終章 海辺の領主
終章
彼が住む街では、常に、波の音が聞こえる。
この日、海岸は穏やかだ。二、三日前に遠く沖で流された血が、今も届いているかもしれないというのに。
いつにも増して、街は賑やかである。勝利の戦から戻ったスリノア騎士団は、一晩休んで明け、海の国を自由に楽しんでいる。家族に土産を選ぶ者たち、昼間からほろ酔いで踊り歌う者たち。海賊と、何より魔法使いの恐怖から逃れることのできた住民は、彼らを惜しげなく楽しませた。
いい時代がきたもんだ。
彼は街を見下ろせる領主の部屋で、独白した。自由のきかぬ足を、杖を支えにゆっくりと運ぶ。ちょうど応接椅子へかけたところへ、使用人が来客を告げに来た。
「目に包帯を巻いており、クリストファー=ローランドと名乗っています」
彼がニヤリと笑い、すぐに通すよう指示すると、やがて、流れの傭兵のような出で立ちの長身の男が彼の部屋へ現れた。
「お早いお帰りだ」
座ったまま、軽く腕を広げて迎える。
「契約期間は、まだ過ぎていないぜ」
「もう、私は必要ありませんでしたから」
男は静かに自嘲し、目元の包帯を取った。
緑の瞳。スリノアの英雄の象徴が、悲しく揺れていた。
「すでに噂で聞いたよ。我らが姫は、前を向いて歩き出したんだってな」
彼は、ベノル=ライトに椅子を勧めた。英雄は腰をおろし、すっかり髭を剃り落とした品のある口元で微笑む。
「はい。彼女は今や、美しく、無敵の女王です」
「彼女を不幸にしたままだった愚かな男たちの策が、どうにか成功したってわけだな」
おどける彼に、ベノルが苦々しく告げる。
「ところが。せっかく二人で知恵を絞った変装も、彼女にだけは通用しなかったのです」
「へえ。そいつは驚いた」
言った後で、ふと気づき、彼はあごをさすった。つい意地悪い笑みがこぼれる。
「なるほどな。妬けるぜ、色男」
「ですがそれさえも、彼女を不幸にしたかもしれないと」
思わずにはいられないのです、と、ベノルは緑の双眸を歪めた。
「くそ真面目だな!」
からかい、話を変える。こんなにも痛々しい悲しみは、あまり見ていたくなかった。
「ちょうど、海賊の方も無事に片付いたところさ。あんたの代役の男は、立派に英雄を務めたぜ」
「あなたのご協力のおかげです。潮の流れ、天候の読み。スリノアにはない知識です。それが彼を勇気づけたのですよ」
「そうかい。たまたま魔法使いの野郎が選んだのが、俺の海だったなんてな。しかも、時を同じくして、ワオフじゃ大動乱の気配。この一連、偶然もいいところだ」
「ひとつだけ、偶然ではない出来事がありましたよ」
敬意をもって、ベノルが南国の領主を見つめる。
「あなたが私の前へ、過去の名前で現れたことです」
領主は、ゆっくりと、背もたれに身を預けた。もれたため息は、重く、苦い。
「あっさり死んでしまったなら、胸を痛めて忘れるだけだ。だが、負け戦で捕虜になって、スリノアの英雄と電撃結婚ときた。しかも、すぐ離婚で抜け殻状態。こんな噂ばかり届いては、心配で首を突っ込みたくもなるさ」
「しかし、過去を捨てたあなたにとって、勇気のいることではなかったかと」
「それだって、あんたがメルーに軍を連れて来るって聞かなければ、どうだったか分からない。たまたまメルーとスリノアが盛んに貿易を始めて、海賊が暴れた。それも、一度ならず二度も。やっぱり、偶然の産物だよ」
彼は自虐的に笑った。結局、状況に助けられて、罪滅ぼしを図っただけである。様々な事情や想いがあったにせよ、事実は揺るがない。健気な少女を、しろつめ草の野原へ置き去りにした、その事実は。
「とにかく、めでたしめでたし」
彼は陽気に言った。そして、根元だけ金髪ののぞく英雄へ、興味本位に尋ねた。
「あんた、これから国へ帰って、どうするつもりだ?」
「そうですね」
質問の意図を理解したからこそ、ベノルの顔に自嘲の色が戻る。
「本腰を入れて、結婚相手でも探してみます。色白で、慎ましい。いや、こんな男の妻になってくれる女性なら、誰でもいい」
「謙虚なことだ。若くハンサムな英雄だっていうのに」
茶化しても、ベノルは曖昧に笑むだけだ。
「では、そろそろ失礼します。早く部下たちを労ってやりたいもので」
「ああ。見送れなくてすまない」
「お構いなく」
彼は、この男を門まで送るための従者を呼んだ。
部屋を立ち去る、英雄の背中。
「おい」
彼は思わず、呼び止めていた。
ベノルが振り返る。
「…俺も、姫さんも、見ているからな」
拙い言葉の真意を、理解したかどうか。
スリノアの英雄はやはり、曖昧に笑んだだけであった。
部屋には一人、その主だけが残った。
ゆっくりと立ち上がり、杖に頼って移動する。二つの国が笑い合う彼の港街を、眺めるために。
「ワオフとスリノアも、こうなるんだろうな」
願いを込めた独白。そして、彼は様々な感情の入り混ざった、自虐気味な笑みを浮かべた。
ダナは、彼のことを、しつこく事細かに尋ねなかったようだ。
それが嬉しく、少し、寂しいのである。
これが、喪失ってやつか。
彼は悟った。そして、あの英雄が纏う闇に似たものが、まさに今、己の胸に宿ったことを、自覚した。
ワオフの王女編・終
こんばんは。12月の風です。
第三部が終わりました。
終章がなければ、それこそハッピーエンドってやつでしたね。第一部に続き、後味悪くてすみません(笑)。
次の第四部で、この物語全体がおしまいです。
第四部は、まだ解決していない部分を、描いていくことになると思います。これまでになく、毛色の違うものになるかもしれません。
時間はかかるかもしれませんが、少しでも良いものを書けるよう、頑張ります。
どうか、最後までお付き合いください!