第一章 王不在の地 (1)
この物語は、「森と湖の国の物語1」の続編という位置づけです。
1を読んでいただいていなくとも、最低限、楽しんでいただけるようにしていく所存ですが、できれば1を読んでからお楽しみください。2はこの物語に直接影響はしていませんが、ぜひお読みいただいて、叱咤激励をください!
未熟者ですが、よろしくお願いいたします。
ワオフの王女編
第一章
(1)
星暦934年。
勇猛な民族ワオフの国は、宿敵スリノア王国の圧政の下にあった。肥沃な土地は理不尽に奪われ、高度な技術を誇る絹織物を、税として過酷に取り立てられた。それがもたらす莫大な富は、スリノアの繁栄を皮肉にも約束し、軍事的圧力は増す一方であった。
星暦935年。突然、ワオフ族に光が射す。スリノアの内乱である。中央の混乱は遠方の監視の目を弱め、ワオフに自治をもたらしたのだった。
当時のワオフ王は、歴代まれに見る文王であった。果敢な民族にはそぐわぬように見られたが、彼はこの機を逃さず、才知をもって国政に励んだ。一国家としての政治の仕組みを瞬く間に整え、絹織物を特産品として保護、価値を高めることに成功した。周辺の他民族を蹴散らすことも領土を増やすこともなかったが、ワオフ国は三年を待たずして、豊かさを手に入れたのである。
こうして、不当な仕打ちに苦しみ抜いた民族は、ようやく自由を獲得した。
スリノアに、王子と英雄ベノル=ライトが戻るまでは。
スリノア領西部には、荒野が広がる。わずかな草原と、たったひとつ、小さな湖があるのみである。
ワオフの城と街は、その湖のほとりに作られている。スリノア建国王に追いやられて後百五十年あまり、彼らはこの水をうまく利用することで生き長らえてきた。
質素な石造りの城には、ワオフの絶対神である武神を祀る間がある。が、そこは祈りを捧げる間ではない。武芸を磨くための、剣声鳴り響く鍛錬場である。武の民ワオフにとって、憩いの場とも言える場だ。毎日のように、荒くれ者から王族までもが集い、手合わせにより互いを認め合う場。
今は、閑散としている。
一人の女が、中央に佇むだけである。
長く艶のある黒髪は無造作にまとめ上げられ、褐色の細い首筋が剥き出しになっている。くすんだ白のワンピースは麻の粗悪品、ワオフ自慢の絹織物ではない。
女は黒曜石のような瞳を、巨大な武神の像へと向けている。手には、鍛錬用の剣。力なく、切っ先が石の床に触れていた。
「武神だからこそ、命を慈しむのは分かります」
口の中で、女は神へ問うた。
「ですが、望みも誇りも失った者にとって、自害を禁じる神の教えは」
酷い仕打ちです、と、これは声に出せず、胸の中で続ける。
「王女!」
突然の息弾む声が、天井までこだました。
呼ばれた褐色の美女、ダナ=ヴァルキリー=ワオフは、無気力に入り口を振り返った。
「ソフィア、何度言わせるの」
硬い表情で近づいてくる鎧の女に、ダナは抑揚なく言った。
「私はもう、王女ではない。ダナと呼んでくれて構わないわ」
ソフィア=ストーラムは王女から距離を置いて立ち止まり、呆れたように肩をすくめた。彼女の中肉中背の体を包む鎧には、スリノアの紋章が刻まれている。
「あたしの仕事は、あなたをワオフの王座に座らせることですから。誰がなんと言おうと、あなたは王女ですわ」
「滑稽なことね。私自身が否定しているというのに。スリノアもいい加減、別の手を考えたらどう?」
「あなた以外に、誰が新生ワオフ国の王にふさわしいと言うのです」
ソフィアは苛立たしそうに、肩にかかる赤毛の先を左手でいじる。その手の甲には、浅い傷跡が見られた。
「あなたは先王の才を受け継ぎながら、民の望む勇敢さをも持ち合わせていて。何より、ワオフの民を慈しんでいる。まるで英ゆ…」
己の言葉により、一瞬にして凍りつくソフィア。
対し、ダナは感慨なく無表情に先を拾った。
「まるでスリノアの英雄、ベノル=ライトのようだと言うわけね」
ワオフ族が自由と自治に輝きを放っていられたのは、わずか五、六年のことであった。
内乱によりスリノアを追われた王子と英雄が帰還し、奪還軍と称した軍勢でスリノア城を落としたのが、星暦942年。その後、ワオフは内乱の首謀者側により戦に巻き込まれ、結果として現在、再びスリノアの監視下にある。
それまでの圧政と違い、現スリノア王は共存の道を模索している。提督を派遣し、治安維持と制度の確立を進めながら、友好国として自立させようという腹のようだ。国民に絶大な人気を誇るただ一人の王族、ダナを王座に据えて。
どうでもいい、と、当の王女は取り合わない。ダナにはそれよりも、目前の女騎士のおののきように興味があった。スリノアの英雄の名をダナの前でこぼした者は、そろって皆、息を呑む。彼女がワオフに戻ってから、すでに一年の月日が流れようというにも関わらず。
英雄の、気が触れたような行動。その真相が、どれほど人々の関心と恐れをかっているのかを、ダナは思い知る。そして、彼女はこうした瞬間に、決まって自虐的に心で独白するのであった。真に気が触れていたのは、私の方であったのに、と。
「そんなことより、ソフィア。いいところに来たわね」
言いながら、ダナは武神の像の足元へと移動した。そこに束となって置かれている鍛錬用の剣を一本、拾い上げる。
「相手をしてちょうだい、スリノアの女騎士」
投げられたその剣を受け取り、ソフィアは不敵に一振りした。
「あら。あたし、手加減いたしませんわよ」
「おもしろいことを言う」
ダナが目を細めた瞬間、凛とした緊張が場に降りた。
動いたのは、ソフィアだった。力強い下段からの斬り込み。ダナは無駄のない動きでかわし、同時に剣を横に凪いだ。踏み込みが足りない。ソフィアの剣は辛くも速撃をはじき返した。
さっと後方へ退く両者。間を置かず、今度はダナが仕掛ける。バネのように素早く飛び出し、やはり凪ぐように剣を払う。
ソフィアは姿勢を低くかわし、会心の笑みを浮かべた。褐色の足を狙った、渾身の突きが繰り出される。しかしその刹那、ダナは痩身を宙へ舞い上がらせていた。白のスカートが反転し、華麗な着地になびいた。
「スリノア騎士の戦術は、相変わらず姑息ね」
ダナが挑発的に笑むと、ソフィアが同じ顔で返す。
「勝った方が正義ですわ。どんなに理想を掲げても、負け犬は遠吠えることしかできないのだから」
「口達者だこと」
剣呑な空気、会話。ぞくりと寒気のするほどの高揚。ダナは嬉々として、その愉悦を味わった。これこそが己の存在意義であるとの認識から、彼女はより貪欲に、それを求めて高みへ上ろうとする。
「真に心得ある者は、剣で己を証するものよ」
ダナは麻のスカートを縦に裂き、たくし上げて結んだ。
ソフィアはさして驚きもせず、不敵に、剣を構えなおす。
その時であった。
「これはこれは」
入り口からの卑猥な声が、戦士たちの気高い楽しみを奪い去った。
「王女様が美しい脚を、惜しげもなく披露しておいでだ」
男は高らかに王女の不貞を謳い上げた。文官が好むローブを着た、痩せた中年の男である。
剣を下ろし、ソフィアが露骨に不快感を示した。
「シーラ殿。神聖な武芸の最中にそのような発言、ワオフの民とは思えませんね」
アイザック=シーラは、嫌味たっぷりに肩をすくめた。
「神聖なる場で淫らな姿の王女には、お咎めなしですか」
「失礼したわね」
ダナは毅然と向かう。
「慣例に従い、剣でご叱咤くださる? 貴公がワオフの高官であるならば」
ダナが思うよりも、その言葉は絶大な挑発であったようだ。男の目が、暗く据わった。
「生憎、武芸はたしなみませんので。それでも立派に王は務まります。王女、貴女のお父上のように」
ダナは小さく鼻で笑い、早くこの男をここから追い出そうと試みた。
「ところでシーラ殿。このような貴公に縁のない場所へ、一体何用かしら」
「そろそろ、色よい返事でもいただけないかと思いましてね」
白々しく、アイザックは肩をすくめた。
「長らく王が不在というのも、貴女の望むこところではありますまい」
ソフィアが睨みをきかせる。ダナは嘆息した。
「言ったはずよ。結婚するつもりはないわ。たとえ相手が、どんな男でも」
「しかし王女」
アイザックは、嘲るように笑った。
「貴女と結婚しなければ、王として認められません。私が望むものはワオフの王座、ただひとつ。つまり、形だけでも私の妻になっていただければ、こんな煩わしい会話をすることさえ、なくて済むのですよ」
道具扱い。しかし、ダナには特に感慨はない。むしろ、下心を隠して口説いてくる連中よりも、いくらかましに思えた。
「貴公が王になるための近道として、私ではなく、スリノアに掛け合うことを提案するわ」
「十日差し上げます」
アイザックはダナの言葉を無視し、真顔で告げた。
「それまでに良い返事をいただけない場合、こちらにも考えがございますので。貴女がその賢さで、円満に事を進めることを願います」
ようやく去った男の後ろ姿を見送りながら、早速ソフィアが舌打ちし、忌々しそうに吐き捨てた。
「王女。よろしいのですか。あのような男がワオフの頂点に立つかもしれないのですよ」
「まさか」
取り合わないダナに、ソフィアは深刻に告げた。
「彼の不穏な動きが報告されています。ワオフの高官たちを抱きこみ、一大勢力を形成しつつあるのです。今、ウェッジが王女の警備を強化する準備をしています。難航しているようだけれど」
ワオフ側の人間は信用できない。だが、スリノアから派遣された人材は少なく、手が回らない。
「これからは、一人で出歩くことを控えていただきたいわ。今だって、あの変態おやじよりもあたしが先に見つけていて、本当によかった!」
騎士の身なりにそぐわない雑言を、ダナは微苦笑で流した。そして、胸の内でつぶやく。
もう、放っておいてほしい。このまま無気力に死なせて、と。