですが、生きていることが幸福であるとは、必ずしも言い切れません」

 思わず身を固くすると、青年は共感するように目でうなずいた。彼は、自身の言葉に恐れを抱きながらも、続けた。

 「王女の真の望みを、一体誰が知り得ましょう。少なくとも、長年世話をし、友人のように付き添ったアニタでさえ、もはや分からないと言います。ですから、ただ、願うのみなのです。王女がどのような形であれ、幸せに笑えるようにと」

 アイザックの沈黙を受け、青年は更に続ける。

 「私は、身重の妻を何よりも大切に思っています。私が暗いものから解放されたのは、彼女のおかげですから。そして、これから生まれてくる我が子にも、幸せであってほしい。私の願いは、平穏に慎ましく暮らすことだけです。姑息と言われてしまおうと、中立の立場を取らせていただきます」

 アイザックは、苛立ちを隠すために、視線を落として、言った。

 「あなたは正しい」

 自分でも驚くほどに、静かな声となった。

 そして、彼は思い知る。この苛立ちの正体を。

 彼が決して認めてはならないその感情は、この青年に対する、嫉妬と、羨望。

 「あなたは、正しい」

 重く繰り返し、そして、彼は立ち上がる。交渉は決裂し、これ以上、言うべき言葉はなかった。

 「シーラ殿」

 賢い若き当主が、悲哀を込めて呼び止める。

 「あなたも、本当は望んでおられないはずです。王女の命を、奪うなど」

 「望む、望まないではありません」

 アイザックは優雅に振り返り、高慢に笑んで見せた。

 「私は決めたのです。どんな手を使ってでも、やらなければならないのです。国のために、何より、己を否定しないために」

 若い頃の彼に似ていた青年は、痛々しく黙した。

 このような道も、有り得たということか。

 彼は屋敷を出ると、闇の中で自嘲気味に目を伏せた。

 今は、己が信じて選んだこの道を、ただ足早に進むのみだ。


第二章へ続く

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