第三章 即位へと (4)
(4)
蜂起の騒ぎがスリノア提督の耳に入ったのは、すでに城が落ちた、深夜のことである。辛くも逃げおおせた高官の一人が、機転を利かせて報せたのだ。
城から少し離れた邸宅にいたストーラム夫妻は、愕然とする間もなく、身支度を整えて出なければならなかった。王女に楯突く輩であれば、スリノアの命を受けた彼らを亡き者にしようと考えてもおかしくはない。すでに手が回されていないのが不思議なほどであり、そのような場所へ王女が落ち延びてくるとも、到底思えなかった。彼らが留まる理由はない。
他の四人のスリノア騎士たちにも報せが舞い込んでいたようで、緊急時に落ち合う約束をしてあった湖のほとりに、彼らはほどなく集った。
「王女は、どうなったのか」
腕を組み、うなるようにつぶやくウェッジ。三日月が頼りなく照らす暗闇の中で、誰の目にもわかるほど、くっきりと眉間にしわが寄っている。
「絶対に無事よ。あの傭兵がついているもの」
妻の根拠のない言い分はさておき、今は無事を信じて行動したかった。なんとか合流せねばならないが、闇雲に探すわけにもいかない。情報が少ない今、城へ近づくなど、もってのほかだ。騎士の一人を犠牲にする覚悟で、密偵として送り込む他ないのか。
「あっ」
思案に暮れていると、ソフィアが声を上げた。
「忘れてたわ。裏の鹿の角。今朝、あの傭兵が、あなたに伝えろって」
それだけで、提督が理解するには充分であった。彼は騎士たちを引き連れて、移動を始めた。
どこの国にも街にも、裏の顔がある。そこは法の及ばない、金と仁義の世界だ。秩序の綻びを、法の穴を見抜く者がいる限り、この世界は決してなくならない。
ウェッジが妻を伴って足を踏み入れたのは、そんな裏通りの隅にある、薄暗い宿屋であった。安眠の象徴である鹿の角が、店頭に飾られている。カウンターで陰気に番をしている中年の亭主に、彼は言った。
「盲目の傭兵が厄介になっているはずだ。彼に会いたい」
はずんだチップを置く。
亭主はさっとかすめるように取り、しわがれた声で告げた。
「二階の六号だ。その向かいが、あんたら二人の部屋。外にいる四人は、一階の一番奥。すでに料金はもらってるよ」
部下たちを古びた部屋で休ませ、夫妻は六号室の扉を叩いた。
王女の凛とした声が、入室を許可する。ウェッジは安堵とともに、扉を開けた。
「良かった。こんなに早く合流できるなんて」
ダナは寝台に腰掛けていたが、立ち上がって二人を出迎えた。少し離れた壁には、ロックが相変わらずの倦怠感を纏って寄りかかっている。
「王女。ご無事で何よりです」
恭しく礼をする提督の横をすり抜け、ソフィアが王女の痩身を抱きしめた。
「良かった、本当に良かった。こんなことになるなんて!」
はじめは驚いて身を硬くした王女だったが、この友人の心情を照れくさそうに受け入れた。
「心配かけて、ごめんね」
ウェッジは微笑ましさに目を細めた後、傭兵へと向き直った。
「ロック殿。王女をお守りいただき、ありがとうございました」
「それが仕事だ」
くぐもった声の返答に、ダナが異議を唱える。
「もう少し、スマートに仕事をこなしていただきたいものね」
ロックは無反応である。訝り顔のソフィアへ、王女は明るく語った。
「この男、三階から私を抱いて飛び降りたのよ! むちゃくちゃだわ」
「…よく、ご無事で」
「木をクッションにしたのよ。私は無傷。彼は、背中にたくさんの枝が刺さって大変よ。幸い、軽い傷ばかりだったけれど」
様子からして、処置は済んでいるようだ。
少女のように高揚した笑顔のダナを、ウェッジは違和感をもって眺めた。こんなにも無邪気で健やかな王女は、初めて見る。これが本当のダナ=V=ワオフなのだろうか。そうならば、血気盛んなワオフの民が王女を慕うのも、心から納得できる気がした。明日の即位の前に、王女のこうした一面を見られたことは、スリノア提督にとって大きなことであった。
「そうだわ。ロック殿」
ソフィアが、割り込むように話題を振った。距離をとったまま、堅い声で尋ねる。
「あなた、今朝の時点でこの展開を見抜いていたのですか?」
ロックは一言、面倒そうに言い捨てた。
「可能性の話だ」
スリノア提督は、苦い思いで眉間を寄せる。確かに、そうなのだ。即位を明日に控え、頭をよぎった「可能性」ではあった。だが、ウェッジはそのための手を打たなかった。ロックは手を打った。その違いは致命的であった。
「そんなことより、逆転のシナリオを考えましょう」
王女が、挑戦的に笑んだ。
「と言っても、もうだいたい描けているのだけれど。真っ向勝負くらいしか手はないわよね」
大胆不敵なそのシナリオは、ほぼ賭博に近かった。だが、明日を逃せば負けである。この少人数で奮闘するしかない。
「みんなが私のために、どこまで頑張ってくれるか。それだけよ」
明るく微笑む、おてんばな王女。広場へ集まるワオフの民は、彼女を支持するに違いない。ウェッジとソフィアは、もとより全身全霊で剣を振るう覚悟だ。問題は、四人の部下たちの士気である。彼らはスリノアのために命をかけこそすれ、ワオフの王女のためには、どのくらい本気になれるであろうか。手勢が限られている分、個々の質が鍵を握るのだが、こればかりは説得してなんとかなるものではない。
ウェッジは階下へ降り、部下たちに夜が明けてからの動きを伝えた。彼らは神妙に聞き、戦いを誓ったが、その熱はやはり、高いとは言えない。
一抹の不安を抱え、提督は自室へ戻るための階段を上りきる。その目に、足を引きずるようにして近づいてくる盲目の男が映った。
「ロック殿。どちらへ?」
ちょっとした緊張に捕らわれながら、彼は優秀の過ぎる傭兵へ尋ねた。
「野暮用だ」
低い声は、面倒を嫌っていた。深追いできず、ウェッジは猫背を見送った。
早朝。
手際よく用意されていた馬と馬車はいいとしても、ウェッジは部下たちの様子を訝るよりなかった。宿の入り口に集合した四人のスリノア騎士たちは、揃って興奮をあらわにし、闘志のみなぎる瞳で、提督に熱く訴えたのだ。
「この戦いに参加できて、光栄です!」
歓喜に震えんばかりの彼らは、しかし、絶対に訳を話さないのだった。
困惑するウェッジに、王女が悪戯っぽく笑いかける。
「これで、問題はあらかた片付いたわね」
謎解きは、戦いの後に。スリノア提督は、苦笑いで応えた。
第四章へ続く