第四章 真紅の輝き (4)
(4)
ダナは三階の自室にて、その男を迎えた。昨夜、凄惨な命のやり取りが為されたこの場所であったが、すでにその跡は綺麗に拭い去られている。別室に移ることもできたのだが、彼女はあえて、ここで彼との逢瀬を望んだ。彼が優雅とは程遠い、想像を絶する悪魔のような猛々しさを見せた、この部屋。
男は相変わらず猫背で、目元を薄汚い包帯で覆っていた。
「一日中待たせてしまって、申し訳なかったわね」
椅子を勧めたが、彼は動かない。扉から二、三歩入ったあたりで、だらりと両腕を垂らし、立ったままである。
「用件はなんだ」
低く、くぐもった声。ダナはいい加減、笑い出しそうになった。細い手を後ろへ回し、少しの距離をあけたまま、男の向かいに立つ。
「あなたは、非常によく働いてくれたわ。飛び入りの功労者とでも言うべきかしら」
思えば、始まりはこの男の登場であった。
「何か褒美を差し上げたくて。あなたの願いを、聞かせてほしいの」
男は、小さく肩をすくめた。
「礼なら、依頼主からもらう」
ダナは、ふふ、と笑った。
「ねえ、言ったでしょう。私は、わかっているのよ。あなたが欲しているのは、大金なんかじゃない」
無反応。
そうよね、とダナはまた胸の内で笑う。黙るのが、無表情でいるのが、一番、楽なのだ。
「あなたの願いは、故郷を取り戻すこと。もう二度と、戻ってこないというのに、わかっているのに、あなたは求めてやまない。過去で輝く、鮮やかな故郷を」
ワオフの女王は、自嘲にも似た笑みを、男へ向ける。
「そうでしょう? スリノアの英雄、ベノル=ライト」
彼は、やはり無反応である。ダナは面白がるように目を細めた。
「海賊討伐を放ってまで、こんなところへ。どんな願いが、あなたを動かしたのかしら」
遠征や行軍などの最中、上の者が別件で動くのは、よくある話だ。事前にしっかりと情報を流しておけば、敵に英雄の指揮であると思わせることができる。味方の士気を保てるような代役さえいれば、簡単に一人二役、並行して物事を進めることが可能なのだ。
ダナは意固地な無反応を受け、今度は挑発的に笑った。
「ねえ。そんな包帯越しではなく、ちゃんと見たらどう? 私、せっかくあなたに笑顔を向けているのよ」
髭の頬が、わずかに動く。
ダナは胸の前に両手を持ってきて、右手で左手を包んだ。
「それに、今、私の左の薬指に、どんな輝きがあるか、見てみたいと思わない?」
少女のように、悪戯っぽく笑む。
「その包帯を取ったなら、見せてあげるわよ」
あくまで高慢な態度を貫きながら、ダナの胸は淡い期待に押しつぶされそうだった。
お願い、早く答えて。早く私を安心させて。
流れる時間は、張り詰めていて、それでいてひどく、甘い。高鳴る鼓動。吐息の苦しさ。どうしようもなく潤む、熱に浮かされたような瞳。
男は、ついに彼女を裏切ることはなかった。
不意に、髭に隠れた口が苦笑に歪む。
「それは、逆らい難い誘惑だな」
ささやくように言いながら、彼は目元を隠す包帯をほどいた。
現れたのは、深い緑の双眸。
ダナの胸が痛む。彼の目は、こんなにも哀しい光をたたえていただろうか。いや、そうだった。そうであった。彼女が、見ようとしなかっただけだ。
「恐れ入った。長年付き合いのあるウェッジやソフィアでさえ、騙し通せたというのに」
ベノル=ライトは苦笑のまま、軽く伸びをし、肩を回した。育ちの良さが、すっとした背筋の立ち姿に垣間見える。髭をそり落とせば、気品漂う口元を見ることができるはずであった。声は聞きやすい高さで透き通っており、明確な発音で言葉を紡いだ。
「いつから、気づいていた?」
「あえて言うならば、最初から」
ダナは、すまし顔で答える。
「元々私は、あなたの容姿をよく覚えていなかったわ。だから、髪を染めたり姿勢を悪くしたり、そんな小細工は、あまり意味を為さなかった」
「と、いうことは」
「声よ。どこかで聞いたと思ったの」
ベノルは、軽く目を瞠る。
「だが、その声でさえ、皆は小細工に騙された」
「耳元で一晩中、愛を囁かれてはね。嫌でも記憶に残るわ」
英雄の顔が、ほのかに朱に染まる。同時に、涼しげな目元が切なく歪む。
胸を走る痛みと共に、まだこの男の愛が燃え尽きていないことを、ダナは知った。
「確信したのは、寝室から飛び降りた時よ。余裕がなかったのでしょうね、声を偽れていなかった。それからは、あなたはボロを出しすぎ。よくウェッジに気づかれなかったものだわ」
「彼は優秀だが、柔軟な発想は苦手だからな」
ベノルは、慈しみをもって部下を語った。
「足りないのは、それだけだ。ソフィアがもっと、つつけば良いものを」
英雄の言葉や微笑は、どこまでも上品でスマートだ。騎士の名門に育ったのだから当然と言えば当然であり、その貴公子たる振る舞いと容姿が、才能と実績以上に彼の名を大陸中に知らしめていることも、ダナはよく承知している。
彼女は焦れる想いを持て余し、緑の双眸へ強い視線を向けた。
紳士的な貴公子には、用はない。この男が見せた、野性味溢れる凶悪なまでの猛々しさ。それこそが、彼女を濁流のごとくさらっていったものだった。その片鱗をかいさぐるように、瞳をのぞきこむ。
ベノル=ライトは涼しく笑んで、彼女を見つめ返していた。
が、やがて何かに気づいたのか、その微笑を観念したような苦笑いに変える。
「さあ、美しい女王様。誘惑に負けた愚かな男に、悪魔の報酬を」
洒落た台詞に見え隠れする、焦燥と情熱。
ダナは相好を崩し、そっと、胸の前で重ねていた手をほどいた。優美な微笑みの乗る唇へ寄せられたのは、真紅に輝くルビーのリングだ。
「昔、私を愛した男が、くれたものなの」
「ああ、知っている」
「似合うでしょう?」
「最高だ」
二人は微笑み合う。悲しく、儚く。
ダナはしばしの間の後、視線をやや落として静かに言った。
「あなたの願いを、あなたの声で、聞かせて」
ベノルは、困ったように、曖昧に笑う。
「君は知っているはずだ。私の願いが、どれほど滑稽で、愚かであるか」
彼の声は、穏やかだ。過ぎるほどに。
「私は君に、かつての故郷のような色づきを見た。気が狂いそうなほどにそれを求めたのに、叶わなかった。考えてみれば、当然だ。全ては、還らない。叶わない」
ダナは黙して、ただ見つめる。絶望と喪失に囚われたままの、哀れな英雄を。
「だが、あの一連が過去になった最近でさえ、私は気になって仕方がなかった。君は幸せに笑っているだろうかと。何も得られなかったとしても、よかった。ただ……」
取り繕うように微笑み、彼は懺悔した。
「許されたかった。愛してしまったことを」
彼はこのまま、どこへ行き着くのだろう、とダナは考える。
いつかこの男も自分と同じように、別の形で、別の道で、幸福を得ることがあるのだろうか。この男が自分を救ってくれたように、彼も誰かに救われる日が来るのだろうか。
確かなことは、ひとつだけ。その未来で彼の隣にいるのは、ワオフの女王では有り得ない、ということ。
どうかしている、とダナは胸の中で自嘲した。とっくに、歯車は狂っていた。彼は彼女の故郷を焼いた男。彼女は彼を死ぬほど憎み、破滅へ追いやった女。もちろん、知っていた。どうにもならない、かみ合わぬ運命。だから、だからこそ、願うのだ。
「ねえ」
ダナは、静かに問いかけた。
「今夜ならば叶う小さな願いを、お互い、口にしてみない?」
彼女が言わんとすることを、男は敏感に察した。小さく息を呑む。
「ダナ…」
「私はね」
彼女は明るく、花のように微笑んだ。
「もし叶うのならば、今夜だけ、あなたが誰なのかを忘れたい」
だめかしら、と問う。答えを分かっていながら。
答える男の声は、彼女の予想以上に優しく澄んでいた。
「その願いは、叶うよ。叶えてみせる」
微笑む様は、やはり限りなく優しく、穏やかだ。
しかし、その表情とは裏腹に、緑の双眸には激しい情熱が宿っている。全てを飲み込み、焼き尽くすかのような、荒々しい炎。
その炎は、彼女の心を揺さぶってやまない。本当は、ずっとそれを求めていた。彼女の苛烈さを正面から受け止めようとしてみせたのは、ただ一人、この男だけだったのだから。
彼の愛を証する街を見るのが辛かったことも、贈られた指輪を捨てられなかったことも、愛をささやく彼の切なる声を忘れられなかったことも。
悲しみを産むだけであったすべてが、この夜、彼女の中で輝きを持つ。
夕暮れの静かな野原で距離を保ったまま微笑み合う、ワオフの女王とスリノアの英雄。その姿を描いた三枚目の美しい絵画として、その輝きは永遠に、彼女の胸へ残された。
終章へ続く