第四章 真紅の輝き (3)
(3)
祭りで目いっぱい体力を消耗した人々は、日が傾き始めると、早々に丘を下りて帰路へついた。
スリノア提督は、まどろむような静寂を味わい、穏やかな笑みを口元へ刻む。あんなにも故国へ帰りたいと願っていたのが、嘘のようだ。妻は護衛の任をおっていたはずなのだが、それを助太刀に現れたワオフの男達に丸投げし、ほぼ一日中、大衆の中で杯を片手に笑い転げていた。ワオフの雰囲気に、もう彼ら夫婦は飲み込まれているのかもしれない。
「不思議なものですね」
ウェッジは、今日一日の長い間、無言で共に時を過ごしてきた傭兵へと声をかけた。
二人は今、例のバルコニーへ出ている。広場を見渡せるこの場所から、後処理の指示を出して部下たちを動かすことは、提督にとって好都合であった。まるでそれをわかっているかのように、猫背の傭兵は城の壁にもたれて立ち、促さぬ限り動こうとしない。彼はここから、広場の空気を肌で読み取っているようだった。ダナが五人の男達に守られながら、民衆に紛れ、賑やかに平和に楽しむ様を。
一体、この男はいつ休んでいるのかとよくよく観察してみれば、昼に軽食をとった後の短い時間だけ、ここの壁に背を預けて足を投げ出していた。深く頭を垂れていたことから、眠っているのだろうと思いきや、ウェッジのささいな動きにいちいち反応し、わずかに顔を上げる。これでは通りがかった女中に毛布を頼むことさえできないな、と彼は辟易したものだった。
そして今、夕刻を迎え、ウェッジは初めて、提督としてではなく、傭兵へと語りかけた。
「私はスリノアが恋しい。それは、きっといつまでも変わることがありません。しかし、こうしてひとつの戦いを終えてみると、共にリスクを負った仲間が、いとおしくてたまらないのです。ワオフの王女、妻や若い部下たち、果敢で気さくな民。この地がいとおしい……まるで、スリノアを奪還した時のようです」
盲目の男は、何も応えない。
なぜか、その沈黙は彼の気を楽にさせ、饒舌を誘った。
「こうして、大切なものが、存在が、増えていくのでしょうか。そう考えると、長生きをするのも悪くない、と思えます。どのような苦境も悲しみも、志ひとつで生きる糧へと変わる。私の周りにいた勇士たちが体現してみせていたことが、ようやく、自分のものとなったように思います」
ウェッジは、再び広場へと目を落とす。噴水の周り、若者たちが酔って談笑している。まばらになった人々の輪から、ダナがさりげなく、離脱した。
「さて、そろそろのようです。美女があなたをお待ちですよ。と言っても、あなたは何も見えていないのでしたね。とても信じられませんが」
傭兵は、億劫そうに鼻をならす。
ウェッジは目を細め、試しにこの男をからかってみた。
「王女は、…いえ、女王閣下は、とても美しい方です。外見は言うまでもありませんが、賢さと、強さを秘めた美しさが溢れている。そう、思われませんか?」
やはり、無反応である。
「あなたは、そう思われているはずです。そうでなければ、女王が危惧したように、私の監視を振り切って行方をくらましていたでしょう」
「無駄な苦労は好かない」
傭兵は、倦怠感をそのままに両腕を垂らしたままだ。低い声は、辛うじて発音を聞き分けられる程度に、相変わらずくぐもっている。
「あんたを出し抜くのは、一苦労だろう」
「そのお言葉、身に余る光栄です」
ウェッジは湧き上がる高揚を抑えるべく、おどける口調を装い、努めて形式的に笑んだ。彼が膝を折るのは、スリノアの少年王、そして、英雄にだけと誓っている。いくらこの傭兵が彼を惹きつけたとて、卑しい身分の者にそれを悟られるわけにはいかないのだった。
「さあ、行きましょう。私も早く任務を終えて、妻とゆっくり酒を飲みたい。あなたとはこれっきりなのでしょうけれど、なぜか、また会えそうな気もします。その時は、ぜひ、味方であっていただきたいものです」
傭兵は面倒そうに、ごくわずかに肩をすくめる。
スリノア提督は苦笑しながら、無事、ワオフの女王との約束を果たしたのだった。